第24話 不機嫌の理由


 翌日、トポル局長に話を通すと、老齢の魔術師はすんなりと受け入れて「それじゃあ頑張らなくちゃねぇ」と腰を上げてくれた。

 そしてその日から、俺たちは普段の作業に加えて「御影の魔導書」の復刻へと動き始めた。

 ランツの持つ原本があるおかげで、ある程度の指針は立てられる。

 ただ、魔導書が作られてからかなりの年月が経っているだけに、記された言葉の持つ意味は現在と大きく異なっている場合もある。

 魔力の込められた文字の本当の意味を解き明かし、記された魔術の規則性を正しく理解しなければ、印刷機にかけるための版に移す作業は成功しない。

 記されている文字をそのまま抜き取ればいいわけではないのだ。

 まだ版に移す作業には至らないが、トポル局長の助けもあって中身の解読は順調に進んでいる。

 局長はのんびりしているように見えて、時折どきりとするような鋭い指摘をしてくることがあって、やはりただ者ではないのだと思い知らされる。

 なお、茶菓子の買い出しが免除されることはなかった。

 一方のランツは、ああでもないこうでもないと独り言を唱えながら、ありったけの用紙を引っ張り出したり、インクの調合を何通りも試していたりする。

 難しい顔を作っているが、それなりに楽しそうだ。

 そう、だから今のところ、なにも懸念すべき点はない。

 ないはずだ。

 ただ、俺がひとりで引っかかっているだけで。



 ◆



「エル、怒ってる?」

 仕事を終えた帰り、ランツを送って行こうと夜道を歩いていると、突然そう切り出された。

「いや」

「怒ってるよ」

 いざランツの借家の前まで来たところで、自信ありげに断言される。

 それを笑って流せるほどご機嫌でもなかった俺は、ぶっきらぼうに答えた。

「俺の機嫌の具合を勝手に決めつけるな」

「怒ってるね。なぜ?」

「…………」

 否定したのに、結局「怒っている」と決めつけられた。

 だが、俺は絶対に怒っているわけではない。ただ、ここ数日の環境やランツの態度に、思うところがあるだけで。

 ランツは黙り込んだ俺を不審げな目で見たあと、細く息を吐く。

 そして俺がため息の理由を尋ねる前に、ぼろぼろの扉を開き、顎で部屋のなかを指してみせた。

「ちゃんと聞かせてよ」

 容赦のない強い視線が飛んできて、気づけば俺は招かれるがまま部屋のなかへ足を踏み入れていた。

 ランツは扉の脇にかけていたランタンに火を灯し、雑然と散らかったテーブルの上に置く。その周りだけがほのかに明るくなった。

 以前をここを訪ねたとき、俺は冷静さを欠いていたから意識しなかったが、当然ながら部屋のなかはランツの匂いがした。

 雑然と積み上げられた古い書物の隙間から漂う、年月を経て甘やかさを帯びたインクの香り。そこにわずかに混じる、嗅ぎ慣れた機械油の残り香。

 途端に落ち着かない気分になったが、後ろ手に扉を閉めたランツの低い声に、すっと現実に引き戻された。

「一緒に仕事する人間が不機嫌だと、僕も気分が悪い」

 可愛げのない言い方だ。

 でも、俺にそんなつもりがなくても、不機嫌だと見られているのは事実なのだろう。

 考えてみれば変な話だ。

 あれほど御影の魔導書に魅了されて、印刷局に入りたいと願っていたのに、いざ復刻に取り掛かったら機嫌を損ねるだなんて。

 トポル局長と話を詰めて、記された文字をひとつひとつの意味を解き明かしていくのは間違いなく楽しい。

 意味を宿した文字たちが、魔術により寸分の狂いもなく版に載っていく過程を見るのだって、胸が高鳴る。

 今の俺は、心の底からやりたいと思っていたことをやっている。

 けれど、魔導書だけには集中できない。

 ふとした瞬間に、周りをちょこまかと動く存在に目を奪われてしまう。

 ひとりで頁をめくっていたころにはなかった、別の欲を知ってしまった。

 喉の奥で固まりかけた澱みを解くように、俺は咳払いをした。ランツに向き直って、ぼそぼそと口を開く。

「……面白くないだけだ」

「なにが」

「お前がその、あれだ」

 いざ本人を目の前にすると、言葉に詰まる。

 というより、言葉として口から外に出す予定がなかったから、うまく形にならない。

 みっともないところなんて幾度も見せてきたから、取り繕う必要なんてないのに、ランツの前では少しでもましな人間でいたいと思ってしまう。

「だからなに」

 業を煮やしたランツが苛々と続きを急かした。俺は毎日やきもきしているのに、こいつはなにも感じないのだろうか。

 そう考えたらなんだか不公平な気がして、俺は勢いに任せて言った。

「近ごろ、触ると怒るだろう」

「……は?」

「こう、手を出すと『集中してるんだから』とか言って、怒るだろう」

「…………」

「だから、面白くなかっただけだ」

 ランツはぱちくりとまばたきをしたあと、視線を外して居心地が悪そうに腕を組み直した。

 部屋が薄暗くてよく分からないが、心なしか頬に朱が差したように見える。

 突然子どもみたいな我が儘を言われてランツも複雑だろうが、俺だって居心地が悪かった。

 ちらちらとランタンのなかの炎が揺らめく。俺たちの間には、もどかしいくらいの停滞した空気が流れていた。

 幼いころ、二番目の兄から「お前は正直すぎるのが良いところでもあり悪いところでもある」とからかわれたことを、唐突に思い出した。

「はあ」

 今度こそあきれた、と言わんばかりにランツは片手で顔を覆いため息を吐く。

 ますます居心地が悪くなったが、ここで逃げ出すのも男がすたる。

 ランツとは、以前よりずっと距離が近くなった。

 けれど、近くなればなるほど、気持ちは欲張りになっていく。

 傍に寄ればつい手を伸ばしそうになる自分を、俺はこれでも必死に抑えているのだ。

 ランツも同じくらいの熱量を求めるわけではないが、少しくらい、俺の方を向いてくれてもいいと思う。

 そんな自分が、大人げなくていやになるけれど。

「ランツ」

 こうやって、名を呼んで、想いを込めて見つめるしかない。馬鹿みたいに思ったことを言うくらいしか、俺には能がないのだ。

「でも、嫌わないでくれると嬉しい」

 そもそも俺は、根本的に駆け引きに向いていない。

 学生の頃は勝手に自分を卑下して人との交流を避けていたし、誰かと分かり合いたいとも思わなかった。

 心の機微なんて読めない。

 読もうとする努力をしてこなかった。

 だから、たとえもどかしくても、自分の持っているものをまともにぶつけるくらいしかできないのだ。

「…………」

 ランツはぱっと手を外し、ずかずかと俺の前まで寄ってきた。眉根がきつく寄って、唇はひん曲がっている。

 世間一般にみればいただけない表情だろうが、俺にとってはかわいらしい。その眉間の皺を指で擦って消したい、と思うくらいに。

「あのさぁ」

 ランツの声は思いのほか大きかった。狭い部屋のなかでは、音がよく響く。話し始めた本人も自分の声の音量に驚いたのか一瞬怯んだように視線が泳いだが、すぐに調子を取り戻して言葉が滑り出てきた。

「仕事してる間はさ、仕事に集中したいんだよね。これはこれ、それはそれ。切り替えてもらわないと困るよ。これまでの復刻とは訳が違うんだから」

「う」

「正直、横からちょっかい出されると気が散るから迷惑。視線もやたらと飛んでくるし。本当にやる気あるのかなって疑ってたんだよね」

 率直すぎる言葉がざくざくと胸を刺してくる。冗談抜きで言われているのが分かるだけに、さすがに心が折れかけた。

 だが、確かにランツの言う通りだ。

 給金を与えられている身で、しかも今は印刷局にとって大事なときだというのに、色恋にうつつを抜かして仕事が疎かになるなんて、あってはならないことだ。

「……でも」

 しくしくと痛み始めた胸を押さえようとしたそのとき、ランツがまた一歩俺に近寄ってきた。

 身体の横に垂れていた両手が伸び、俺の襟元を乱暴に掴む。

「仕事以外のときならさ」

 ぐ、とランツの手に力がこもる。

 レンズ越しの瞳は、暗い部屋でもつるりと光って見えた。いつか王宮のなかで見た、磨き上げられた瑪瑙の輝きに似ている。

「……僕だって、別に、いやなわけじゃないけど」

 少し掠れた声で、ランツは言った。

 その意味を飲み込むまでに時間がかかる俺に、見下ろした先の男はあからさまに不機嫌な表情を作る。

「君は本当に気が利かないな、エル」

「え……」

「少しかがんでよ」

 小さく笑うランツに答えるまもなく、襟を引かれた俺は、強制的に背を丸めることになった。

 鼻に当たる眼鏡の硬い感触は、悪いものではなかった。




 ◆◆◆




 薄い壁の向こうからは、近くに住む子どもたちがじゃれて遊ぶ声が聞こえてくる。

 次第に声は荒々しくなり、泣き声が続いた。

 からかうような笑いと、それに重なる母親の諫める声。

 それらの音を、俺はランツと口づけを交わしながら聞いていた。

 唇の柔らかさに溺れてしまわないよう、あえて外にも意識を向けていたというのが正しいかもしれない。

 背伸びをするランツを抱きかかえるようにして、おそるおそる背中と腰に手を回した。

 細い身体は一瞬びくりと震えたが、俺をはね除けようとはしない。襟元を掴む力が徐々に緩んでいく。

 戯れのような口づけは何度も交わしてきたけれど、こうして身体を密着させて唇の感触を味わうのは初めてだった。

 腕のなかに閉じ込めた体温にたまらない気持ちになって、舌先で唇の合わせ目を撫でる。

 眼鏡越しに、きつく閉じたまぶたがわずかに震えるのが見えた。

「ん……」

 鼻から抜ける声は、いつも聞くものよりも高く甘い。俺にしか聞かせない音だと思うと、胸の鼓動は速くなった。

 やわやわと唇を食み、ゆるんだ隙間から舌を滑り込ませた途端、ランツは急に仰け反って顔を離した。

 驚きと戸惑いに満ちた表情が浮かんでいたが、俺は身体に回した腕を離す気にはなれなかった。

 不安げに眉根を寄せて、ランツは訊く。

「なんか、エル、慣れてない?」

 完全なる濡れ衣だった。しかしそれを笑い飛ばす余裕すらなく、俺はまた顔を近づける。

 ランツは息を詰めて視線を逸らしたけれど、間近で感じる香りに、俺の方は追い立てられるような気分になっていた。

「ランツが初めてだ」

「でも、今、慣れてるみたいな動きだった」

「お前こそ、俺が慣れてるかどうか判断できるほどの経験があるのか?」

「……ない」

 エルが初めてだから、という呟きが鼓膜を揺らし、俺はまたランツの唇を塞いだ。

 緊張する身体を抱き直して、物言いたげに開いた口にもう一度舌を差し入れる。

 今度は抵抗されなかったことに安心し、奥で縮こまった舌を誘い出してすりすりと表面を擦り合わせた。

 生ぬるくて、柔らかくて、たまらなく心地良い。濡れた音が耳の奥に響き、理性がじわじわと溶け出していくような気分だった。

 急ぎすぎてはいけないと制する自分と、ずっとこうしていたいと感触に酔う自分がいて、それをランツに知られたくないと思う。

 身体の一部に触れているだけなのに、これまでよりもずっと満たされた。

 慣れたやり方なんて知らないが、腕のなかの男のすべてに触れたい。

「ふ」

 息継ぎのたびに小さく声を漏らしながらも、ランツは俺に応えようとしていた。

 襟元を握り直して、自分からも舌を絡め、そのたびに身体を震わせる。

 快感を追っているというよりも、「お前に負けてたまるか」と言わんばかりの気概を感じて口のなかで笑うと、呼吸の合間で「笑うな」と叱られた。

 その必死さがまたおかしくて、俺はまた笑ってしまう。

 ランツは思い切り唇をひん曲げたあと、手を伸ばして俺の鼻をきつくつまんだ。

「腹が立つな、君は」

「む」

 長く触れあっていたせいか、唇が艶をもち、赤く熟れている。ごくりと喉が動きそうになるのを懸命に抑えていると、ランツは掠れた声で続けた。

「……ほんと、腹が立つくらい、きれいな顔してる」

 少しだけ沈んだ声の調子に顔をのぞき込むと、ランツは視線を逸らして「今のなし」と素っ気なく言った。

 きれいな顔。

 自分の容姿の善し悪しをそこまで意識したことはないが、ランツに良く見えているのであれば、それは喜ばしいことだ。

「お前も、性格に愛嬌はないが、愛嬌のある顔をしている」

「……なにそれ」

「俺はかわいいと思う」

「は」

 丸く目が見開いたのを見て、すぐさま口づけを仕掛けてやった。ランツのこぼしかけた文句は、唇の間に溶けて消えていく。

 俺に「かわいい」だなんて言われて、面白くないのは分かるが、俺にとっては本当のことだ。仕草のひとつひとつや、選び差し出してくる言葉にも愛おしさを感じる。

 笑う顔が見たいし、名を呼んでほしい。

 いつだって触れたい。

 そしてランツからも触れてほしい。

 俺にすべてを見せてくれなければ、いやだ。

「あ」

 背中を掌で緩く撫で上げると、ランツはか細い声を漏らした。

 これまでにない反応に気を良くして、ゆるく背骨をなぞれば、ランツの呼吸は乱れ始める。

 その吐息も舐め取り、掌を脇腹にすべらせた。

 絞り出すような声と、大袈裟に跳ねる身体。実際に触ると、見た目よりもさらに細い。服の下の感触を知りたいという欲望が迫り上がるが、同時にランツに嫌われたくないとも思う。

「エル」

「……ランツ」

 どこまで許してくれるのだろう。

 どこまでだったら、受け入れてくれるのだろう。

 さらに身体をまさぐっても、ランツは一瞬逃げようとするが、またすぐにくっついてくる。焦りに似た昂りのなか、視界の隅に小さな寝台が映ったが、なんとか視線を引き剥がした。

 互いの熱が高まっているのが分かった。

 何度も角度を変えて唇を合わせ、舌を誘う。

 襟元を掴んでいたランツの指はいつしか離れ、今は俺の胸に両手を押し当てていた。

 だからきっと、恥ずかしいほど速いこの鼓動も知られている。

 でも、ランツだって同じだ。

 勢いのままにランツが着ているシャツの裾をたくし上げる。

 湿った掌で肌に直接触れた瞬間、また心臓が動きを速めたような気がした。

 ランツ、と胸のなかで名を呼び、さらにその感触を味わおうとしたそのときだった。

「ま、待って、エル、」

 弱々しく呼ばれ、思わず身体を離した。

 脈打つ胸は痛いくらいで、けれど、目の前の潤んだ瞳に怯んでしまう。

 しまった、調子に乗ってやりすぎたかもしれない。

 さっと熱が冷めて慌てて「すまない」と口走ってみたが、すぐに口先で謝ってしまう自分が情けなかった。

 一気に青ざめた俺を見て思うところがあったのだろう、ランツはゆるく首を振って「そうじゃなくて」と呟いた。

「いや、とかじゃなくて」

「……え」

「少しずつが、いい、です」

 なぜ敬語なんだ、という返しはやめておいた。俺もランツも、今さっきまでの触れ合いを消化し切れずに混乱していた。

 普段纏っている常識だとか距離感が、すべて霧散していく喜びに、お互い身を任せつつあったのだから。

 少し上擦った声で、ランツは言う。

「あのさ、怖いとかじゃないから! 怖いとかじゃなくて、なんて言うんだろ、なにも分からないから、なんか、その……」

「…………」

「あーもう、変なことばっかり言ってる」

 俯いたランツは、急に羞恥が込み上げてきたのか、手の甲を鼻先に押し当てて黙り込んだ。

 裾から引き抜かれたシャツから、俺も目を逸らす。でも、触れた熱を忘れることはできなかった。

「ランツ」

 もう一度近づいて、うなだれたままのランツを抱き寄せた。ランツはやはり逃げないでいてくれる。

 好きだから、拒否されるのが怖いから、触れるのを躊躇ってしまうけれど、こうして体温を分け合いたいと思ってしまう。

 あちこち跳ねる焦げ茶色の髪に唇を落とし、俺はたまらなく満たされた気分を味わっていた。

「やっぱり、俺はお前がかわいいと思う」

「怒るよ、やめて」

「怒られてもやめない」

 ぎゅう、ときつく抱きしめれば、くぐもった声で「苦しい」と苦情が漏れた。

 それでも、おずおずと俺の背中には腕が回る。

 こいつは本当に、素直じゃない。

「……もう少し」

「ん?」

「もう少し、このままがいい」

 と思えば、突然こぼれ出てくる素直さ。

 耐えきれず噴き出すと、ランツは不満げに唸り強く抱きついてくる。

 今度は俺が「苦しい」と漏らす番だった。

 手探りの恋をしている自覚はある。

 でもランツと歩調を合わせて進んでいけるなら、それはそれで楽しんでいけそうだとも思う。

 額に唇を落とし、視線を合わせて俺は訊いた。

「仕事のときでなければ、いいんだろう?」

「……まあね」

 少し悩んでから答えたランツは、悪戯っぽい笑みを浮かべていた。



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