第18話 いけすかない王子(ランツ)
◆
印刷局という最良の職場を得てからというもの、僕の人生はそれなりに順風満帆だった。
ここでは自分の生まれを気にする必要はない。自分を卑屈に思わなくても、僕にはできることがあると自信を持てる。
絶版となった魔導書を復刻すること。
世間的にはあってもなくてもいい仕事だ。でも、その書を読み解き、過去のかたちに刷り上げるたび、僕の胸は弾む。印刷技師として魔導書に携わる理由としては、それで十分だった。
——僕には、これがあればいい。
四台の印刷機と、呑気なトポル局長とともに、この居場所をできるだけ長く守り続けていようと思っていた。
しかし、この国の第三王子——エルが現れてからというもの、どうも事情が変わってきた。
初めて顔を合わせたときのことはよく覚えている。絹糸のような金髪に緑玉の瞳。傷一つないなめらかな白い肌に、機械に引き込まれてもおかしくない、ヒラヒラのブラウス。
エルはまさに、絵に描いたような「王子様」だった。いつか美しいお姫さまをお城に迎え入れて、そのまま幸せに暮らしました、という人生を送ってもおかしくない、清廉潔白な王子様。
そんな第三王子は、油臭い印刷局の作業場からは完全に浮いていた。魔導書の研究をしたい、だなんて口にする能天気さに呆れ、いけすかない奴だと思った。
道楽で僕の居場所に乗り込まれてはたまらない。どうせすぐに辞めるんだろう、と僕は彼を挑発してやった。
だが、僕の予想に反して、エルは毎日印刷局へやってきた。そして僕の指示に悪態を吐きながらも、ひとつひとつの仕事を覚えていった。
大きな声ではいえないが、僕は王族への忠誠心がさほど強い方ではない。だからかろうじて現国王の顔は知っている程度で、その下に王子が何人いるのかさえ知らなかった。
王族なのだから護衛かなにかを付けて出勤するものかと思っていたが、エルはいつもふらふら一人でやって来た。本当に王子なのか、と面食らったが、些細な所作に品の良さが感じられて、それがまたやけに目についた。
魔導書が仕上がるたび、エルはいちいち感動していた。大騒ぎして声を上げるわけではない。ただ、静かに頁をめくり、嬉しそうに頬を緩めるだけだ。それもまた、目についた。
魔力を込められた時代遅れの本。僕にはそこに記された内容を理解することはできても、使いこなすことはできない。
これまでも、これからも、ずっと。
そんな本を、エルは愛おしげに眺めるのだ。
自分でも制するすべが分からないたぐいの苛立ちに襲われた。雑に扱っても、多少無茶なことを言ってみても、エルは眉間に皺を寄せていくらか反論してくるだけだ。
けれどある日、良いものしか口にしたことがないであろう唇が、「御影の魔導書」ということばを紡いだとき、僕の苛立ちは限界に達した。
——何も知らないくせに。
僕は何も教えていないのだから、エルが何も知らないのは当然だ。我ながら理不尽な怒りだった。でも、エルはびっくりするくらい真面目だった。
魔導書には価値がある。
真剣な顔でそう言い切るエルに根負けして、僕は結局すべてを明かした。
御影の魔導書は美しい書だ。
組版にも無駄がなく、緻密な計算を張り巡らせた印刷方法を採用している。印刷技師として、それは認めざるを得ない。
けれどこの書を開くたび、僕の心臓は氷のなかへ突っ込んだように、ひやりと冷たくなる。思い出す必要のない記憶が呼び覚まされるからだ。
僕に魔力がないと分かった、あの日。
父も母も、僕を責めなかった。責めずにただ、自分たちが一族を完全に終わらせる子どもを産み落としてしまったという事実を受け止めようとしていた。
彼らの誠実さが、僕には痛かった。
僕が自らの能力のなさを謝罪すれば、逆に両親を追い詰めてしまう。
シュテーデル家のはじまりを作った御影の魔導書を、僕は恨みを込めて何度も読んだ。
ただ、読むだけだ。書かれた魔術を幾度辿ったところで、書に綴られたような奇跡は一度も起こらない。
それでも僕は、くり返し術式を組んで試した。なにかがきっかけになって、ふとした瞬間に魔力が目覚めてくれるのではないかと期待して。
期待はただ、無力感に変わっただけだ。僕は時間をかけて現実を受け止め、王都へ出て印刷について学び、下働きを経た今、こうして印刷技師として独り立ちしている。
僕は、そんな自分のことを誇りに思っている。
しかし魔導書にこだわること自体が、未練の表れなのではないかとぞっとするときもある。御影の魔導書を開くたび、打ちひしがれた日々が眼前に迫ってくるような気がした。
必死に文字を追い、術式の真似事をしていた、惨めで哀れな僕がそこにいる。目を逸らしたくても、胸が騒いでも、あのころの気持ちは鮮明に蘇ってしまう。憎くてきれいな、はじまりの書。
誰かに話したのは初めてだった。
けれどエルが、あまりにも神妙な顔で話を聞くものだから、どうでもよくなってしまった。御影の魔導書を復刻をしてもいい、と口にした自分に、自分で驚いた。
それこそ無茶な発想だ。高い技術と豊富な材料が必要なことは目に見えていて、実現するのはほぼ不可能とも思われた。
けれどエルが子どもみたいに瞳を輝かせるものだから、少し試してみてもいい、という気になってしまった。エルの頓珍漢な生真面目さは、僕の調子を狂わせる。
その日以来、僕はふっと力が抜けてしまった。力が入っていることすら気づかなかったが、エルがやって来てから絶えず身体に巣食っていた靄が薄まったようだった。
僕はエルとよく話すようになった。
魔導書について、そして自分たちについて。
仕事の苛立ちで深酒をしてみたりもした。
同年代の人間とここまでの関係を築いたのは初めてだった。それくらい、僕は実体のない何かと戦うために、肩に力を入れていた。
ある日、秘密を教えろ、と促すと、エルは訥々と語った。あまり楽しい話ではなかった。
期待しているつもりじゃなかった。
でも本当は、期待していた。そんな自分が恥ずかしい。
エルの言葉は、僕の心に音もなく沁みていった。僕にもその気持ちが分かる、と言いかけたが、やめておく。同じ感情の波を辿ったからといって、エルの心を読み解いたつもりになるのはいけない。
僕とエルの心は違う。
受けとめ方も、考え方も。
共感を擦り寄せる代わりに、僕は自分の考えを告げた。
——悪いことでも、恥ずかしいことでもない。
エルに言っているようで、自分に言い聞かせた言葉でもあった。自分が自分に期待していたこと、そしてそれが折れて惨めになったこと。みっともない自分を、改めて受け入れてやりたいと思った。
僕の思い込みかもしれない。
でも、エルと僕の間には、目には見えない温かいなにかが通った気がした。
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