第29話 第三王子エルフリート
ランツの言葉に、調査官は顔を赤くして立ち上がった。
唇を戦慄かせ、何かを口にしようとしたそのとき、魔術局局長がすっと右手を上げて発言を制した。
丸眼鏡をかけた老年の魔術師は、ランツに微笑みかけると、恭しく御影の書を手に取る。
「ランツさんといいましたか。いささか乱暴なやり方なのは感心しませんが、せっかくですから拝見いたしますよ」
柔らかで穏やかな話し方は、トポル局長に似ていた。魔術局局長の顔がこちらへ……俺の横に座るトポル局長に向けられる。
ふたりは意味ありげに視線を交わし、互いに悪戯っぽい笑みを浮かべた。
ランツは相も変わらず、不遜な態度で続ける。
「ぜひ。今すぐ見てください」
「せっかちですねえ」
ほほ、と小さく笑ってから、魔術局の局長は書の表紙を撫でた。丁寧に、慈しむように。魔導書を扱いを知っている人間の手つきだった。
「議長。少しお時間をいただいても?」
「手短にお願いします」
魔術局の局長はゆっくりと書の頁をめくった。二枚、三枚と進めていき、ふと手を止めて目を細める。
そして指先で記された術式をなぞっていく。辿られた頁から、ぼんやりと光が浮き上がるのが見えた。
もう一度手が掲げられたとき、その指先には赤く揺らめく小さな炎が灯っていた。魔術師としては初歩中の初歩の術式だ。
なるほど、という呟きとともに手が振られると、炎は一瞬にして消えた。議会中の視線が、彼のもとへ注がれている。視線を受け止めて口元を緩めると、老練の魔術師は御影の書を静かに閉じた。
「ランツさん」
「はい」
「あなたはこれに価値があると?」
「そのとおりです。今回は状況が許さなかったので粗い仕上がりになりましたが、魔術局側からの支援をいただければより品質の高いものをお出しできます」
「ほう」
「再び支援していただくのは心苦しいですけれど」
とても心苦しいと思っている態度ではなかった。
一度失敗しておいてなにを馬鹿なことを、という囁きがあちこちから漏れたが、ランツはあくまでも堂々としていた。
局長はまた笑ってから、ほう、と小さく息を吐いた。その真剣な眼差しが、ランツを射抜く。
「この国を今支えているのは、魔導書を読み解き術式を組む魔術ではありません。時代は変わりました。人々が必要とするのは、あくまで魔術が組み込まれた
ランツがわずかに息を呑む。視界の隅で調査官が下卑た笑みを浮かべたが、魔術局局長の言葉は続いていた。
「しかし近年、私には危惧していることがあります」
御影の魔導書に視線を落とし、彼は言う。
「魔術局で働く魔術師は、決まり切った手順通りに術式を
顔を上げた彼は、再びランツを見つめた。
議会は静まり、国の魔術師たちを統べる男の言葉を聞いていた。
「恥ずかしながら、今魔術局で働く若手のなかには、
おそろしいことです、と彼は続けた。
「この状態が続けば、将来なにが起きるか。術式がなんたるかを知らない魔術師だけが残り、もし
皺に埋もれかけてもなお強く光る瞳が、再びトポル局長を捉える。
口調はなおも穏やかなまま、魔術局局長は言う。
「かつて私も、それはそれは厳しい先輩からありがたいご指導をたまわったものです。そしていつも言われたものです。魔術を正しく使いたいのなら、決して基礎を忘れてはいけない、と」
思わずトポル局長の顔を見てしまう。
「それは厳しい先輩」という印象からはあまりにも遠い、のんびりとした笑みが浮かんでいる。
けれど同時に思う。
その信念を持っているからこそ、祖父は印刷局の長としてトポル局長を選んだのではないか。議長、と魔術局局長は口を開く。
「魔術局の意見として申し上げます。技術が進んだ今だからこそ、魔術の原点が記されている魔導書は必要と考えます。もちろん大量に復刻する必要はありません。ただ、魔術師の知識の寄る辺として、後世へ残してもいいのではないでしょうか」
「管理体制の問題があります!」
話を聞いていた調査官が、耐えかねたように声を上げた。
ランツがこれ見よがしに舌打ちするが、それを睨みつけ言葉を続ける。
「先ほどご説明したとおり、老朽化した印刷機四台をその未熟な技師がひとりで見ているのです。また同じような事故が」
「もう事故は起こらない」
食いつくようにランツが反論した。
調査官にきつく視線をぶつけ、ずかずかと目の前へと歩み寄る。
「前回、恵まれた環境で復刻印刷に取りかかれるという事実に、僕が浮かれていたのは認めます。想定が不十分だった。これは僕の落ち度です」
「そうだろう。それなら」
「いいえ。同じようなことは起こりません。僕は優秀な印刷技師です。あなたとは違い考えも柔軟だ。だから失敗から学ぶことができます。それに」
ランツは口をつぐむ。
一瞬その唇が震えたのを、俺は見た。
「誰かに怪我をさせる恐ろしさを、二度と味わうつもりはありません」
事故が起きてから、ランツがずっと俺の怪我を気に病んでいたことを知っている。
考えが柔軟かどうかは……まあ俺から見ても疑問があるが、ランツは素直で真っ直ぐな人間だ。ランツをずっと見つめている俺が言うのだから、間違いない。
しかし調査官は、そんなランツを鼻で笑ってみせた。
「そんなことが事故を起こさない理由になると思うのですか」
「思いますね。事故は起こりません。そして今聞いたとおり魔術局の支援も得られる」
「では予算の問題はどうします」
すかさず突き出された言葉に、ランツは一瞬怯んだ。
そしてその隙に、調査官は財政局の職員たちへと顔を向け、得意げに顎を上げた。
「毎年の計上を見れば、魔術局へ割かれる予算へ反対する意見が多い。さほど成果が出せないというのに、これほど国に負担を掛けるのはいかがなものでしょう」
「ああ、もう! いちいちうるさいな! あんたの財布から出てるわけじゃないのにぐちゃぐちゃ言うな!」
「ランツ!」
口の悪さを隠さなくなってきたランツに、俺は思わず立ち上がった。言いたい気持ちは分かるが、この場でいつもの調子を出されては困る。
周囲の視線が俺へと向けられる。
イェルターはあくまでも冷静な眼差しだった。
「議長、発言をしても?」
「ええ、よろしいですよ。エルフリート殿下」
ここでも俺は「殿下」だ。
この事実は、どうあっても動かすことができない。
席を離れ、ランツのもとへと歩み寄る。
ランツは俺を見上げたあと、唇を尖らせてうつむいた。
魔導書の説明はランツに一任すると決めていたが、最後まで通しきれなかったのが悔しいのだろう。
ひとつ深呼吸をして、おれは調査官を見つめる。軽く握った掌に汗が滲んだ。
これから先に話すことは、ランツにもトポル局長にも伝えていなかった。
俺が一人で考え、結論を出したことだ。
俺の、いや、俺たちの未来のために。
「今回王宮からの命を破り、御影の魔導書を刷らせたのは私の指示です」
ランツが驚いたように顔を上げた。
なにか言いかけようとするのを、視線で止める。ここは俺が話さないと、意味がないのだ。
「許されないことだとは重々承知です。そして以前、私は魔術局に王族として圧力をかけ、無理に材料の発注を強いたこともあります。これについても咎めを受ける必要があると考えています」
遠くでルベルがそわそわと肩を揺らす。心配性の兄のことだ。今すぐ飛び出してきたいのを我慢しているのが分かる。
調査官はいぶかしげに俺を見つめていた。
「そして予算の関係です。これはほかのところから回すことができます」
「ほかのところ? ほう、殿下。それはどこから?」
そんなあてはないだろう、と調査官の顔には書いていた。
この男には分からないだろう。
決定的に無駄な予算が割かれている先が。
細く息を吐いてから、俺は告げた。
「第三王子エルフリートに対しての予算です」
「……なんですって?」
「王族としての私に対して掛けられる予算を、すべて印刷局に充てればよいのです」
数瞬の沈黙のあと、議会が一斉にざわめいた。
エル、と震えた声で俺を呼びながらランツが袖を引く。
俺はそちらへ顔を向けようとはしなかった。
もう決めたことだ。後戻りするつもりはない。
「私は王族にふさわしくありません。市井に下り、ひとりの国民として働き、この国に尽くします」
エル、とランツが再び鋭く俺を呼ぶ。
今は黙ってろ、と言おうとしたとき、凜然とした声が議会に響いた。
「よろしいのではないですか」
低く、それでいて威厳に満ちた声だった。
顔を向ければ、着席したままのイェルターが、一段高いところからこちらを見下ろしていた。議長が俺とイェルターを見比べながら、渋い顔をする。
「しかし、イェルター殿下」
「たとえ弟といえど、エルフリートの行動は目に余ります。本人が望むのであれば引き留める理由はありません」
有無を言わせない迫力をたたえて、イェルターは俺を見る。
肉親へ向けるたぐいの視線ではなかった。
当然だ。イェルターは生まれながらの為政者なのだから。
「父には私から話しましょう。印刷局への咎めも含めて、エルフリートの王族としての権威剥奪は十分な対応かと」
ゆっくりと指を組みながら、次期国王は続けた。
「細かい調整は必要でしょうが、エルフリートへ掛けられる予定だった予算を印刷局へ回すことは不可能ではないでしょう。どの道、王位継承は望めない立場です。この先数十年かけていたずらに予算を食い潰すくらいなら、ザーロイス王国のために身を粉にしてもらった方がよほどましというもの」
「殿下、ですが」
ルベルが顔を真っ青にしているのが見える。
隣ではランツが、向こうではトポル局長が困惑しきっていた。
イェルターと目が合う。冷たく非情な瞳だ。けれど俺には、兄の真意が分かる。
好きなようにやったらいい。
「恥を知りなさい。エルフリート」
俺にはできて、イェルターにはできないこと。
兄は俺に、自由を託そうとしていた。
「我が王族に、エルフリートは必要ありません」
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