第25話 魔力あるものはすべて
ほんの少し関係が進んだからといって、仕事人間のランツが俺に甘くなるはずがなかった。
ランツは原本の解読が終わるやいなや、一頁ずつ内容を問い詰め議論を仕掛けてきたのだ。
これまで「魔導書の内容に興味なんかない」などと散々言っておきながら、今度は「完璧に仕上げたいから逐一術式を説明しろ」だなんて言い出した。
ランツの飲み込みが早かったからまだ良いものの、記載された内容を一々事細かに詰められる方は堪まったものではない。
そこまでしなくていい、と言う俺と、そんな生半可な気持ちでやってるのか、と反論するランツの間で小競り合いは尽きず、トポル局長は「僕の出番まだ〜?」とにこにこ俺たちを見守っていた。
俺に喧嘩を吹っかけてくる一方で、ランツは着実に材料を揃え始めていた。
インクの種類、用紙の手触りが少し違うだけで、魔導書自体に込められる魔力の割合が変わってしまう。
御影の魔導書が印刷された当時のインクが現存しない場合は、ランツ本人が精密に分量を計算して調合し、用紙は魔術局へ指定して特注させるものもあった。
すべてはランツの職人としての経験と、観察眼だけでまかなわれる作業だ。
残念ながら、ここで俺の出番はなかった。
そしてランツが準備を整えた段階で、トポル局長が術式を版へと移す。
ランツは局長にも厳しかった。
こまめに休憩を入れたがる局長にランツは「あと十頁移したら水分を摂らせてあげます」と悪魔のようなことを言い、局長はいつも半ベソをかきながら従っていた。
お年を召した相手はこき使わない、と口にしていたのは、一体どこの誰だったか。
そして、印刷段階へ移ると決まったのは、御影の魔導書の復刻の話が持ち上がってから三月後のことだった。
王宮からのお達しにより一度きりの印刷しか許されていない分、これまで以上に準備を慎重に進める必要があったのだ。
人生で一番長い三月だったかもしれない。
そしていくら小競り合いをしようと、俺のランツへ向ける気持ちは変わらなかった。
おそらく、ランツの方も。
仕事中は絶対触るな、という言いつけを、俺は忠実に守ってみせた。その代わり、ランツが煮詰まっていないときは、帰りに家まで送っていくようになった。
そしてあの古びた小さな家で、ひっそりと口づけを交わす。
回数を増すごとにしなやかに変化していくランツに、俺はますます夢中になった。
身体を撫でて、どこまで許してくれるのか尋ねてみたくなる。
暗がりのなかでも分かるほど上気した顔で、ランツは俺を見上げてきた。睨んでいるつもりだろうが、かえってその表情が俺を誘ってしまっていることを、もう少し学んだほうがいい。
悔しげにランツは囁く。
「……こういうのを、送り狼というんだ」
「なるほど、勉強になる」
「お宅の三男坊はしつけがなってないと王宮に言いつけてやる」
「やれるものならどうぞご自由に」
その後どちらからともなく吹き出し、また唇を合わせる。
印刷局の存続がかかる仕事をしている期間だというのに、我ながら呑気すぎる。
けれどランツと同じ方向に向かって力を尽くす毎日は、これまで以上に充実していた。
◆
そして遂に、復刻印刷に取り掛かる日が来た。
ランツの入念な点検を終えたあと、最も動きが正確な二号機を稼働させることになった。
ゆっくりと版を差し込んでいき、調合されたインクを所定のボトルへ注いでいく。
最初で最後の機会だ。これまでにないほどの緊張感が俺たちを包んでいたが、それは心地の良いものでもあった。
「……頼むよ」
機体を優しく擦りながら囁き、ランツは二号機を稼働させた。
充満する機械油の香りと、鼓膜を震わせる機械音。眼鏡の奥の瞳を細めて、ランツはするすると印刷機の上へと上る。
「エル、インクの減りをこまめに見て」
「分かった」
今日ばかりは、トポル局長は印刷機から離れてもらった。
「がんばってねぇ」なんて能天気な声で、いい具合に肩の力が抜けていく。
用紙が巨大な機体に飲み込まれ、くるりと向きを変えたあと版通りにインクが載せられていく。
青みがかった黒が、ぼうっと淡い光を浴びて文字となる過程は、どこか神秘的でもあった。
「順調だ!」
上の方から、弾んだランツの声が響いた。それにつられて俺の胸も沸き立つ。
ずっと憧れていた仕事を、今まさに自分がしているのだ。
ランツの宣言通り、印刷機は重低音を響かせながら魔導書へ命を与えていった。みるみる文字の載った頁が増えていき、ほとんど成功を確信したとき、おれはある違和感を覚えた。
聞き覚えのない音が、どこからか聞こえるのだ。普段よりも印刷機の各部品の回転を緩め、その分版の写りの確実性を上げている、とランツから聞いてはいたものの、いつもの稼働音とは明らかに違う。
引き攣れて軋むような、苦しげな音だ。
「ランツ、なにか音が……!」
しかし、機械の上によじ登り、用紙の排出口を覗き込むランツには声が届かない。
普段よりも機械自体に無理を強いているから、作業場に響く音が大きすぎるのだ。
その間にも、音は徐々に不穏なものとなっていく。
いやな予感が背を走り、俺は音のする部位を覗き込んだ。用紙を巻き込む輪転部だ。ざらついて部品の噛みやすい用紙を使っているせいか、回転がわずかに鈍い。
その間にも用紙は次々と送り込まれてくる。
「そこか」
ブブ、と羽虫の飛翔音に似た音と、部品が軋む音があり重なっていた。見ている間にも、用紙が絡んで輪転が止まりそうだ。
そう、思った瞬間。
「!」
用紙が複数同時に送り出され、輪転部の歯車が不快な音を立てながら激しく震え始めた。ランツに視線をやるが、こちらの音に気づく様子はない。
巻き込み切れない用紙がたわみ、明らかに部品は正常な動きをできなくなっていた。このままでは、機械全体の動きに影響が及ぶ。
とにかく用紙を抜き取らなくてはと、俺は反射的に手を伸ばした。
ランツがいつもそうしているように、隙間から手を差し込んだのだ。
印刷機のことなど、何一つ分かっていないくせに。
指先が用紙に触れた。このまま引き抜こう、と腕に力を込めたそのときだった。
「……う、あっ!」
ずきり、と鋭い痛みが右手に走る。機械の一部が、俺の服の袖を巻き込み、歯車が手の甲を噛む感触があった。
瞬間的に全身に汗が浮き、本能的な恐怖に負けて、俺は咄嗟に自らの右手から視線を外す。
ギギギ、と部品のひとつひとつが軋む音は、その場にいる誰もが無視できないほど大きくなっていた。
まるで獣の唸る声だ。突然慣れない人間に腕を突っ込まれた機体が、腹を立てている——そんな感覚が俺を襲う。
「エル!」
異変に気づいたのだろう、耳をつんざくようなランツを声が作業場に響いた。
右手の痛みは増していく。身動きが取れない。混乱と恐怖でまともな思考は働かず、ただ息を詰まることしかできない。
絶対に失敗できない。
なんとかしなければいけないのに。
焦りに飲み込まれそうになったそのとき、周りで響いていた機械音が突然ふつりと途絶えた。
ぎ、と恨めしげな余韻と熱を残して、印刷機が動きを止めたのだ。
その意味を理解した瞬間、血の気が引いた。機械を止めるということは、つまり。
「……動かないで、エル」
同じく顔から血の気が失せたランツが駆け寄ってくる。機械の隙間に突っ込んだままの俺に身体を寄せると、躊躇いなく手を伸ばして、巻き込まれたあたりを探る。
ランツの指先が触れた途端また痛みが走り、俺は低く唸った。額に脂汗が浮く。
トポル局長が慌てた様子で駆け寄ってきて、息を切らして俺たちを見守っていた。
「くそ」
ランツは小さく舌打ちをしたあと、腰ベルトに提げていた工具を引き抜き、素早く俺の右手の周りの部品を外していく。
ガチャガチャと耳障りな音が響いたあと、ふっと右手が楽になるのを感じた。
「う……」
「ゆっくり動かして」
ランツに手を添えられながら、痛む右腕を機械から抜いた。
手の甲に歯車に噛まれたような傷がつき、切れたそこから血が流れている。局長から清潔な布を手渡されたランツは、それを俺の右手にきつく巻きつけた。
「深いけど、指は全部付いてるね」
「……恐ろしいことを言うな」
「大事なことだよ」
ランツが吐き捨てるように言う。
布を巻きつけ終わったその手が、細かく震えていることに気がついた。
そして、傍らの印刷機が完全に沈黙した事実に、はっと顔を上げる。
その時ばかりは、右手の痛みを忘れた。
——魔導書を刷るにあたって、すべての頁が仕上がるまでは絶対に印刷機を止めちゃいけない。
働き始めてすぐのころ、ランツにきつく言われていたことを思い出した。
印刷機は魔力を宿すがゆえに、意思を持つ。
俺のせいで、機械を止めてしまった。作業工程を途中で止めてしまえば、印刷機は二度とその魔導書を刷ることはない。
「ランツ、すまない。まだ途中なのに」
「いいよそれは」
「よくないだろう、一度きりの機会だった」
「だからいいって。それより医者に診てもらわないと」
ランツは俺の手を握り俯いたまま言った。
もどかしさと自分への怒りで胸が騒めく。
こんなはずではなかった。これまでの努力が無駄になってしまう。焦りと後悔を取り繕うように、俺はランツに言い募った。
「ランツ。俺のせいだ。俺が余計なことをしなければよかった」
「…………」
「俺のことはいいから、もう一度起動できないか? お前だったらもう一度魔導書を」
「いい加減にしろ!」
ランツは勢いよく顔を上げ、俺に怒鳴りつけた。
俺をきつく睨む視線は、これまで向けられたもののなかでも一番鋭かった。
「……いい加減にしろよ」
真っ赤になった両目から、涙がこぼれ頬を濡らした。息を呑む俺の手を握り直しながら、ランツは震える声で続ける。
「今は魔導書のことなんて、どうだっていいだろ……! もしかしたら、取り返しのつかないことになってかも、しれないのに」
再び俯いた顔から、幾つもの涙が床へと落ち、染みを作る。
トポル局長はそんな俺たちから、決まり悪そうに視線を逸らした。
「どうだって、いいよ……」
静まり返った作業場に響く啜り泣きに、俺は自分がいくつもの過ちを犯したことを知った。
左手でランツの頭を抱き寄せて、胸に押し当てる。ばかやろう、と漏らしたランツの頭に頬を擦り寄せた。
こうして、一度きりしかない機会は失われてしまった。
印刷局の稼働停止が王宮から正式に言い渡されたのは、その翌日のことだった。
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