第20話 好きな仕事
朝起きて、印刷局へ行かなければとぼんやり思ったけれど、まぶたが腫れぼったくてとても外へ出る気分にはなれなかった。
納期なんてあってないような仕事だ。
罪悪感で身体を起こしてはみるが、印刷局へ行けばエルがいる、と思うだけで気分が沈んだ。
会いたくなかった。次に会ったときにエルがどんな表情を見せるのか、僕には全然予想がつかなかった。もし見下すような視線を向けられたら、僕はもう一言も口をきけなくなってしまう。
僕は強くて図太い男だと思っていたのに、一体どうしてしまったのだろう。憂鬱な想像は僕の頭のなかでどんどん濃度を増していき、自分でも制御ができなくなっていく。
「ランツく~ん」
トポル局長が訪ねてきたときも、僕は寝台の上で膝を抱えてじっとしていた。
局長はきっと何も知らないだろう。でも、誰とも、何も話したくなかった。しばらく休みます、とだけ告げると、局長は「そっかあ」と悲しげに呟いて去っていた。さすがに胸が痛んだ。
また一日、無為に時が流れていく。
僕は完全に腐りきっていた。
もう印刷局は……それどころか印刷技師すら辞めたほうがいいんじゃないか。ひたすら「エルに会いたくない」という考えが頭を占める。
あのくそ王子め。人畜無害そうな顔をして、人をもてあそびやがって。
将来悪い女にだまされて、立ち直れないくらいに泣けばいい。……いや、それはちょっと可哀想かもしれない。立ち直れないのはよくないな。だまされるのは少しだけでいい。
そう考えていたときのことだ。
「ランツ」
外から、くそ王子の声が聞こえた。僕は驚いて寝台から勢いよく起き上がり、その拍子に傍らの棚に置いていた杯を落として割ってしまった。それを拾おうとして、体勢を崩して身体ごと転がった。最悪だ。
「ランツ、俺だ。エルフリートだ」
知ってるよ、馬鹿野郎。
その名のあとに嫌みったらしく国の名がつくことも、よく知ってる。
僕は焦りに焦った。無視をしようと思ったが、物音のせいで居留守は気づかれているだろう。そして悲しいことに、僕の家のおんぼろだ。押し入れられてはかなわないと、僕は椅子を扉の前に置いてエルの侵入を拒もうと思いついた。
「入るぞ」
しかし、慌てていた僕の行動はあまりにも遅すぎた。エルは強引に扉を開いて、家のなかに入り込んできたのだ。
重苦しかった部屋の空気のなかで、陽を受けた金髪が光る。そのきらめきに目を奪われてしまう自分がいやだった。
「久しぶりだな、ランツ」
エルは真っ直ぐに僕を見て、真剣な顔をしていた。僕を見下したり、けなすような表情ではなくて、僕はそれだけで苦しくなった。
絶対に会いたくないと思っていたのに、エルの顔を見た途端、頭のなかにあった暗い考えが全部薄れたのだ。
僕は多分、エルに会いたかったのだと気づく。
「からかっているつもりも、馬鹿にしているつもりもない」
エルは相変わらずの愚直さで言った。けれど僕はどんな顔をしたらいいのか分からなくて、顔の筋肉が動くままにしていたら、エルに笑われた。
笑われたのには腹が立ったが、向けられる眼差しがやさしくて、それが嬉しいと思ってしまう。
「お前と一緒に働くのが好きだ」
混じりけのない声だった。真っ直ぐにその言葉をぶつけられて、僕には逃げ場がなかった。
僕が逃げることを、エルは許してくれない。顔色を変えたくなんかないのに、じわじわと顔に血が集まっていく。
「俺はあの場所で、好きな相手と、好きな仕事をするのが好きなんだ」
思わず、空気の塊を飲み込んでしまった。こいつは何を言っているんだ。厳密にいえば、エルが何を言っているのかは聞こえているし、分かる。けれど、この言葉の理解をしてはいけない気がした。
エルに冗談を返すのなんて日常的なことだったのに、何の返しも思い浮かばない。ふざけてんの、と怒ってみせることもできなかった。澄んだ緑の瞳は、ひたりと僕をとらえて離さない。
目の前の男が、本気でこんな小っ恥ずかしいことを口にしているのだと、僕には分かってしまった。
どうしようもなく熱いものがこみ上げてきた。僕はその熱を、なんと呼んだらいいのか知らない。
エルが僕の右手を取った。少し汗ばんだ皮膚の感触。エルの爪の間には、黒いインクが入り込んでいる。出会ったころ、その爪には汚れひとつなかったのに。
エルはこの短い期間で変わった。
そして僕も、何かが変わった。
「明日は来てくれ」
頷かないとこの手はこのままだ、と脅しのように言われた。でもエルはどこか不安げだった。そしてなぜか、困る僕を見てふっと頬を緩める。
僕もつられそうになって、慌てて口元を隠した。今はまだ、僕が困っているのだと思っていてほしかった。
たとえエルに脅されなくても、僕の気持ちはもう決まっていた。
翌朝、僕は久しぶりに印刷局へ足を踏み入れた。
数日離れていただけで、通いなれた作業場は雰囲気が違うように思える。四台の印刷機はじっと僕を見つめていた。手入れをされなかったことで、拗ねているのが分かる。
「ごめん。今日からまた頼むよ」
心からの謝罪を告げて、一台ずつ時間をかけて機体を磨き上げた。魔導書を作るこの印刷機たちには、魔力が宿っている。
魔力は人から生まれたものだ。だから、それを全身に巡らせ続けた彼らにも、人のように意思がある。僕は彼らの意思を明確に感じ取ることはできないけれど、意思の存在を認めて寄り添うことで、力を渡し合えると信じている。
すべての部品の緩みを直してから、一台ずつ起動させていった。印刷機たちの僕への不信感が少しずつ和らいでいく。声を抑えて語りかける。
「ちなみに、僕だけが悪いわけじゃないからね」
窓から朝日が差し込んでくる。出入口の扉が開いて、お行儀の良い足音が聞こえた。
作業場の扉を開く。似合いもしない作業着を身につけた第三王子は、僕の顔をひと目見ると、わかりやすく目を細めてみせた。
「おはよう、ランツ」
「おはよ、エル」
好きな相手と好きな仕事をするのは、僕だって好きだ。
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