第17話 扉を破るとき


 ランツの住む家の場所は、トポル局長から教えてもらった。「僕も付いて行こうか」と言い出さなかったあたり、局長もなにかを察しているのかもしれない。どこまで察しているのか、おそろしいところではあるが。

 想いを寄せる相手の住処を上司から聞き出し、一方的に訪ねる。

 これはとても褒められた行動ではない。ランツからしてみたら気色悪いだろう。

 夜に訪ねるのはますます良くない気がして陽が高いうちに来てみたが、追い返されるかもしれないという恐れもあった。だが、自分の過ちに目を瞑って、ランツを放置しておくわけにもいかない。

「……これは、なかなか」

 訪ねた先は、よく言えば趣があり、悪く言えば年季が入りすぎた小さな貸家だった。周りに建ち並ぶほかの家々に比べても、随分と脆そうだ。それこそ、風が吹いたら飛んでしまいそうな。

 衣食に無頓着なランツらしい。きっと「屋根があればそれでいい」くらいにしか考えていないのだろう。

 おそらく出入口と思しき扉を軽く叩いてみる。力を込めたら、そのまま内側に倒れていきそうな作りだった。というかこの扉、鍵も付いていないんじゃないだろうか。

 じっと耳を澄まして音を拾おうとするが、中からはなにも聞こえなかった。

「ランツ」

 おそるおそる声を掛けてみる。途端にガタッと物音がしたから、家の主は中にいるようだ。しばらく待っても返事はなかった。

「ランツ、俺だ。エルフリートだ」

 今度は声を張って呼びかけてみた。ガシャンとなにかが落ちる音がして、続いてドンと重いものが床にぶつかる音がした。

 やはり中にいる。息をひそめて待ってみるが、それでもランツは出て来なかった。トポル局長にすら顔を合わせなかったのだから、俺相手なら口もききたくないだろう。このまま黙ってやり過ごすつもりに違いない。

 というわけで、俺はいささか乱暴な方法を取ることにした。

「入るぞ」

 開かない扉を押し破ることにしたのだ。もはや板と呼んでもいいくらいの薄さの扉を、思い切り押し込んでやれば、脆弱なそれは軋む音を立てて呆気なく開いた。

 そして、その先には。

「な、な……」

「久しぶりだな、ランツ」

 なにをするつもりだったかは知らないが、扉のすぐ向こうには、両手で椅子を持ったランツが突っ立っていた。そして部屋が汚い。汚いというか散らかっている。床に衣服やら日用品やらが散乱し、机らしき小高い丘には魔導書が積み重なっていた。

 ランツは俺の突然の襲来によほど驚いたのか、鼻先にかけていた眼鏡がずり落ちていた。ランツは口をあんぐりと開け、俺と扉を見比べたあと、家の主はわなわなと震え始める。

「だ、誰が入っていいと言ったんだよ!」

「入ってはいけないとも言われなかった」

「言われなければ黙って帰りなよ! そんなの屁理屈だろ!」

「そうだな」

「そうだな、じゃない!」

 がん、と乱暴に椅子を床に置き、ランツは鼻息荒く俺に近づいてきた。

 怒りに満ちた瞳が俺を見上げ、今にも胸が合うくらいに距離を縮めてきたあと……はっと気づいた表情に変わり、そのまま後退りを始めた。

 どうやら警戒されているらしい。なぜか再び椅子を持って構えるランツに、俺は静かに話しかける。

「ランツ、すまなかった」

「…………」

「この前のことは、本当に悪かったと思っている」

 ランツの瞳が揺れる。なんと返していいのか分からない、と顔には書いてあった。

 その表情を見て、改めて自分がランツを困惑させてしまったのだと分かった。

 あれは、自分勝手で、独りよがりな行動だった。

 理解していたつもりだったが、胸がずしりと重くなる。

 もしこれ以上話を続けて、嫌悪の感情を見せつけられたら。

 それを思うと怖かったが、俺は口を開いた。

「言い訳をするつもりはない。許してほしいと無理強いもしたくない。ただ、俺は」

「悪かった、って」

「え?」

「悪かったって、何に対して言ってるの?」

 狭い部屋の壁に、ランツの低い声がぶつかって落ちていく。分厚いレンズの奥に嫌悪はなく、ただ疑念だけが映り込んでいた。

 ランツは身体の前に静かに椅子を置く。まるで俺からの防護壁を築いているかのようだった。

「僕のことをからかったこと? それで僕がへそを曲げたから、機嫌を取りにきたってわけ?」

 ランツの言葉には棘があった。けれど、声は震えてもいた。唇を軽く噛むと、ランツは俺を真っ直ぐに見つめながら続ける。

「僕が慣れない反応したから楽しかった?」

「ランツ」

「よくないよ。あんなのは、よくない」

 首を横に振りながら、自分に言い聞かせるような言い方だった。俺が想像していた以上に、あのときの行動はランツを混乱させていると理解した。

 何か誤解されている。

 言い訳をするつもりはない、と言ったその口で、俺はランツに弁明をしようとしていた。しかしランツはそれを許さず、吐き出すように言葉を紡ぐ。

「エルは王子様だから、ああいう……色事っていうの? 慣れてるのかもしれないけど、それを僕にするのはよくない。あんな風にされて喜ぶのは育ちの良いご令嬢だけだ」

「慣れてなんかいない。あれは」

「どうだか。口でならなんとでも言える」

 ランツの態度は頑なだった。苛々と頭を掻きむしると、大袈裟なため息をつく。

「……からかわれるのも、馬鹿にされるのも、大嫌いだ」

 どこか疲れて、諦めたような口調だった。

 ランツの後ろに、それまで歩いてきた曲がりくねった道が見えるような気がした。

 俺はきっと、ランツのことをほとんど知らない。あの巨大な四つの機械の隙間を器用に動き回る姿や、真面目に思考にふける姿や、俺に雑用を押しつけるときの意地の悪い笑みや、時折こちらを見て「エル」と呼ぶ姿。それしか知らない。

 でも、そのランツの一部に触れて、心惹かれたのは嘘じゃない。

「ランツ」

「…………」

「俺が悪いと思っているのは、お前の気持ちも訊かずに一方的に口づけをしたことだ」

「う」

「からかっているつもりも、馬鹿にしているつもりもない」

 口づけ、という直接的な単語に、ランツの身体が強張った。目を見開き唇をひん曲げているせいで、おかしな顔になっている。

 笑うべきではないと思ったものの、あまりにも妙な表情すぎて、俺は思わず口元を覆って顔を背けた。

「なに笑ってんの」

「すまない」

「謝りに来ておいて、人の顔見て笑うなんて失礼だ」

 ランツはやはり目ざとかった。そのやり取りで、張り詰めていた空気が一瞬緩んだ気がした。

 けれどランツの瞳にはいまだ疑いの色が宿っている。少しでも心の距離を縮めたくて、俺はランツへ向かって数歩進んだ。

 正面に立って見つめ返すと、ランツは息を呑む。

 嫌われているわけではない。おそらく。

 自分の勘を信じて、俺はランツを護っていた椅子を掴んで横に除けた。頼りない護衛を失ったランツは、焦ったように腕を組み俺を睨む。

「それとも、僕なんかには礼なんていらないってわけ? エルフリート殿下」

 分かりやすい虚勢だった。かわいげも愛嬌もなければ、口も悪いし、態度もでかい。

 そもそもランツは男だ。

 だから、かわいらしさなんて求めていないし、必要もない。

 自分の腕ひとつを信じて、印刷技師として真剣に仕事に向き合ってきた人間なのだから、尊敬をすることはあっても、見下げようなんて気持ちは俺には全くない。

 ランツ、と名を呼んで、俺は言った。

「俺は今、この国の第三王子としてではなく、ただのエルフリートとしてお前と話をしている」

 ぐ、とランツが言葉に詰まったのが分かる。

 自分の不器用さがもどかしい。

 ランツの言うとおり、俺が色事に長けていたならどれほどよかったか。

 俺は長い間ずっと魔導書にかまけてきた、取るに足らない男だ。

 恋なんてひとつもしたことがない。

 もし人の心を読むのに慣れていて、からかい程度で口づけをするほどの技量があったのなら、俺は想いを寄せる相手に対して、ここまで必死にならずに済んだというのに。

「お前と一緒に働くのが好きだ」

「……は」

「お前があの場所で、忙しく動き回っているのを見るのが好きだ。仕事を終えて機械を止めたあとに、魔導書を広げてお前と議論を交わすのが好きだ」

「な、なに」

 じわじわとランツの顔が赤くなっていく。

 俺は一体なにを言っているのだろう。

 ここへは謝りに来たはずなのに。

 自分の顔にも血が集まっているのが分かったが、今は包み隠さずにすべてを伝えようと思った。口先だけの言葉では、ランツに見透かされてしまう。いつの間にか握りしめていた拳の指先が、じん、と痺れる感覚があった。

「俺はあの場所で、好きな相手と、好きな仕事をするのが好きなんだ」

 ランツがまばたきをした。

 組まれていた腕がほどけて、そのまま固まってしまう。

「え、あ、う」

「口づけをしたのは、その、そういうことだ。ちょっと、勢い余ってしまって、つい」

 おい、なんだその歯切れの悪い終わり方は。勢い余ってつい、じゃないだろう。

 自分で自分の頭を叩いてやりたくなったが、俺の持てる力は出し切ってしまった。

 ランツの顔は、俺を向いたまま真っ赤になっている。そして口をぱくぱくとせわしなく開閉させてから、深くうつむいた。

 隙間風が部屋へと吹き込んでくるなか、この上なく重い沈黙が降りてくる。

 またしても、やってしまった。しかし俺は後悔していなかった。というよりも、後戻りはできなかった。口から放ってしまった言葉は、今、確かに俺たちの何かを変えていた。

「ランツ」

 目の前にした反応で、嫌われているわけではないとは分かった。かなり遠回りで情けないが、想いは伝えたつもりだ。

 この言葉はランツにとって重荷になるのかもしれない。

 でも、俺が決してランツを軽んじているわけではないと知ってほしかった。

 少し迷ってから、俺は胸の前で不自然に固まったままのランツの右手を取る。

 びくりと震えた指先は、工具を扱い続けたために皮膚が硬くなっていた。その感触に頬を緩ませて、俺は焦げ茶色の瞳と視線を合わせる。

「明日は来てくれ」

「う」

「頷かないと、この手はこのままだぞ」

「ええ……」

 困り果てた声を出して、ランツは口を歪めた。

 またおかしな顔をしている。けれど今度は笑う気は起きなくて、代わりにそんな表情をするランツが愛おしいと思った。

 勝手に頬が緩み、胸の奥があたたかい。

 もう片方の手で口元を隠しながら、ランツはぽつりと呟いた。

「そんなの、脅しじゃないか」


 脅しの効果は覿面だった。

 翌朝、俺が印刷局へ足を踏み入れると、作業場からは聞き慣れた機械音が響いていたのだから。



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