第20話 好きな仕事(ランツ)


 僕が考えていた以上に、僕の心はへこたれていた。

 朝起きて、印刷局へ行かなければとぼんやり思ったけれど、まぶたが腫れぼったくてとても外へ出る気分にはなれなかった。

 その日、やろうと計画していた作業はたくさんあった。

 魔術局から仕入れた材料のなかに、お情けのように混じっていた新しいインクを試したかったし、組版したばかりの文字の列の最終確認もまだ終わっていない。

 でも僕は、そのすべてを投げ出すことにした。

 納期なんてあってないような仕事だ。一日僕が休んだところでどうってことない。

 罪悪感で全く落ち着きはしなかったが、僕は寝台に横たわったままその日を終えた。

 休みは一日では終わらなかった。

 身体を起こしてはみるが、印刷局へ行けばエルがいる、と思うだけで気分が沈んだ。

 会いたくなかった。次に会ったときにエルがどんな表情を見せるのか、僕には全然予想がつかなかった。もし見下すような視線を向けられたら、僕はもう一言も口をきけなくなってしまう。

 第三王子の顔をぶん殴ったことで不敬罪にでも問われるかとほんの少し恐れていたが、王族からの使いはいつまで経ってもやって来なかった。

 それはそうか。同僚をからかって口づけしてやったら殴られた、なんて話、笑い話にだってなりやしない。

 そんな話を聞いたら、きっと誰だって僕を嗤うだろう。僕は誰にけなされたって構わない。馬鹿にされることは嫌いだけど、慣れている。

 でも、エルに馬鹿にされるのだけは、耐えられなかった。

「はあ……」

 何度ため息を吐いても、胸のなかの靄は吐き出せない。自分で勝手に想像して、ますます傷ついた。

 不毛だ。こんなことをしていたって何の意味もないのに。

 僕は強くて図太い男だと思っていたのに、一体どうしてしまったのだろう。憂鬱な想像は僕の頭のなかでどんどん濃度を増していき、自分でも制御ができなくなっていく。

 自分が取るに足りない人間のように思えて、ただ寝台に横たわる時間が増えた。

 その間も、悔しくてたまらないことがひとつあった。

 あの日の口づけの感触が、いつまで経っても消えないことだ。僕はエルを恨み始めていた。

「ランツく~ん」

 トポル局長が訪ねてきたときも、僕は寝台の上で膝を抱えてじっとしていた。

 局長はきっと何も知らないだろう。でも、誰とも、何も話したくなかった。しばらく休みます、とだけ告げると、局長は「そっかあ」と悲しげに呟いて去っていた。しょんぼりと肩を落とす様子が容易に浮かんで、さすがに胸が痛んだ。

 また一日、無為に時が流れていく。

 僕は完全に腐りきっていた。

 もう印刷局は……それどころか印刷技師すら辞めたほうがいいんじゃないか。

 自分の将来を現実的に考えるよりも、ひたすら「エルに会いたくない」という考えが頭を占めていた。

 あのくそ王子め。

 人畜無害そうな顔をして、人をもてあそびやがって。将来悪い女にだまされて、立ち直れないくらいに泣けばいい。

 ……いや、それはちょっと可哀想かもしれない。立ち直れないのはよくないな。だまされるのは少しだけでいい。

 そう考えていたときのことだった。

「ランツ」

 外から、くそ王子の声が聞こえた。

 僕は驚いて寝台から勢いよく起き上がり、その拍子に傍らの棚に置いていた杯を落として割ってしまった。それを拾おうとして、体勢を崩して身体ごと転がった。

 最悪だ、いきなり来るなんて。

「ランツ、俺だ。エルフリートだ」

 知ってるよ、馬鹿野郎。

 その名のあとに嫌みったらしく国の名がつくことも、よく知ってる。

 僕は焦りに焦った。無視をしようと思ったが、物音のせいで居留守は気づかれているだろうと分かった。そして悲しいことに、僕の家のおんぼろだ。

 押し入れられてはかなわないと、僕は椅子を扉の前に置いてエルの侵入を拒もうと思いついた。

「入るぞ」

 しかし、慌てていた僕の行動はあまりにも遅すぎた。椅子を手に持ったところで、エルは強引に扉を開いて、家のなかに入り込んできたのだ。

 重苦しかった部屋の空気のなかで、陽を受けた金髪が光る。そのきらめきに目を奪われてしまう自分が、たまらなくいやだった。

「久しぶりだな、ランツ」

 エルは真っ直ぐに僕を見た。

 僕を見下したり、けなすような表情ではなくて、僕はそれだけで鼻のあたりがつんとなった。

 絶対に会いたくないと思っていたのに、エルの顔を見た途端、頭のなかにあった暗い考えは全部薄れてしまった。

 僕は多分、エルに会いたかったのだと気づく。ランツ、と気安く呼んでももらえるのは心地よかった。

 でも僕の混乱は続いていた。あれこれ言い合いをして、不満をぶちまけて、僕は頭を掻きむしった。どこぞの令嬢と同じように扱われるのはいやだった。からかわれるのも、馬鹿にされるのも。

「からかっているつもりも、馬鹿にしているつもりもない」

 エルは相変わらずの愚直さで言った。

 ごまかしでないことは分かった。

 けれど僕はどういう顔をしていいのか分からなくて、顔の筋肉が動くままにしていたら、エルに笑われた。

 笑われたのにはもちろん腹が立ったが、向けられる眼差しがやさしくて、それが嬉しいと思ってしまう。

「お前と一緒に働くのが好きだ」

 突然、そんなことを言われた。

 混じりけのない声だった。真っ直ぐにその言葉をぶつけられて、僕には逃げ場がなかった。ほんの少しも。

 僕が逃げることを、エルは許してくれない。

 顔色を変えたくなんかないのに、じわじわと顔に血が集まっていく。

「俺はあの場所で、好きな相手と、好きな仕事をするのが好きなんだ」

 こいつは何を言っているんだ。

 いや、厳密にいえば、エルが何を言っているのかは聞こえているし、分かる。

 けれど、この言葉の理解をしてはいけない気がした。本当の意味でエルの言っている言葉を飲み込んでしまったら、僕はいよいよ逃げ場がなくなってしまう。

 僕は何も言えなくなった。

 エルに冗談を返すのなんて日常的なことだったのに、何の返しも思い浮かばない。ふざけてんの、と怒ってみせることもできなかった。澄んだ緑の瞳は、ひたりと僕をとらえて離さない。

 目の前の男が、本気でこんな小っ恥ずかしいことを口にしているのだと、僕には分かってしまった。

 ついさっきまで鬱々と胸に巣食っていた重い澱みが消えていく。そして代わりに、どうしようもなく熱いものがこみ上げてきた。

 僕はその熱を、なんと呼んだらいいのか知らない。

 エルが僕の右手を取る。少し汗ばんだ皮膚の感触。エルの爪の間には、黒いインクが入り込んでいる。

 出会ったころ、その爪には汚れひとつなかったのに。

 エルはこの短い期間で変わった。

 そして僕も、何かが変わった。

「明日は来てくれ」

 頷かないとこの手はこのままだ、と脅しのように言われた。

 でも強引な口調のくせに、エルはどこか不安げだった。そしてなぜか、困る僕を見てふっと頬を緩める。

 僕もつられそうになって、慌てて口元を隠した。今はまだ、僕が困っているのだと思っていてほしかった。

 たとえエルに脅されなくても、僕の気持ちはもう決まっていた。




 翌朝、僕は久しぶりに印刷局へ足を踏み入れた。

 数日離れていただけで、通いなれた作業場は雰囲気が違うように思える。

 四台の印刷機はじっと僕を見つめていた。手入れをされなかったことで、拗ねているのが分かる。

「ごめん。今日からまた頼むよ」

 心からの謝罪を告げて、一台ずつ時間をかけて機体を磨き上げた。魔導書を作るこの印刷機たちには、魔力が宿っている。

 魔力は人から生まれたものだ。

 だから、それを全身に巡らせ続けた彼らにも、人のように意思がある。

 僕は彼らの意思を明確に感じ取ることはできないけれど、意思の存在を認めて寄り添うことで、力を渡し合えると信じている。

 すべての部品の緩みを直してから、一台ずつ起動させていった。印刷機たちの僕への不信感が少しずつ和らいでいく。

 僕は彼らから少し離れた場所で、声を抑えて語りかける。

「ちなみに、僕だけが悪いわけじゃないからね」

 窓から朝日が差し込んでくる。

 出入口の扉が開いて、お行儀の良い足音が聞こえた。

「あのいけすかない王子にも、責任があるんだから」

 作業場の扉が開く。

 似合いもしない作業着を身につけた第三王子は、僕の顔をひと目見ると、わかりやすく目を細めてみせた。

「おはよう、ランツ」

「おはよ、エル」

 いつか教えてあげるよ、エル。

 好きな相手と好きな仕事をするのは、僕だって好きだ。




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