隣の席の女子にハンドクリームをもらう話

かどの かゆた

隣の席の女子にハンドクリームをもらう話

「おこづかいを貯めてね、買ったんだよ」


 隣の席の貫井さんは、学生カバンからハンドクリームを取り出した。高級感のある出で立ちだった。僕はよく知らないけれど、ハンドクリームってわざわざお金を貯めて買うものなんだろうか。


「良い香りだし、つるすべぷる人類になれる」


「全女性がなりたそうな人類だ」


「性別関係なくない? 男女問わず、手は綺麗な方が好ましいよ」


 言われて、貫井さんの手に目が行く。

 なるほどハンドクリームにお金をかけるだけあって、彼女の手はつきたてのお餅みたいな滑らかさがあった。


「ささくれ」


 僕が貫井さんの手を見ている間、彼女はこっちの手を見ていたらしかった。

 自分の手元に視線を移す。シャープペンシルを握る男の手は、つるすべぷる人類とは言い難かった。乾燥のせいか、ささくれまである。


「うらやましかろう」


 貫井さんは僕のケアも何もない手を尻目に、ハンドクリームを手のひらに出す。乳白色のクリームが、なんだかとても良いものに思えた。


「このクリーム、ものは良いんだけど、やわらかくてちょっと出過ぎるんだよね」


 言いながら、貫井さんは両手をぬるぬる動かして、クリームを満遍なく塗り込む。何となく会話が途切れて、僕は午後に提出する課題に向き直ろうとする。


「へい、はいたーっち」


 すると、貫井さんが両手をこっちに向けてきた。

 え、何?


「は、はいたーっち」


 とりあえず応じてみる。

 互いの手のひらがぴったりつくと、貫井さんのクリームがこっちの手についた。


「……えっ」


 貫井さんの指が、僕の指の間に入ってくる。そして、さっき彼女が自分の手同士でやっていたように、僕の手に満遍なくクリームを塗りこんでいく。

 目の前の光景はちょっと非現実的で、感覚はリアルだった。他人に手を触られるのがこんなにくすぐったいとは。


「余ったから、あげる」


 貫井さんは僕の顔を見て、にやりとした。




 それからというもの。

 貫井さんは時折、ハンドクリームを取り出しては、僕に分けてくれるようになった。高いやつらしいのに、ありがたいことだ。

 しかし、決してチューブから僕の手のひらに出してくれることはない。僕はあくまで、彼女の手に残った余分なクリーム、つまりおこぼれを貰うのみなのだ。


「ささくれ、治ったね」


 貫井さんは僕の指先に丁寧にクリームを塗りこんでいく。

 僕の手は前よりずっと綺麗になっていた。男友達や母親に驚かれるくらいには、しなやかな肌だった。


「おかげさまで」


「まぁ余りもんだから」


 貫井さんはそう言うけれど、ハンドクリームは結構な勢いで減っていた。

 それに、席替えの時期も近かった。

 ささくれが治ったのは、何かの予兆に思えた。でもそんな考えはセンチメンタルすぎるし、貫井さんと僕はクラスメイトである他は、手だけの関係なので(どういう関係?)、いつどういう風に終わってもおかしくはない。


「君って、手が綺麗だよね」


 そう言われたのは、後ろの席の女子にプリントを渡した時だった。


「そうかな」


 ちょっと得意になって、僕はとぼける。


「うらやましいなぁ。私すぐ肌荒れするから」


 その女子が手に触れてきたので、僕は固まってしまった。貫井さんには好き放題にされている僕の手だけれど、他の人、それも女子に触られたら、そりゃあ驚く。

 ふと視線を横に向けると、貫井さんはこっちを睨んでいた。


 その後、休み時間になってすぐ、貫井さんは短く息を吐いて、それから腕組みした。


「なんか、モテてんじゃん」


「おかげさまで……?」


 別にモテてなどいないが、さっきの会話が生まれたのは間違いなく貫井さんのおかげだろう。


「うざ」


 普通に悪口を言われた。

 貫井さんは口をへの字にひん曲げて、殆ど無意識みたいに学生カバンからハンドクリームを取り出す。そして、自分の手にそれを出した。


 僕は貫井さんに向けて、両手を差し出す。


「ん?」


 貫井さんは僕の行動に、きょとんとした。

 あ、そうか。


「えっと、ごめん。ハンドクリーム出したから……なんか、貰えると思っちゃった」


 言いながら、心臓がむず痒くってたまらなかった。

 僕はなんてアホな勘違いをしたんだろう。


「……ばかすぎ」


 貫井さんは、それだけ言って、机に突っ伏した。声を押し殺して笑っているようだった。


「ばかって、いや、確かにばかだけど」


「だって、もう、それ、パブロフの犬じゃん。男子高校生がお駄賃もらう子どもみたいに純粋な目ぇして両手出してきてさ……面白すぎ」


 貫井さんは耐えかねて、大きく声を出して笑った。最終的に苦しそうになるくらいの大爆笑だった。貫井さんがあんなに笑ったのは初めて見た。そんなに僕は面白かったのだろうか。




 ほどなくして、席替えが行われた。ちょうど、ハンドクリームも底をつきたころだった。


 貫井さんと僕は、前よりちょっと後ろの席で、今もまだ隣同士でいる。

 なかなか都合のいい偶然もあるものだ、と思う。そして、僕の愚かな衝動買いが無駄にならなくて良かった、とも思う。


「貫井さん、手の調子はどう?」


「へ?」


「いや、その、えっとさ」


 僕は学生カバンから、ハンドクリームを取り出した。貫井さんが持っていたやつに勝るとも劣らない高級品だ。


「このクリーム、ものは良いんだけど、やわらかくてちょっと出過ぎるんだよね」


 僕はわざとらしく、いつか彼女が言った台詞をなぞった。

 そして、自分の手のひらにクリームを出す。


「…………じゃあ、もらってあげようか」


 貫井さんは僕の手を取り、自分の手と重ね合わせた。

 彼女の手はひどく熱かったし、汗ばんでいた。多分、僕もそうだった。


 

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