第22話 提案と練習

 俺は魔導書が好きだ。

 だから、印刷局で働くのが好きだ。

 しかしここにきて、「印刷局で働くのが好きだ」の意味合いが変わってきてしまった。

 印刷局は、一応王国の機関のひとつだから、当然俺にも給金が出る。

 恥ずかしながら、ぬくぬくと育ってきた俺にはその給金が適正なのかどうかは分からなかったが、ランツに言わせれば「ぼろ家をやっと借りられるくらい」、トポル局長に言わせれば「老体には十分」というものらしい。

 つまり、一般的にみたらかなり低いのだろうが、それでも、給金はもらっている。

 だから、仕事中は仕事に集中するべきだ。 

それなのに。

「エル」

「はっ」

「どうしたの、さっきから呼んでるんだけど」

「あ、ああ、すまない……」

 ランツが呆れたようにため息を吐いてから俺を見る。

 そんな視線も悪くない、と思ってしまうあたり、俺は相当重症なのだと思う。

 俺は完全に浮かれていた。そう、ランツから口づけを受けてから、ずっとこうだ。正直言って仕事どころではない。

 すぐ近くでランツが働いているのだ。むしろ、なぜランツは平然と振る舞えるのか問いたい。

「集中してくれないと困る」

「……すまない」

 ランツは少しきつい口調で言ってから、すたすたと立ち去っていった。印刷機の隙間から覗く頭の上から、髪が一房立ち上がっている。そんなところばかり気になる自分がいやになった。

 ランツから口づけを受けたあとのことは、ほとんど覚えていない。おそらくなにか妙なことを喋って、それからふらふらと王宮まで戻ったのだと思うが、頭全体に白く厚い霧がかかったようで、まともに思考できなかった。

 翌朝目が覚めたとき「もしかしてあれは口づけだったのではないか?」と気づいてしまって、その日は一日脚の裏がふわふわして落ち着かなかった。

 それから数日経った今は、やや症状が改善したとはいえ、仕事に打ち込んでいるとはとても言いがたい。

 つい視線でランツを追ってしまう。

 もうどうにも言い訳のしようがないくらい、俺はランツに惹かれていた。

 前々から惹かれていて、自分から口づけを仕掛けておいてなにを今更、という感もあるが、あの日のランツの口づけでとどめを刺されてしまった。

 それくらい、衝撃的だった。

 恋の経験がない俺にでも、ランツの行動の意味くらいは分かる。あの瞬間、俺の想いはランツに受け入れられた。

 お互い遠回りな伝え方になってしまったが、たとえ真っ直ぐに届けられなかったとしても、相手へ向けた想いを手渡すことができた。

 しかしこのあとはどうするべきなのか。

 俺は、俺たちのこの関係に明確な名を付けるべきなのだろうか。

 お互いに想いを通わせて、それでは今までどおりに過ごしましょう、というのは俺にはとてもできそうにない。

 ランツは驚くほど変わらない。なにかが吹っ切れたかのように飄々として、挙動がおかしくなった俺を見ては呆れて笑う。

 ランツだって恋の経験はないはずなのに、一体この差は何なのか。

 ぶつぶつと独り言をくり返しながら、三号の印刷機にインクを補充していく。納品されたばかりの濃い碧色のインクだ。ボトルに入っていると黒っぽく見えるが、補充口に流し込んだ途端、光を受けて碧く輝くのが美しい。

 この碧が用紙にのると、魔力と空気を含んでより一層艶のある色になる。

 昔、興味本位で恋占の魔導書を開いたことがある。贅沢に羊の皮をなめした本はどっしりと重く、それに記された文字は繊細で流れるようだった。

 あの恋占の書には、一体何と記されていただろうか。

「エル」

「はっ!」

 ぼうっと考えながらインクを注ぐその横から、突然声を掛けられた。

 そしてあろうことか、必要以上に驚いた俺は、声とともに指の力を抜いてしまった。

 するとどうなるか。考えるまでもなかった。

「あ」

 ぱりん、と足下で硬いなにかが壊れる音。

 その後漂うインクの鼻を刺す匂い。そしてランツから発せられる明確な怒りの気配。

 俺は自らに失望した。

「なにやってるんだよ!」

「す、すまない……」

「さっきからすまないしか言ってないじゃないか!」

「すまない」

「僕のこと馬鹿にしてる?」

「いや、まったく」

 ランツが怒るのも無理はない。注いでいたインクは、今印刷局に置いてあるなかでも特に稀少なものだ。それに対して、俺の「すまない」のなんと価値のないことか。

「なにかあった?」

「いいえ、なんでも」

「そっかあ」

 俺たちの問答に気づいたトポル局長が事務室から顔を出したが、ランツが手を振るとすぐに引っ込んだ。

 ランツが戻ってきてからというもの、局長は今まで以上に放任主義になったように思える。

「本当にすまない。集中しようとは思っているんだが……」

 頭を垂れてうなだれていると、ランツは細く息を吐いて「今日はもうやめとこうか」と呟いた。

 ますます自分が情けなくなる。

 予定していた半分以上は終わっているものの、本来ならば印刷機の稼働を続けて仕上げの刷り作業へ進むはずだった。しかし、インクが途中で切れては元も子もない。

 好いている相手の邪魔をすることになろうとは。

 ランツは三号の機体をそっと撫でたあと、おもむろに手袋を外した。

「エル」

 そしてそのまま、「こっち」と俺の手を取って引く。温かな感触にすら動揺した。

 ランツに連れられてきたのは、作業場の階段を降りた先の魔導書の保管庫だった。

 座って、と座面がすり切れた椅子を勧められ、素直に従っておく。

 次いでランツも奥の方から椅子を引いてきて、俺の正面にどっかりと座り込んだ。

 偉そうに腕を組むランツの眼鏡の向こうから、焦げ茶色の瞳が俺を見つめる。

 睨まれているわけではなかった。ただ、じっと見つめられるだけ。

 エル、とランツの唇が動く。

「僕があんなことしたせい?」

「え」

「そうだったらごめん」

 わずかに沈んだ声で、ランツは言う。

 あんなこと。あんなことというと、先日のあれしかない。

 でも、謝罪されるようなことではない。決して。深く呼吸をして、俺もランツを見つめ返す。

「俺が妙なのは、俺自身の心の持ち様のせいだ」

「……どういうこと?」

「情けないことだが、お前で頭がいっぱいになっている」

「は?」

 ひく、とランツの唇の端が動いた。さすがにこれは直接的すぎただろうか、と思いつつも続けた。

「お前からの口づけが嬉しくて、ずっとあのときのことばかり思い出して、落ち着かないんだ」

「な、な」

「すまない」

 また「すまない」を使ってしまった。けれどこれ以上は言いようがない。

 ランツは口を引きつらせたまましばらく固まっていたが、片手で顔を覆って天を仰いだ。

「あ~もう」と投げやりの声のあと、手が外されてぱっと顔が俺に向く。

「いきなり変なこと言うのやめてよ。心臓に悪い」

「素直に言ったつもりだ」

「もう少し大人の言い方をしてほしい」

「難しいことを言うな。誰かを好きになるのは初めてなんだ」

「……ふうん」

 今度は顔を顰められた。心なしかランツの頬が赤い。

 俺には、こんなときにふさわしい言葉を選ぶ能力がない。だから、思ったことをそのまま言うしかない。

「俺は、お前と想いが通じたのだと思っている」

「……それは否定しない」

 否定されなかったことにほっとした。

 ここで「ただの遊びのつもりだった」なんて言われたら立ち直れない。

 能がない俺は、そのまま続けた。

「でも、それから先、どうしたらいいか分からない」

「馬鹿正直だね」

 くつくつとランツは楽しげに笑う。それから身を乗り出して、おれに問いかけるように囁いた。

「僕と君の関係に、同僚以上の意味を付けたいってこと?」

「……できるのなら」

「僕はいらないと思う」

 切り捨てるように言われて、心臓が冷えた。けれど目の前に浮かぶゆるやかな微笑みに、拒絶されたわけではないと分かる。

「僕たちは対等な人間だよ。同僚同士だとか、男同士だとか、間抜けな王子と優秀な印刷技師だとか、そういうくくりはいらないと思う」

「……ランツ」

「そう、僕はランツだよ。そして君はエル。エルとランツさ。それ以上、無理に意味なんて付けなくていい」

 あくまでも僕はそう思う、とランツは続けた。得意げな眼差しに、改めて思う。

 俺はきっと、こいつのこんなところが好きなんだ。

「……練習しようか」

「練習?」

 突然の申し出に首を傾げると、ランツがそのまま顔を近づけてきた。

 頼りない柔らかさが唇に触れる。まぶたを閉じる余裕なんてないほどの早業だった。

 一瞬掠めた感触に呆気に取られてランツを見返せば、真っ赤になった顔がそこにあった。

「……練習して、慣れたら」

「…………」

「普段も、平気になるかも」

 声がかすかに震えているのが、たまらなく愛おしいと思った。

 俺のために、勇気を振り絞ってくれる目の前の男。そんな風に言われたら、俺だって努力せざるを得ない。

「交代でいいのか?」

「……いい」

 囁いたあとに交わした「練習」は、俺にとって幸運なことに、一度では終わらなかった。

 作業場へ戻ったとき、俺は満足して冷静に、逆にランツは顔をしばらく真っ赤にしたままむくれていた。


 兄から「御影の魔導書」の復刻について話を持ちかけられたのは、その日の夜のことだった。



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