第27話 祖父の声


 結果として、調査官による「調査」は実に便宜的なものだった。

 それぞれの印刷機にざっと目を走らせただけで、トポル局長とランツの説明のほとんどを聞き流しているように見えた。

 いけすかない男たちが立ち去ったあと、作業場は重い沈黙に包まれた。

 局長の手には、調査官が去り際に押しつけていった審議会への召喚状が握られている。

 呼び出しは十日後。

 もちろんその間、復刻印刷の作業は一切認められていない。

 珍しく険しい表情を浮かべていった局長だったが、ふう、とひとつため息を吐き、それからいつもの笑顔を俺たちに向けた。

「大丈夫、何とかなるよ」

 それが気休めだということはすぐ分かった。

 俺たちの反応を見てそれを察したのか、局長の笑顔は苦笑いに変わった。きまり悪そうに頬をかきながら、ぽつりと続ける。

「……あの様子じゃ、厳しいかもしれないね」

「そうでしょうね」

 ランツが静かに答える。一番悔しい思いをしているのがランツだということは分かっていた。

 これまでの努力が、すべて消えようとしている。

 トポル局長は印刷機を見上げ、目元を緩めて穏やかに言った。

「時代が進んだからといって、途切れさせてしまうのは惜しいんだけどねえ」

 普段休憩中に話をするような気安さだった。局長の厚い掌が、機械の表面をそっと擦る。

「たとえば、もう印刷技師がいないとか、版移しができる魔術師がいないとなれば、少しは諦めもつくんだろうけど。まだ現役の職人さんがいるのに、突然ひとつの文化をなくしてしまうのはどうなのかなあ、と僕は思う」

 一度失われたら、二度と戻らないものだから。

 柔らかな声が、胸に染みこむようだった。

 改めて、罪悪感と後悔に苛まれる。あのとき、俺がランツを待っていれば。自分で勝手に判断しなければ。

 申し訳ない、と口にしようとして、すんでのところで止めた。

 今ここで謝りたいのは、俺自身が楽になりたいからだ。

 局長もランツも、今回の件が俺のせいだとは考えていないのは分かっている。だから、ふたりとも俺を許すだろう。でも、言葉だけで謝罪と許しを重ねたところで、何の解決にもならない。

「とりあえず、僕はできる限りの根回しでもしておこうかな」

 局長は明るくそう言うと、首を傾げるランツに片目を瞑ってみせた。

「僕もね、昔は魔術局のそこそこ良いところにいたから」

「初耳です。左遷されたんですか?」

「……ランツ」

 思い切り失礼なことを尋ねたランツを肘で小突く。いくらなんでも、真正面から訊くことではないだろう。

 トポル局長は「ランツ君はさすが厳しいねえ」ところころと楽しそうに笑ってから、緩く首を横に振った。

「一応、左遷ではなかったよ。古くからの友人に頼まれてね。当時はええ~、何それって思ったけれど、今は感謝している」

「……友人、ですか」

「そう、君のよく知っている人だ。今はもういないけれど」

 局長はそう言って、俺に意味ありげに微笑んだ。

 誰かによく似た笑顔だった。

 穏やかで、優しくて、深い知識と理解を兼ね備えていた……俺の祖父と。

 虚を突かれた俺の隣で、ランツが怪訝そうに訊く。

「どなたですか?」

「ふふ、エル君に訊いたらいいよ」

「はい?」

「とにかく、僕は出かけてくる」

 あんまり時間がないから、とトポル局長は続けた。

 俺とランツに視線をすべらせて、普段見せる気の抜けた表情で言う。

「できる限りのことはしよう。意味があるかどうかは、今考えることじゃない」



 ◆



「……とは言ってもねえ」

 残された俺とランツは、特に何も思いつくことなく椅子に着いていた。

 机に広げられたおびただしい資料は、印刷に取りかかったあの日のままだ。

 肘をつきぼんやりと印刷機を眺めるランツには、調査官に言い返したときのような勢いはなく、気が抜けてしまったように見えた。

「悲しいほどに何も思いつかない。エルは?」

「悲しいほどに同じく」

「だよね」

 ランツは小さく笑うが、すぐにその口元は歪んだ。

 続けてじわりと瞳が滲み、それを隠すように俺から顔を背けて眼鏡を取った。

 ランツが手の甲で目元を押さえる。

 見られたくないだろう、とは思ったが俺はそのすぐ隣へ椅子を引き、肩を引き寄せた。

「空気、読んでよ」

「読んだ結果だ」

「ばかじゃないの」

 言い返す声にも切れがない。

 押さえた手の隙間から、ぽつりと透明な滴が落ちた。

「ランツ」

 肩を掴んだ掌に力を込めれば、細い身体はすんなりとこちらへ傾いだ。

 緊張の糸が切れたのか、華奢で骨張った身体が震えていた。声にならない泣き声でうめくランツに、ずきりと胸が痛む。

「考えても、仕方ない、ことだけど」

「ああ」

「……もっと、何かできたんじゃ、ないかって」

「そうか」

「エルに怪我、も、させなくて、よかったんじゃないかって……」

 ランツもまた、あの日の後悔が深いのだ。

 きっとこれまで、くり返しすべての行程を思い返したに違いない。

 どこかでこの事態を予測して、修正できなかったのか。

 あのとき、できることはほかにもあったんじゃないか。

 真面目なこの男のことだ。何度も何度も同じ考えを巡らせて、そのたびに打ちのめされてきた。

 過ぎてしまった時は戻らない。

 あの日、俺たちは持ち得る知識と、できる限りの準備を整えたうえで印刷機を稼働した。

 そして失敗した。それがすべてだ。

 いくら「もし」に思いを巡らせても、結果は変わらない。

 ランツのせいじゃない、と言ったところでこの後悔は消えないだろう。

 俺がそうであるように。

 前髪の上から額に口づけをして、俺はあえて明るい声で、ランツ、と名を呼んだ。

「印刷機も用紙も、水気に弱いんだろう?」

「それ、今言う?」

 手を寄せてわずかに顔を覗かせたランツが、真っ赤になった目で恨めしげに俺を睨む。

 しばらく見つめ合ったあと、ランツは小さく笑って涙を拭った。

 まだ肩は震えていたが、いつもの瞳の強さが戻り、「本当ひどい」と重ねて言う余裕もあった。

 机の上で手を重ねて、指を擦る。

 こうして触れるのも久しぶりな気がする。

 さすがにそれ以上の触れあいを求めるつもりはなかったが、ランツは「仕事ができないからって」と再び笑った。

 微笑みを向けて涙や鼻水で汚れた顔を布で拭ってやると、「痛い」と不満げに文句を言われる。

 ここ数日張り詰めていた空気が緩み、ランツは眼鏡をかけ直して細く息を吐いた。

「……ありがと」

「え?」

「すっきりしたよ」

 ランツはすっと背を伸ばしたかと思うと、机の上の資料にじっと視線を向けた。

 横顔は真剣で、今から突然作業を始めてもおかしくない雰囲気だった。

 そう、今から作業を。

「…………」

「エル?」

 黙り込んだ俺に、ランツが首を傾げる。

 頭のなかが急に冴えていく気がした。

 つい先ほど見た、トポル局長の顔を思い出す。

 そして、幼いころに聞いた祖父の声も。

 ――魔導書には、この国で生きた者たちの人生が込められているからね。

 日はまだ高いところにあった。

 軽やかな日差しを浴びて、巨大な四台の印刷機がそびえ立っている。

 本当にやりたいこと。俺が第三王子であること。すべての始まりの魔導書。

 俺のなかで、ひとつの結論が出た。

 たくさんの人を巻き込むことになる。理解は得られないかもしれない。

 けれど、試す価値はある。

「ランツ」

 レンズの向こうの瞳をのぞき込む。

 ランツは俺の眼差しに気圧されたように、後ろに身を引いた。

「用紙の巻き込みの原因は、もう分かってるんだよな?」

「……嫌み?」

「ちがう」

「ならよかった。もちろん分かってるよ。さっきの髭オヤジにも言ったけど……」

 そこまで言って、ランツははっと目を見開いた。

 俺の質問の意図を悟ってくれたのかもしれない。

 本当に? とランツの唇が動いたが……それは笑みのかたちを作っていた。

 今、印刷局は王宮から出された公的な書面により、稼働停止の命を受けている。

 けれど書面だけでは、本当の意味で稼働を止めることはできないのだ。




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