第19話 唇(ランツ)

 エルは、王子らしくない王子だ。

 いくら上司から頼まれているからって、ほぼ毎日街まで休憩用の菓子を買いに行く王族だなんて、国民が知ったらどう思うのだろう。

 僕は、面白いから嫌いじゃないけれど。

 どうもうちの国の王族はなかなかの放任主義らしい。

 そしてエルも、王族として特別扱いされることを望んでいるようには見えなかった。むしろ市井に紛れて、ひとりの働き手として扱われることを好む。

 ほかの兄たちがどんな性格なのかは知らないが、エルは大分変わった人間だった。この廃れた印刷局で働きたいと思うこと自体、世間的には見れば変わっているのだけれど。

 お互いの秘密を共有したことで、僕たちは良い意味で遠慮がなくなった。もっと話をするようになったし、我ながら、笑う回数も増えた。エルが仕事に慣れてきたのもあって、僕が多くを指示しなくても、やって欲しいと思った作業がするりとこなされていたりする。

 誰かと働くのも悪くない。

 初めてそう思った。そして、そんなことを思った自分に驚いた。僕の中で、緩やかな変化が起きていたのかもしれない。

 エルは口うるさい。僕が作業に集中しているのに、なにか食え、だの少し休め、なんて事あるごとに言ってくる。

 はじめのうちは煩わしかったが、そのうちそのお節介にも慣れてしまった。エルには本気で誰かを気遣う優しさがあると分かったから。

 もちろんトポル局長や、過去に師事した技師とも一緒に働いてはいた。でも僕は経験豊富な彼らから技術を教わる立場だから、誰かと肩を並べて働くという感覚はいつも遠かった。

 四台の印刷機をひとりで動かすようになってからは、むしろ自分のやりたいようにやれることが幸せだと思っていた。誰かの手出しなんて邪魔でしかない、と本気で考えていた。

 でも、エルと魔導書についてああでもないこうでもないと議論しているときが、楽しいと思うようになってしまった。

 僕だけの知識で進んでいたものに、違う視点が切り込んでくる。それは違う、と反発することもあれば、なるほどそれも悪くない、と目が醒めるような気分にさせられることもあった。世間知らずのエルだけれど、魔導書に組み込まれた術式への理解は驚くほど深かった。

 正直なところ、僕はそれまで同世代と真剣に話し合うことがほとんどなかったから、エルとの対話は新鮮だった。

 エルの指先に火が灯るたびにわくわくして、僕は子どものようにくり返し同じ魔術を見せるようせがんだ。

 エルは僕を馬鹿にしたり、からかったりしない。だから魔術を目の前で見せられても、卑屈にならない自分がいる。

 僕は本当の意味で魔導書を受け入れられた気がした。

 エルは色んな声色で僕の名を呼ぶ。ときには不思議そうに、ときには怪訝な調子で。そしてその声色は、ふとした瞬間に驚くほどやわらかくなる。

 エルの透き通るように澄んだ肌や指先が、インクや機械油で汚れているのを目にするたび、僕の心はざわめいた。

 この男は本当はこんなところで働くような人間ではないのではないか、というわずかな不安が、胸の裏を掠めていくのだ。

 トポル局長が帰るころ、作業場の天窓からは夕陽が差し込んでくる。穏やかな朱色がエルの金髪を染めて、光を柔く弾く。夕方にだけ見ることのできる光景だった。

 僕は幾度となくその色の美しさに目を奪われた。インクをどんなに重ねても出ない色だ。磨き上げた印刷機の機体に自分のぼんやりとした顔が映り込んで、恥ずかしい気分になったのも一度や二度の話ではない。

 そして僕は、なぜ自分が恥を覚えるのかも分からなかった。

 エルは自分の外見に無頓着だ。王族という立場と同じように、その容姿もただ与えられたものとして見なしているのだと思う。

 街へ出て並んで歩けば、いくつもの視線が絶えずエルに注がれているというのに。

 第三王子の顔はあまり知られていない、とエルは言う。それは事実だろう。確かに彼を見て「エルフリート殿下」と言い当てる人間には出会ったことがない。

 でも、王族であることを差し引いても、エルは目立っていた。すらりと背が高く、顔は繊細なつくりをしているから、作業着を身に着けているとちぐはぐさが際だって悪目立ちしている。隣にいると居心地が悪いくらいだ。

 エルも、もう少し自分がどう見られているのか気にしたっていいのに。自分の外見なんて気にしたことがなかったのに、僕は少しだけみじめになった。

 エルはちっとも偉ぶらない。王位継承がほとんど望めないという背景のせいもあるのだろうが、誰に対しても態度は変わらず誠実で……悪くいえば融通が利かない。

 悪知恵や小賢しさでその場をごまかそうとしない。そんなんじゃ生きづらいだろうに、なんて思ったりもする。僕が王族なら、もっと自分の立場を利用して好き勝手していた。エルには、焦ったくなるような謙虚さがあった。

 そんなエルが、王族の名を使って無理を通した。魔術局から資材の供給を止めるという文が届いた直後のことだった。

 なぜそんなことを、と問い詰めると、エルはやけに神妙な表情で答えた。

「お前が泣いていたから」

 なんだそれ。なんだそれ。

 一体なんだ、その理由は。

 僕は面食らって、そして人生で一番驚いた。驚いて、どうしたらいいのか分からなくて、その場しのぎに怒ってみせた。

 でも実際、僕は泣いていなかった。

 魔術局からの知らせで感情が高ぶったときに目に埃が入って、自浄作用的に涙が出たかもしれないが、絶対に絶対に、泣いてなんかいない。それは間違いなくエルの見間違いだ。

 でも僕は、エルの言葉を「嬉しい」と思ってしまった。おそらく自分の信念を曲げることを好まないであろうエルが、僕を想って行動してくれたということが、嬉しかった。

 そして僕からはなにも返すものがないことに戸惑った。本当の本当に、泣いてはいないのだけれど。

 その日から、エルとの距離感が明確に変わった。

 変わったというか、やたらと距離を縮められるというか。

 僕は僕で、エルとどうやって接したらいいのか分からなくなったのだが、不意に髪や肌を触られるのは参った。男同士なんだからそこまで気にする必要はないのだが、突然エルが変わってしまったのだから、僕だって驚いて過剰に反応してしまう。心臓がばくばく言って、仕事に支障をきたすほどだった。

 どう考えても距離感がおかしい。僕には、エルの意図が分からなかった。

 仕事のあとに二人きりで過ごすのがおそろしくて、僕は早く家に帰るようにしていたそれをエルに見咎められ、じゃあこちらも、とここ最近の態度を咎めてみたけれど、エルは自分の距離感のおかしさを自覚していないようだった。

 本当に変わっている。

 なんだか笑えてきて、僕はその日エルを街へと誘った。そしてその帰りに、とんでもないことが起きた。

 僕は精一杯の勇気を振り絞ったつもりだった。なにも返せない代わりに、エルに「ありがとう」と告げた。

 時間をかけて散々凝り固まっている僕にとっては、必死に紡いだ言葉だった。

 しかしエルはしばし黙り込んだあと、僕に……その、口づけ、のようなものをしてきたのだ。

 僕の知識に間違いがなければ、あれは口づけだったと思う。唇と唇がたしかに触れ合ったのだから。

 そんな行為をするような雰囲気はなかった。というか、エルと僕の仲なのだから、雰囲気云々なんて存在するわけがない。

 それなのに、気づいたらエルの顔が間近にあって、柔らかな感触が唇に触れていた。身体のなかでこんなに柔らかい箇所があったのか、と思うくらいに頼りない感触だ。

 数瞬のあと、エルは離れていった。夜の暗さのなかでも、街灯のあかりを背負ったエルは変わらずきれいで、睫毛が目元に色を帯びた影を映し出していた。薄い唇が、ふっと緩む。

 僕にはそれが、余裕のある慣れた笑みに見えた。

 ——からかわれた。

 そう思って、一気に頭に血が上った。

 昔、父から習った拳の作り方が脳裏をよぎり、僕はそれを実践してエルの頬を殴り飛ばした。人を殴ったのは初めてで、右手の指はひどく傷んだ。

 目を瞠ったエルに「ふざけるな」と言い捨てて、これ見よがしに唇を拭ってから、僕は足早に家へ戻った。

 怒りよりももっと大きな感情が身体のなかで荒れ狂い、心臓は早鐘を打っていた。口をゆすいでから、ぼろぼろの寝台にうつ伏せに倒れ込む。右手の痛みが忌々しかった。強く口を擦っても、さっきの感触が消えてくれない。

 からかわれた。馬鹿にされた。

 僕はエルを信用しすぎてた。

 油断していたのだ。

 隙だらけだったから、あんなことをされた。

 ぐるぐると考えれば考えるほど、エルに侮られた悔しさが胸に迫り上がった。

 エルは王族だ。そしてあの容姿なのだから、良家のご令嬢なんていくらでも集まってくる。きっとエルにとって、肌や髪に触れたり、口づけを交わすことなんて、大したことではないのだ。僕だけが変に意識して、過剰に反応していただけだ。

 恥ずかしくて悔しくて、僕はいたずらに寝台を叩いた。今ごろエルは「あの男、こんなことで殴るなんて」と呆れているだろう。

 震える指で唇に触れる。記憶を一部だけ消す魔術はあっただろうか。あるなら今すぐに消したいと思った。

 でも次の瞬間、たとえそんな方法が記された魔導書があったとしても、僕には何の役にも立たないのだと気づいてしまう。

 恥ずかしい。みっともない。

 悔しくて、悲しい。

 まだ熱を持ち痛む右手を唇に押し当てる。

 まばたきをするたび頬が濡れた。でもこれだって、泣いてるわけじゃない。

 唇が重なった瞬間、ほのかな喜びを感じてしまった自分を思い出す。

 エルにとってはからかいでも、僕にとってあの口づけは、大きな意味をもつ出来事だった。





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