第14話 罪なき無意識
王族の名をひけらかした効果は
しかし、少しだけ困ったことになった。
妙な雰囲気を味わってから数日経っても、俺とランツの間にはぎくしゃくした空気が流れていたのだ。
以前険悪になったときとは、また別のぎくしゃくだ。
俺はさほど友人が多くないが、短期間でここまで関係がぶれたことはなかった気がする。職場での人間関係というのは、なかなか奥が深い。
ちらちらと視線はぶつかるが、お互い「あ」とか「お」とか同時に言い出してしまって、挙げ句の果てには「先にどうぞ」と譲り合うものだから、結局話が始まらない。
ランツは終始眉根を寄せて手を動かしていたが、不機嫌なわけではなさそうで、俺はなぜかそれに安堵していた。
ぼそぼさ髪の小さな頭が揺れるのが視界に入ると、その動きをずっと見つめていたいような、それでいて目を逸らしたいような、妙な欲求に襲われる。
自分の視界の下でランツの髪が揺れていたときは、無意識に手が伸びて、跳ねていた一房を摘んでしまった。
途端に「びゃ!」と聞いたことのない悲鳴とともに激しく驚かれ、さらにそれに驚いた俺が「うおっ」と声を上げる羽目になった。
昔、母が可愛がっていた顔の潰れた猫が、鼠を見るたびに「びゃ!」と同じような声を上げていた気がする。
「ななななな何!?」
ランツはすばやく頭を押さえると、俺から距離を取り、きつく睨みつけてきた。
「いや、髪が」
「髪が?」
「跳ねていたから」
「は?」
どういうこと、と尋ねられたが、うまく返答できなかった。髪がぴょこぴょこいっていたから、なんとなく触りたかっただけだ。
それ以外に、特に理由はなかった。
自分でも驚いたくらいだ。
ランツはちらちらと俺の方を見て頭を撫でつけながら、口の中でなにやら小言をくり返していた。
トポル局長はそんな俺たちの不恰好なやり取りを見て、楽しそうに微笑んでいた。
年の功がある彼ならば、この妙な空気の打開策を知っているように思えたが、聞けなかった。
◆
「……最近、随分帰りが早いんだな」
「えっ」
そして今日も、ぎくしゃくしたまま一日が終わろうとしていた。
ここ数日のランツは、陽が傾くとやけにてきぱきと後片付けを始める。これまでだと、いくらでも遅くまで残ろうとしていたくせに、だ。
材料が揃ったのだから嬉々として作業をするものかと思っていただけに、俺としては少しだけ……ほんの少しだけ、拍子抜けだった。
印刷機の音を聞きながら、薄暗くなった作業場でランタンを灯すのを、心待ちにしていた自分に気づく。
「うん、まあ、たまには、たまにはね……」
ランツは視線を泳がせながらも、器用に手を動かし、印刷機を拭きあげていた。柔らかな布に撫でられた機械たちは、心なしか満足そうに見える。
魔力のないランツには印刷機に通う魔術の流れが分からないだろうが、仕事に慣れてきた近頃は、それらがかすかに意思を持っているのを感じる。
印刷機たちがランツに懐いている、とすら思えてしまう。
きっと、自分たちを大事にしてくれる人間が分かるのだろう。
そして残念ながら、俺にはなついていない。用紙を少しずらして入れようものなら、「気に入らん」と言わんばかりに、容赦なく歯車を詰まらせて動きを止めてしまう。
一度止まってしまえば、機械に掛けた本すべてが台無しになり、いちからやり直しになってしまうのだ。彼らにとっては、俺はまだまだ新人でしかないということかもしれない。
すっかり黒ずんだ布を手の中でこねくり回しながら、ランツはしどろもどろに続けた。
「たまには、こう、家でゆっくり、とか?」
「家に帰ってもうずうずして落ち着かないんじゃなかったのか」
「……エルってどうでもいいこと覚えてるよね」
呆れたように言って、無造作にランツの手が鼻を擦る。機械油に塗れた手袋で擦ったものだから、つんと上を向いている鼻先が汚れたが、本人に気にする様子はない。
いつものことだ。
いつも、ランツの顔にはどこかに必ずインクやら機械油やらが付いている。
すっかり見慣れた光景だ、と思ったはずなのに、俺はなぜか手を伸ばして、指先でランツの鼻を拭っていた。
親指に黒い汚れが移り、擦られた鼻先がほんのりと赤くなる。
「……は?」
ランツの唇から、あきらかな戸惑いの声が漏れた。
そしてゆっくりまばたきをしたあと、口をぽかんと開けたまま俺を見つめてくる。
「あー、いや」
またやってしまった。
反省したところで、やってしまったことは取り戻せない。
見れば、鼻先だけだったランツの赤みは、じわじわと頬まで広がっていた。いたたまれない気分になり、俺は口ごもりつつも言い訳する。
「鼻に汚れが……」
「く、口で言えばいいじゃないか! なんでいちいち触るわけ?」
「拭った方が早いかと……」
「いや、だから」
ランツはそう言ったきり、それ以上争うのを諦めたらしい。たしかに、よく考えたら口で言うのも手で拭うのも、さほど早さは変わらない。
俺を細めた目で一瞥すると、手袋を脱ぎ脇に置かれた道具箱へと放り投げた。
顔はまだ赤いままで、拗ねたように唇が尖っている。
なにかを言い出すのはおかしい気がして、俺は黙り込んだ。
こんなとき、空気を読まずに飛び込んできてくれるトポル局長がいれば希望が持てるのだが、生憎すでに陽はすっかり傾いていたから、印刷局には俺たち二人しかいなかった。
呼吸の音しか聞こえないなか、わざとらしくテーブルに並んだ資料の隅を揃えていると、ランツが小さく呟いた。
「そういうのは、あまり良くないと思う」
「そういうの」
「そういう……距離が近すぎるのは」
そこまで言ってから、ランツはハッとしたように顔を上げ、俺を見据えた。
「もしかして、王族って皆こんな調子?」
「え?」
「社交の場が多すぎるあまりに、距離感がおかしいとか、そういうことだったりする?」
「いや、そんなことはないが」
「違うの?」
「さあ」
俺は距離感がおかしいのか。
初めて言われた気がする。別に、悪意があってやっているわけではないのだが。
いまいち納得がいかずに首を捻っていると、ランツが小さく笑い声をあげた。
眼鏡の奥の焦げ茶がゆるむと、やはり胸がさざめく。
「エル」
柔らかな声が俺を呼んだ。
ぼさぼさ頭からは、また一房だけ髪が跳ねている。
注意されたばかりだから手を伸ばすのは堪えたが、それがなければ無意識に摘んでいたかもしれない。
「たまには少し、街に出ようか」
夕陽に照らされたランツの表情は、やけに大人びて見えた。
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