第21話 まぬけ


 ランツが印刷局へ戻ってきた。

 作業場で「おはよう」と返されたとき、自分でも驚くくらい安心した。もしこのまま、ランツが印刷局へ来ないようであれば、俺は潔くここを立ち去ろうと考えていたから、なおさら。


「早く作業に入ってくれる? 遅れを取り戻さないと」

「あ、ああ……」

「誰かさんのせいで、予定より遅れているんだから」


 ランツが仕事を休んだのはランツの意思だが、その原因は間違いなく俺だ。ならば「誰かさん」呼ばわりされても文句は言えなかった。


 ちらりと横目で印刷機を見れば、昨日よりも格段にきれいに磨き上げられている。ランツが早くに来て手入れをしたに違いない。主の帰還に、心なしか機械たちも喜んでいるように見えた。


「人づかいが荒い……」

「それはどうも」

「褒めたわけじゃないぞ」


 やっと作業を終えて俺が軽く睨むと、ランツは声を上げて笑う。久々に復刻印刷に触れたランツは、これまで以上に張り切っていた。俺に向かって「インクの補充が遅い」だの「組版の調整が甘い」だの細かく指示を出しては、印刷機の作動を見守っている。


 昨日の今日で対応が大きく変わっても困るのだが、あまりにも変わらない態度に面食らう。しかし、それがランツなのだと思えば、自然と納得できた。


「エルの身体がなまったら困るかな、と思って」

「気遣いが痛み入るな。働き始めたころを思い出したぞ」

「初心を忘れないことは大事だよ」

「ありがたい助言だ」


 これまで通り、印刷機を止めたあとの作業場には夕陽が差し込んでくる。ランツは新しく刷る魔導書の中身を吟味すべく、いそいそと机の上に資料を広げ始めた。今日まで休んでいたのが嘘のような働きぶりだ。


「エル」


 不意に呼ばれて横を見れば、ランツの眼鏡の奥の瞳がこちらを見つめている。目尻がやんわりと下がり、ここ、と鼻の脇を指し示す。


「インクがついてる」


 今まで見たなかで、一番無防備な笑顔だった。昨日あんなことを言っただけに、警戒心を持たれていないことに驚いた。


 おそらく、俺はランツに嫌われていない。

「おそらく」という推測の範囲は出ないが、ランツの性格上、嫌いな人間にここまで心を許したような笑みは見せないはずだ。


 昨日の俺は、その場の勢いで口に出す予定ではなかったことまで言ってしまった。ランツから「明日は行く」という答えを引き出して、王宮へ帰り自室へ戻ったところでやっと我に帰ったのだ。自分の行動と放った言葉の大胆さに、俺はしばし寝台の上に転がり悶えた。


 好意を直接的に言うつもりなんてなかった。それなのに、ランツの気持ちを引き留めたい一心で、本音が転がり出てしまった。今度は俺の方が無断欠勤したいくらいだ。でも、こんな風に接してもらえるのなら、恥を忍んで出勤したかいがあるというものだ。


 こみ上げる喜びをかみ殺しながらもう一度顔を拭う。すると、またランツが明るい笑い声を上げた。


「余計に汚くなってるじゃないか」


 肩を震わせて笑い、ランツが近づいてくる。見下ろした先には穏やかな眼差しがあって、俺は唇を引き結んだ。


「ほら、ここだよ」


 ランツが背伸びをして、ぐい、と親指で俺の顔を拭った。指先だけが硬い、それでいてあたたかいランツの指。それは何度か俺の肌を往復し、「取れた」という呟きとともに離れていった。

 遅れて状況を理解し始めた頭に、じわじわと熱がのぼってくる。ランツはそんな俺を満足気に眺めると、不敵に笑ってみせた。


「これまでのお返し」

「なに?」

「エルだって、これまで僕にべたべた触ってきたじゃないか」

「……べたべた、までは触っていない」

「へえ、どうだろう」


 それはさすがに語弊がある。たしかに、跳ねた髪を摘まんだり、肌の汚れを拭ったことはあるが……もしかしてああいった行為が、「べたべた触る」にあたるのだろうか。

 触られた本人がそう言うのだから、そうかもしれない。自分の思わず眉間に皺が寄ってしまう。

 ランツは顔を逸らしてくすくすと笑ってから、俺に顔を向けた。


「なんにせよ、鼻の脇にインクなんて付けてたら、男前が台無しだ」


 気のせいか、ランツは晴れやかな表情をしていた。昨日はあれほど警戒していたのに、すべてほどけてしまったように。

 ふと、ランツの言葉に純粋に疑問を覚えて、俺は尋ねる。


「……ランツ」

「ん?」

「お前、俺が男前だと思うのか?」

「はあ?」


 焦茶色の瞳が丸々見えるほど、目が見開かれた。「男前が台無しだ、と言っただろう」と言い訳がましく告げれば、大袈裟なため息が続く。

 ランツはがしがしと頭を掻いて、じろりと俺を見上げた。


「その容姿で、周りから何も言われないわけ?」

「兄たちからは男前だとからかわれることもあるが」

「そうじゃなくてさあ」


 今度はガックリと肩を落とされた。おかしいことを言っているつもりはないのだが。

 首をひねる俺をじっと見てから、ランツは淡々と続けた。


「……僕は、男前だと思うよ」

「は」

「王子様って感じがする」

「一応王子だが」

「だからそうじゃなくてさあ」


 ランツは口をひん曲げたあと、堪えきれないといった様子で吹き出した。なぜ笑われているのか分からない。けれど、背中を丸めてくつくつと笑う姿を見ていたら、自然と力が抜けた。ランツはひとしきり笑ってから、眼鏡を取り、浮かんだ涙を拭う。


「まあいいや。エルのそういう抜けてるところ、嫌いじゃないよ」

「抜けてる?」

「そうさ。自覚はないんだろうけど、悪くない」


 再び眼鏡を鼻元へ戻して、ランツは微笑む。真っ直ぐに見つめてくる眼差しは柔らかい。胸のなかにあたたかいものが広がっていく。


 抜けている、と言われたのは引っかかるが、俺はひどくもどかしい気分になってランツを見つめ返した。


「……嫌いじゃなくて、悪くないというのは」

「え?」

「良い意味で、受け取っていいのか?」


 ランツがぱちくりとまばたきをしたのを見て、すぐに自分の言葉を後悔する。俺はしつこいのかもしれない。昨日の俺の言葉を、ランツはまだ飲み込み切れていないのかもしれないのに、答えを知りたくてたまらない。

 ランツと視線を合わせたまま、無言の時間が続いた。時間を巻き戻したい、と強く願うが、もう遅い。


 永遠にも感じられそうな沈黙に耐えかねて、俺が口を開こうとしたとき、ランツが一歩踏み出してきた。そして俺の襟元に手を伸ばし、乱暴に引き寄せる。


「……君はやっぱり、抜けている男だな」


 ぼそりと呟いたランツの顔が近い。

 どういう意味だ、と反論しようとした瞬間、唇のすぐ脇に、ふわりと柔らかな感触がふれた。覚えのある柔らかさだった。

 引かれていた襟元が自由になり、視線の下ではむくれたランツが俺を見ていた。


「エル。抜けている君にひとつだけ言っておこう」


 今度は俺がまばたきをする番だった。

 ランツの声は力強く、迷いがなかった。


「君にべたべた触られるのは、嫌いじゃないし、悪くない」


 情けないことに、その言葉の意味を飲み込むまで、抜けている俺はしばしの時間を要したのだった。



 兄から「御影の魔導書」の復刻について話を持ちかけられたのは、その日の夜のことだった。



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