記憶のささくれ
うたう
記憶のささくれ
もうすっかり春ですね。
せっかくですし、少し歩きましょう。
寒くありませんのでお構いなく。アロハシャツが好きなんです。でもアロハはまだ早すぎますかね。
ところでお名前覚えてらっしゃいますか?
いえ、僕のではなく、あなたの名前です。
いい匂いですね。ここまで漂ってくるなんて、千里香とは本当のようです。
娘さんのことはどうです?
彩ちゃん、三歳。覚えていませんか。
記憶のささくれ。僕らはそう呼んでいます。人はショックなことがあると無意識に記憶を消すことがあります。さながらささくれの下に新たな皮膚を再生するかのように、本来の記憶を切り離して辻褄の合った記憶を作り出すわけです。
ええ、実は今、娘さんのところへ向かっているんですよ。
それにしても沈丁花はうっとりするほど甘くていい香りがしますね。
あなたの身に何が起きたのか、そろそろ思い出したのではないですか?
記憶と嗅覚は密接な関係にあるのだそうです。五感のうちで嗅覚だけが唯一直接的に海馬を刺激することができるのだとか。
そうです。あなたは彩ちゃんを乗せて、自転車で保育園に向かう途中でした。信号のない交差点でのことでしたが、自動車のほうがきちんと一時停止していれば起きなかった事故だったでしょう。
運転手を恨むこともできますが、そんなことをして貴重な時間をふいにして欲しくはないです。
あ、見えてきましたよ。
沈丁花の咲くお宅のそばの電柱に花を供えているのが、彩ちゃんと旦那さんです。幸い、彩ちゃんはかすり傷ですみました。
どうぞ、抱きしめてあげてください。直接触れることはできませんが、きっとぬくもりは伝わるはずです。
では、四十六日後に改めてお迎えに参ります。
それまでの時間が優しさに満ち溢れたものとなりますように。
僕ですか?
人間からは死神とも呼ばれたりする存在です。
骸骨に黒いローブに大鎌って、あれは悪趣味な先達のひとりがやったコスプレですよ。アロハのほうが断然いいでしょ?
記憶のささくれ うたう @kamatakamatari
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