第27話 祖父の声


 

 局長の手には、調査官が去り際に押しつけていった審議会への召喚状が握られていた。

 呼び出しは十日後。もちろんその間、復刻印刷の作業は一切認められていない。

 珍しく険しい表情を浮かべていった局長だったが、ふう、とひとつため息を吐き、それからいつもの笑顔を俺たちに向けた。


「大丈夫、何とかなるよ」


 それが気休めだということはすぐ分かった。俺たちの反応を見てそれを察したのか、局長の笑顔は苦笑いに変わる。


「……あの様子じゃ、厳しいかもしれないね」

「そうでしょうね」


 ランツが静かに答える。一番悔しい思いをしているのがランツだということは分かっていた。これまでの努力が、すべて消えようとしている。

 トポル局長は印刷機を見上げ、目元を緩めて穏やかに言った。


「時代が進んだからといって、途切れさせてしまうのは惜しいんだけどねえ」


 普段休憩中に話をするような気安さだった。局長の厚い掌が、機械の表面をそっと擦る。


「たとえば、もう印刷技師がいないとか、版移しができる魔術師がいないとなれば、少しは諦めもつくんだろうけど。まだ現役の職人さんがいるのに、突然ひとつの文化をなくしてしまうのはどうなのかなあ、と僕は思う」


 一度失われたら、二度と戻らないものだから。

 柔らかな声が、胸に染みこむようだった。


「とりあえず、僕はできる限りの根回しでもしておこうかな」


 局長は明るくそう言うと、首を傾げるランツに片目を瞑ってみせた。


「僕もね、昔は魔術局のそこそこ良いところにいたから」

「初耳です。左遷されたんですか?」

「……ランツ」


 思い切り失礼なことを尋ねたランツを肘で小突く。いくらなんでも、真正面から訊くことではないだろう。

 トポル局長は「ランツ君はさすが厳しいねえ」と楽しそうに笑ってから、緩く首を横に振った。


「一応、左遷ではなかったよ。古くからの友人に頼まれてね。当時は何それ面倒だなあって思ったけれど、今は感謝している」

「……友人、ですか」

「そう、君のよく知っている人だ。今はもういないけれど」


 局長はそう言って、俺に意味ありげに微笑んだ。誰かによく似た笑顔だった。穏やかで、優しくて、深い知識と理解を兼ね備えていた……俺の祖父と。

 虚を突かれた俺の隣で、ランツが怪訝そうに訊く。


「どなたです?」

「ふふ、エル君に訊いたらいいよ」

「はい?」

「とにかく、僕は出かけてくる」


 あまり時間がないから、とトポル局長は続けた。俺とランツに視線をすべらせて、普段見せる気の抜けた表情で言う。


「できる限りのことはしよう。意味があるかどうかは、今考えることじゃない」



 ◆



「……とは言ってもねえ」


 残された俺とランツは、特に何も思いつくことなく椅子に着いていた。ランツに調査官に言い返したときのような勢いはなく、気が抜けてしまったように見えた。


「悲しいほどに何も思いつかない。エルは?」

「悲しいほどに同じく」

「だよね」


 ランツは小さく笑うが、すぐにその口元は歪んだ。続けてじわりと瞳が滲み、それを隠すように俺から顔を背けて眼鏡を取った。見られたくないだろう、とは思ったが俺はそのすぐ隣へ椅子を引き、肩を引き寄せた。


「空気読んでよ」

「読んだ結果だ」

「ばかじゃないの」


 言い返す声にも切れがない。

 押さえた手の隙間から、ぽつりと透明な滴が落ちた。


「ランツ」


 肩を掴んだ掌に力を込めれば、細い身体はすんなりとこちらへ傾いだ。緊張の糸が切れたのか、華奢で骨張った身体が震えていた。

 声にならない泣き声でうめくランツに、ずきりと胸が痛む。


「考えても、仕方ない、ことだけど……」

「ああ」

「……もっと、何かできたんじゃ、ないかって」

「そうか」

「エルに怪我、も、させなくて、よかったんじゃないかって……」


 ランツの後悔が深い。きっとこれまで、くり返しすべての行程を思い返したに違いない。どこかでこの事態を予測して、修正できなかったのか。あのとき、できることはほかにもあったかもしれない。


 真面目なこの男のことだ。何度も何度も同じ考えを巡らせて、きっとそのたびに打ちのめされた。

 あの日、俺たちは持ち得る知識と、できる限りの準備を整えたうえで印刷機を稼働した。そして失敗した。

 ランツのせいじゃない、と言ったところでこの後悔は消えない。


「印刷機も用紙も、水気に弱いんだろう?」

「それ、今言う?」


 手を寄せてわずかに顔を覗かせたランツが、真っ赤になった目で恨めしげに俺を睨む。しばらく見つめ合ったあと、ランツは小さく笑って涙を拭った。

 微笑みを向けて涙や鼻水で汚れた顔を布で拭ってやると、「痛い」と不満げに文句を言われる。

 ここ数日張り詰めていた空気が緩み、ランツは眼鏡をかけ直して細く息を吐いた。


「……ありがと」

「え?」

「少しだけすっきりしたよ」


 ランツはすっと背を伸ばしたかと思うと、机の上の資料にじっと視線を向けた。横顔は真剣で、今から突然作業を始めてもおかしくない雰囲気だった。

 そう、今から作業を。


「作業……」

「エル?」


 黙り込んだ俺に、ランツが首を傾げる。

 頭のなかが急に冴えていく気がした。つい先ほど見た、トポル局長の顔を思い出す。そして、幼いころに聞いた祖父の声も。


 ――魔導書には、この国で生きた者たちの人生が込められているからね。


 日はまだ高いところにあった。日差しを浴びて、巨大な四台の印刷機がそびえ立っている。


 本当にやりたいこと。

 俺が第三王子であること。

 すべての始まりの魔導書。


 たくさんの人を巻き込むことになる。理解は得られないかもしれない。けれど、試す価値はある。


「ランツ」


 眼鏡越しの瞳をのぞき込む。

 ランツは俺の眼差しに気圧されたように、後ろに身を引いた。


「用紙の巻き込みの原因は、もう分かってるんだよな?」

「……嫌み?」

「ちがう」

「ならよかった。もちろん分かってるよ。さっきの髭オヤジにも言ったけど……」


 そこまで言って、ランツははっと目を見開いた。俺の質問の意図を悟ってくれたのかもしれない。

 本当に? とランツの唇が動いたが……それは笑みのかたちを作っていた。


 今、印刷局は王宮から出された公的な書面により、稼働停止の命を受けている。


 だが書面だけでは、本当の意味で稼働を止めることはできないのだ。




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