第19話 唇


 エルは、王子らしくない王子だ

 そしてエルも、王族として特別扱いされることを望んでいないようだった。むしろ市井に紛れて、ひとりの働き手として扱われることを好む。

 大分変わった人間だ。この廃れた印刷局で働きたいと思うこと自体、世間的には見れば変わっている。


 お互いの秘密を共有したことで、僕たちは良い意味で遠慮がなくなった。もっと話をするようになったし、我ながら、笑う回数も増えた。エルが仕事に慣れてきたのもあって、僕が多くを指示しなくても、やって欲しいと思った作業がするりとこなされていたりする。


 誰かと働くのも悪くない。

 初めてそう思った。そして、そんなことを思った自分に驚いた。


 ただ、エルは口うるさい。僕が作業に集中しているのに、なにか食え、だの少し休め、なんて事あるごとに言ってくる。

 はじめのうちは煩わしかったが、そのうちそのお節介にも慣れてしまった。エルには本気で誰かを気遣う優しさがあると分かったから。


 不思議なことに、エルと魔導書についてああでもないこうでもないと議論しているときが、楽しいと思うようになってしまった。

 僕だけの知識で進んでいたものに、違う視点が切り込んでくる。それは違う、と反発することもあれば、なるほどそれも悪くない、と目が醒めるような気分にさせられることもあった。世間知らずのエルだけれど、魔導書に組み込まれた術式への理解は驚くほど深かった。


 エルの指先に火が灯るたびにわくわくして、僕は子どものように、くり返し同じ魔術を見せるようせがんだ。エルは僕を馬鹿にしたり、からかったりしない。だから魔術を目の前で見せられても卑屈にならない自分がいる。僕は本当の意味で魔導書を受け入れられた気がした。


 エルの透き通るように澄んだ肌や指先が、インクや機械油で汚れているのを目にするたび、僕の心はざわめいた。この男は本当はこんなところで働くような人間ではないのではないか、というわずかな不安が、胸の裏を掠めていくのだ。


 作業場の天窓からは夕陽が差し込んでくる。穏やかな朱色がエルの金髪を染めて、光を柔く弾く。夕方にだけ見ることのできる光景だった。

 僕は幾度となくその色の美しさに目を奪われた。インクをどんなに重ねても出ない色だ。磨き上げた印刷機の機体に自分のぼんやりとした顔が映り込んで、恥ずかしい気分になったのも一度や二度の話ではない。

 そして僕は、なぜ自分が恥を覚えるのかも分からなかった。


 エルは自分の外見に無頓着だ。王族という立場と同じように、その容姿もただ与えられたものとして見なしているのだと思う。街へ出て並んで歩けば、いくつもの視線が絶えずエルに注がれているというのに。

 第三王子の顔はあまり知られていない、とエルは言う。それは事実だろう。たしかに、彼を見て「エルフリート殿下」と言い当てる人間には出会ったことがない。


 けれど王族であることを差し引いても、エルは目立っていた。

 エルも、もう少し自分がどう見られているのか気にしたっていいのに。自分の外見なんて気にしたことがなかったのに、僕は少しだけみじめになった。


 誰に対しても態度は変わらず誠実で、悪くいえば融通が利かない。

 悪知恵や小賢しさでその場をごまかそうとしない。そんなんじゃ生きづらいだろうに、なんて思ったりもする。僕が王族なら、もっと自分の立場を利用して好き勝手していた。


 そんなエルが、王族の名を使って無理を通した。

 魔術局から資材の供給を止めるという文が届いた直後のことだった。くそが付くほど真面目なエルが。

 なぜそんなことを、と問い詰めると、エルはやけに神妙な表情で答えた。


「お前が泣いていたから」


 なんだそれ。なんだそれ。

 一体なんだ、その理由は。


 僕は面食らって、そして人生で一番驚いた。驚いて、どうしたらいいのか分からなくて、その場しのぎに怒ってみせた。

 でも実際、僕は泣いていなかった。魔術局からの知らせで感情が高ぶったときに目に埃が入って、自浄作用的に涙が出たかもしれないが、絶対に絶対に、泣いてなんかいない。

 それは間違いなくエルの見間違いだ。


 けれど僕は、エルの言葉を「嬉しい」と思ってしまった。おそらく自分の信念を曲げることを好まないであろうエルが、僕を想って行動してくれたということが、嬉しかった。

 そして僕からはなにも返すものがないことに戸惑った。本当の本当に、泣いてはいないのだけれど。


 その日から、エルとの距離感が明確に変わった。変わったというか、やたらと距離を縮められるというか。

 僕は僕で、エルとどうやって接したらいいのか分からなくなったのだが、不意に髪や肌を触られるのは参った。男同士なんだからそこまで気にする必要はないのだろう。しかし突然エルが変わってしまったのだから、僕だって驚いて過剰に反応してしまう。心臓がばくばく言って、仕事に支障をきたすほどだった。


 仕事のあとに二人きりで過ごすのがおそろしくて、僕は早く家に帰るようにしていた。

 それをエルに見咎められ、じゃあこちらも、とここ最近の態度を咎めてみたけれど、エルは自分の距離感のおかしさを自覚していないようだった。

 本当に変わっている。

 なんだか笑えてきて、僕はその日エルを街へと誘った。そしてその帰りに、とんでもないことが起きた。


 僕は精一杯の勇気を振り絞ったつもりだった。なにも返せない代わりに、エルに「ありがとう」と告げた。時間をかけて散々凝り固まっている僕にとっては、必死に紡いだ言葉だった。


 しかしエルはしばし黙り込んだあと、僕に……口づけ、のようなものをしてきたのだ。僕の知識に間違いがなければ、あれは口づけだったと思う。唇と唇がたしかに触れ合ったのだから。


 そんな行為をするような雰囲気はなかった。というか、エルと僕の仲なのだから、雰囲気云々なんて存在するわけがない。

 それなのに、気づいたらエルの顔が間近にあって、柔らかな感触が唇に触れていた。身体のなかでこんなに柔らかい箇所があったのか、と思うくらいに頼りない感触だ。


 数瞬のあと、エルは離れていった。夜の暗さのなかでも、街灯のあかりを背負ったエルは変わらずきれいで、睫毛が目元に色を帯びた影を映し出していた。薄い唇が、ふっと緩む。僕にはそれが、余裕のある慣れた笑みに見えた。


 ——からかわれた。


 そう思って、一気に頭に血が上った。

 昔、父から習った拳の作り方が脳裏をよぎり、僕はそれを実践してエルの頬を殴り飛ばした。

 人を殴ったのは初めてで、右手の指はひどく傷んだ。目を瞠ったエルに「ふざけるな」と言い捨てて、これ見よがしに唇を拭ってから、僕は足早に家へ戻った。


 怒りよりも、もっと大きな感情が身体のなかで荒れ狂い、心臓は早鐘を打っていた。口をゆすいでから、ぼろぼろの寝台にうつ伏せに倒れ込む。右手の痛みが忌々しかった。強く口を擦っても、さっきの感触が消えてくれない。


 からかわれた。馬鹿にされた。

 僕はエルを信用しすぎていた。油断していたのだ。隙だらけだったから、あんなことをされた。

 ぐるぐると考えれば考えるほど、エルに侮られた悔しさが胸に迫り上がった。


 エルは王族だ。そしてあの容姿なのだから、良家のご令嬢なんていくらでも集まってくる。きっとエルにとって、肌や髪に触れたり、口づけを交わすことなんて、大したことではないのだ。僕だけが変に意識して、過剰に反応していただけだ。


 恥ずかしくて悔しくて、僕はいたずらに寝台を叩いた。今ごろエルは「こんなことで殴るなんて」と呆れているだろう。


 震える指で唇に触れる。

 記憶を一部だけ消す魔術はあっただろうか。あるなら今すぐに消したいと思った。でもたとえそんな方法が記された魔導書があったとしても、僕には何の役にも立たない。


 恥ずかしい。みっともない。

 悔しくて、悲しい。


 まだ熱を持ち痛む右手を唇に押し当てる。

 まばたきをするたび頬が濡れた。でもこれだって、泣いてるわけじゃない。

 唇が重なった瞬間、ほのかな喜びを感じてしまった自分を思い出す。


 エルにとってはからかいでも、僕にとってあの口づけは、大きな意味をもつ出来事だった。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る