第22話 王族の娯楽
長兄のイェルターが自室を訪ねてきたとき、俺はてっきり自分の浮かれ具合を叱責されるのかと身をかたくした。
王族の名を使い魔術局で無理を通し、いさめられたばかりだったというのに、ランツとの一件でご機嫌な男になりつつある自覚は十二分にあったからだ。
しかし、そんな俺を見るやいなや、兄は困ったように「そうかたくなるな」と破顔してみせたのだ。そして相も変わらず優雅な動作で腰掛けると、静かに口を開いた。
「今日は別に叱りに来たわけじゃない」
「そうか」
「にやにやしているところを邪魔して申し訳なかったが」
激しい羞恥に襲われたが、俺はなおも表情を引き締めていた。やはり俺はにやけていたのか。しかしランツの言葉を思い出して、にやけるなという方が無理なのだ。
「またにやけてるぞ」
「……そんなことは」
「ランツ・シュテーデルといったかな」
ごまかそうとした瞬間兄の唇からその名が零れ、思わず俺は目を瞠った。印刷局の数少ない働き手なのだから、イェルターがランツの名を知っていることは何ら不思議ではない。
イェルターは楽しげに目を細めたあと、少し身を乗り出して囁いた。
「『考えが真逆の人間』と随分仲良くなったみたいでよかったよ」
「イェルター」
「誤解するな、エルフリート。君たちの仲を反対するわけじゃない」
顔を強張らせた俺にゆるく首を振り、兄は続けた。
「兄として、君のことはよく見ているつもりだ。働き始めてからの君は本当に生き生きしている。自覚はないだろうが」
「それは……」
「怒ってみたり朝帰りをしてみたり、はたまた顔を腫らして帰ってきたり。そうかと思えば名を使って無理を通して、今はそうやってだらしない顔で悶々としている」
「悶々とはしていない」
「今度から机の上に鏡を置いておくんだな」
くすくすと笑ってから、イェルターは膝の上でなめらかな指を組んだ。王たる者にふさわしい、傷ひとつない指先が目につく。
「君の成長はもちろん嬉しい。でも君は腐ってもザーロイスの血を引く王族だ。外の世界を知ったからといって羽根を伸ばしすぎたんじゃないかと少し心配になってね」
手の空いている者に少しだけ協力してもらった、と兄は言う。つまりは、遠巻きに俺の様子を窺っていたのだろう。
「結果として、君は職場と王宮の往復ばかりで、どこぞの令嬢や世間をよく知る友人との付き合いができたようにも見えなかった」
「寂しいことに交友関係が狭いからな」
「慎重で思慮深いということにしておこう」
過保護なうえに慈悲深いときたもんだ。
軽くひと睨みしてみたが、イェルターは悠然とした表情のままだった。
「とにかく、その交友関係から考えるに、君がそこまで影響を受ける相手となるとひとりしかいない。働き始めたころの話から聞いてみても、良い刺激になっていたようだったしな」
「なにが言いたい?」
「おいおい、兄弟の語らいくらい楽しませてくれよ。君たちの仲に口を挟もうというわけじゃないんだ。そんなに怖い顔をするな、エルフリート」
いくら睨んだところで、イェルターが怯むはずもない。生まれながらに王として素質を備えている人間。事実だけを正確に見極める能力に長けている。弟の機嫌如何など、兄の心を揺らすものにはならないだろう。
俺と同じ翠の瞳が、意思をもって強く光った。
「立場をわきまえろ、と何度も言ってきただろう」
「そうだな」
「君は第三王子だ。だから君が子を残す義務はない」
「…………」
「でもだからといって、君が王族であるという事実も変えられない」
第三王子としての立場。ときに重く、ときには軽く扱われるもの。この国では、同性同士の関係はさほど問題にはならないが、表立って祝福されるものでもない。
金の睫毛に飾られたイェルターの瞳は、なおも俺に向けられていた。
「ランツという子は、シュテーデル家の者だと聞いている。かつて偉大な魔術師を輩出した家だが、今は王都では見かけない。だからといって、国に貢献したという事実も変わらない」
「生まれがどこであろうと、今は優秀な印刷技師だ」
「そう、生まれはさほど関係ない。彼の場合は」
イェルターのことだ、ランツについてあらかた調べはついているのだろう。俺が浮かれてうやむやにしている恐れを、ひとつずつ並べ、自覚させるために来た。
わずかに抑えた声で、イェルターは告げる。
「印刷局を閉鎖すべきだという意見が出ている」
「どういうことだ?」
思わず身を乗り出して聞き返すと、視線でたしなめられた。問いただしたい気持ちを堪えて、俺は椅子へ戻る。
「
「……必要な人が少しでもいるのならば、意味はあるはずだ」
「『少しの人間』のために予算を割き続けるのは、無駄だとみなされる」
「…………」
「印刷局の存続については、ここ数年ずっと論じられていたことだ。これまでは父上が先代の意向を酌んで主張を退けてきたが、君が印刷局に入ってからはますます『王族の娯楽』と囁く声が大きくなっている。」
たしかに、王国の運営を考えれば、文化的な遺物にいつまでもかまけていられない、という意見は理解できる。
古いものは時とともに失われていく。
それは当然のことで、俺ひとりがなにか反論をしたところで抗えるものでもない。
魔術局で易々と自らの名を使ったときのことが頭をよぎり、俺は唇を噛んだ。
「君が印刷局に入ったのは、それまでの魔導書研究が認められたからだ。それは保証しよう。だが反対する者たちからみれば、その事実は意味をもたない」
そのうえ第三王子は印刷技師に熱を上げている、と分かれば、議会は大いに盛り上がるだろう。「王族の娯楽」で続けられる機関のなかで、俺がどれほど厄介な存在となっているのか。
「若者の仲に水を差したくて言っているわけじゃない。ただ、君たちの置かれている状況は決して良くないということは理解しなければいけない」
イェルターに微塵も悪意がないことは分かる。俺を想って忠告してくれているのだ。
けれど俺の耳の奥では、すっかり馴染んでしまった機械音が響き始めていた。天窓から差し込む光と、鼻をつく独特の匂い。一度は失われてしまった魔導書を、再びかたちを持つ姿に甦らせる瞬間の喜び。
「……とりあえず、よく分かった」
ひとつ深呼吸をして、俺はイェルターを見据えた。
「イェルター、俺はなにをしたらいい?」
この悪い状況を生み出したのが自分だと思い知り、苦しくないといえば嘘になる。でも、なにか打開策はあるはずだ。
英明な兄は、満足げに唇をゆるめて答えてみせた。
「結果を出してもらおうか。エルフリート」
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