第16話 殿下の色ごと


 とてもとても面倒なことになってしまった。

 前回の朝帰り騒ぎよりもさらに事態は面倒になった。しかし、原因は俺自身だ。これに関しては議論の余地がない。


「よう、色男」


 自室から出て廊下を歩いていると、いつかのようにルベルと出くわした。

 おそらく俺の噂を聞きつけたのだろう。王宮内の噂の伝達速度はおそろしいほどにはやい。色事に関することなら、なおさら。


「ルベル」

「あまり悲観的になるな、弟よ。つらいのはよく分かる」

「なにも言ってないが」

「ああ、いいんだ。言わなくてもいい。ちゃんと伝わる。俺たちは兄弟だからな」


 肩に置かれていた手が拳となり、俺の胸をそっと突く。ルベルはあたたかな眼差しをしていたが、俺の胸は苦々しいままだった。


「傷は、いつか癒える」

「…………」

「時の流れが解決してくれる。新しい恋を見つけるんだ、弟よ」


 ルベルの瞳は俺の胸中を察しているつもりなのか、かすかに潤んでいた。見当外れな気遣いに、ますます脱力しそうになる。

 しかし、「新しい恋」という言葉は、今の俺にはチクリと来た。


「じゃあな、エルフリート」


 再び肩を叩いて手をひらめかせながら、ルベルは颯爽と去っていった。背中には弟を鼓舞した達成感のようなものが滲んでいる。

 そんな俺たちの姿を、周りの使用人たちが気遣わしげにちらちらと見ているのがまた辛い。

 いやしかし、今回ばかりは俺が悪い。いまだに腫れた左頬がじくじくと疼く。

 三日前、この顔を抱えてこっそりと帰ってきたものの、目ざといメイド達に見つかって大騒ぎになってしまったのだ。

 そして即座に噂は広まった。エルフリート様は、朝帰りまでして想いを寄せていた御仁に手酷く振られてしまったに違いない、と。


「あ〜……」


 前髪をぐしゃぐしゃと掻き乱して、深くため息をつく。何度あの日のことを後悔しても足りない。印刷局で働き始めてからの俺は、自分でも理解できない行動をくり返してばかりいる。

 目蓋を閉じれば、あの焦げ茶色の瞳が浮かんだ。


「はあ」


 ため息はいくらでも出る。手酷く振られた、というのは当たらずとも遠からずだ。

 というか、振られたもなにも、その「想い人」とはまともに言葉を交わす暇もなかったのだが。



 ◆



 三日前、俺は過ちを犯した。

 ランツに礼を言われ、自分のなかにあった気持ちの正体に気づいた。そして、勢いのまま口づけをしてしまった。


 勢い、というか、言い方は悪いが、やりたくてやったのだ。ランツに触れたくて、無性に近づきたくて、それで一方的に唇を合わせた。


 あれは良くなかった。今なら分かる。あのときは衝動に身を任せていたから、良し悪しを判断する余裕がなかった。俺はなかなか危ない男なのかもしれない。


 ランツは当然激怒した。柔らかな感触に胸を震わせ、顔を離した瞬間、左頬に強い衝撃が走った。

 見事なまでの拳による殴打。ランツは小柄だが、男としての本気を見せつけられた、と思うような力だった。俺はよろめき、なんとか転ぶのは耐えた。


 ふざけるな。


 ランツはそう言い捨てた。

 薄闇のなか視線を投げかけてみれば、握ったままの拳を震わせて、きつくこちらを睨みつけていた。その表情の険しさで、俺はやっと自らの過ちに気づいたのだ。


 ランツは袖で口元を拭ったあと、再び俺を睨みつけ、そのままなにも言わず立ち去ってしまった。弁明も謝罪もする余地はなかった。口元を拭われたのはそこそこ傷ついたが、仕方がない。突然同僚に口づけをされたら、当然の反応だ。

 訴えられても文句は言えない。気持ち悪い、とも思われただろう。俺の心は見事なまでに萎れていた。衝突はそれなりにあったものの、ランツと良好な関係を築いていたというのに、俺の軽率な行動でぶち壊してしまったのだから。


 そして、問題はもうひとつ。


「ランツくん、今日もお休みかなぁ」

「…………」

「どうしたんだろうねぇ。心配だねぇ」

「そ、そうですね」


 トポル局長が肩を落とす横で、俺は白々しい返事を返しながら茶を淹れていた。

 ランツは印刷局へも来なくなってしまった。今まではこんなことはなかったのに、と漏らす局長は寂しげだ。

 どう考えても原因は俺だったが、さすがに理由をつぶさに説明する度胸はなく、曖昧に微笑むことしかできない。しかし、時折俺の腫れた左頬に視線が注がれるので、なにかあったことは察しているかもしれない。


「本当にしばらく来ないのかなぁ」

「…………」


 心配した局長が、ひとりでランツの家を訪ねたのは昨日のこと。局長が声を掛けてみたが、扉越しに「しばらくお休みさせてください」と声だけが返ってきたのだという。

 あの仕事好き人間が、そこまで拒否するとは。トポル局長も原因が分からないだけに相当気落ちしているようだった。


 罪悪感に苛まれながら、俺はひとり作業場へ足を踏み入れる。主の不在に、四台の印刷機たちは沈黙し、じっと耐えているようにも見えた。ここまで静まり返った作業場は初めてだ。いつもなら、そこかしこでランツがちょこまかと動き回っているのに。

 左頬がまたじくりと疼く。


 ランツがいなくては、印刷機は動かせない。保管庫に眠ったままの数多の魔導書も、復刻というかたちで新しく生まれ変わる機会を失ってしまう。

 そんなことは、きっとランツも望んでいない。俺と顔を合わせたくない、という理由でランツがここに来れないのであれば、俺の取るべき方法はひとつだ。

 俺は事務室へと戻り、背中を丸めるトポル局長に声を掛けた。


「少し、出てきてもいいですか?」

「え?」

「ランツに、会って来ようかと」


 このままただ待つだけでは問題は解決しない。

 向こうは俺の顔なんて見たくもないだろうが、とにかく会って、まずは、誠心誠意を込めて、謝らなければ。


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