第12話 燻るざわめき


 ここ最近、どうも調子がおかしい。

 おかしいのは他でもない俺自身だ。健康状態はすこぶる良好。身体に不調なんて見当たらない。だというのに、なんとなく……うまく言えないが調子がおかしい。

 こんなことは今までなかった。常に落ち着かなくて、何かに駆り立てられているようで。それは嫌な感覚ではなく、けれど足元はふわふわと軽く頼りない。

 ひとつのことに……たとえば手持ちの魔導書へ集中を向けようとしても、目が上滑りして頭に入ってきてくれない。頭の隅ではまったく別の思考が巡ったり、過去の記憶が浮かんでは消えていく。

 へんなかお、と笑われたこと。

 俺が火を灯したくらいで、丸くなる瞳。

 ずっと胸の奥に隠していた羞恥と後悔を、「悪いことじゃない」と言われた。

 手首を掴まれたときの肌の温もり。

 そしてそれらが頭をよぎるたび、だからどうした、と自分自身に呆れる。生産性のない思考だ。

「……おかしい」

 自室の机に向かいながら、俺はひとり呟いた。目の前には広げられた……正確には広げた「だけ」の魔導書。頁をいくらめくっても、同じ文字が並んでいるようにしか見えない。そして後ろから誰かに覗き込まれる感覚に襲われる。

 もちろん部屋には俺しかいない。でも、これが印刷局だったなら。俺が唇をひき結んで魔導書を開くと、必ずと言っていいほど、からかいの声がかけられる。

「本当に好きだね、エル」

 思わず振り向いて後ろを確かめてしまう。もちろん声の主はいない。いるはずがない。いたら大変なことだ。

 ここは宮殿で、これは俺の記憶でしかないのだから。

「耳の病か……?」

 首を捻ってみても、当然答えは出ない。働くことに慣れてきたといえど、知らないうちに疲れが溜まっているのかもしれない。

「エル。変な物でも拾い食いした? 胃に石が詰まってるみたいな顔してるよ」

 耳の奥でまたあいつの声が鳴る。これは今日掛けられた言葉たちだ。ランツはいつもの悪戯っぽい微笑みを浮かべて、肘で俺を小突きながら、そう言ってきたのだ。

 なんだそれは。どんな顔なんだ。

 自分ではよく分からなかった。けれど事あるごとに俺にちょっかいを掛けて笑うランツを見ると、眉根に力が入る自覚はあった。

 集中しているときのランツは、距離感をあまり気にしない。俺が何か作業をしていると、ひょいっとすぐ隣に現れて身体を寄せてくる。体温の気配に、ランツが泥酔した日のことがぼんやりと浮かんで、背中に感じた重みが甦る。

 胸がざわざわする。その表現が最もしっくりきた。正体のないちっほけな考えのかけらが、胸のなかでぶつかり合って忙しく動き回っている。

「あ。エル、ちょっと待った」

 今日だって、無造作に腕を掴まれて、身体が跳ねた。ついでにぼさぼさの焦げ茶の髪が頬を撫でて、俺は「おっ」と変な声を上げてのけぞってしまった。

 暑くもないのに掌にじわりと汗をかいたか、ランツはそんな俺の様子は気にも留めない。横顔に華やかさは微塵もないが、仕事中の真剣さはランツを大人びたように見せる。

 しかし、俺の「胃に石が詰まってるみたいな顔」は、どうやら日が傾くころまで続いていたらしい。

 最後のあたりには「本当に大丈夫?」と心配そうに言われた。眉尻を下げる様子が新鮮だ、と思った瞬間、なぜか喉が狭くなり、ぐう、と妙な音を立てた。

 もしかしたら、俺は喉の病なのかもしれない。

 明日の朝起きたら、メイドたちに頼んで、飲み薬でも舐めてみようか。

 ——エル。

 何度もその音が響いている。エル、と俺を呼ぶのはランツだけだ。周りからはこれまでずっと、エルフリート、と略することなく呼ばれてきた。

 鬱陶しいわけではない。そしてしつこいわけでもない。むしろその響きに指を伸ばして捕らえ、ずっと耳の中に留めておいていても、おそらく不快ではない。

 なぜそんなことを思うのか分からない。確かなのは、理由のないざわめきがあるということだけ。

「……だめだ、寝るか」

 疲れているときは、いくら考えたところで無駄だ。その日はいつもより少し早く横になったが、調子の悪さはあまり改善しなかった。



 ◆◆◆



 翌日も、身体は好調だった。

 喉の薬を飲んでみたが、その苦味にかえって気分が悪くなる。

「……そんな、気にすることじゃない」

 ぶつぶつと自らに言い聞かせながら、俺は脇目もふらず印刷局へ向かった。道行く人々の足取りは速い。朝の忙しなさのなか、痛いほどの眩しい光が目を刺す。この感覚にも慣れてしまった。

 何度も咳払いをしながら印刷局へ向かい扉を開けると、ランツが事務室に立ち尽くしていた。この時間に作業場にいないなんて、珍しい。

 よく見ると、ランツの手には封を切った手紙が握られていた。眼鏡の奥の眼差しは厳しい。

 どうした、と訊く前に、ランツは手紙をぐしゃりと握り潰した。

「おい」

 声を掛けて近づくと、突然、乱暴に手紙を押し付けられた。反射的に受け取り開こうとすれば、制するような鋭い声が飛んでくる。

「それ、燃やしといて」

 それだけ言って、ランツはずかずかと事務室から出ていった。

 一瞬視界に映った横顔が、これまでにないほど強張っているようにも見えて、俺は話しかけようとしていた自分を押しとどめる。細い背中には、苛立ちや怒りに混じって、冷えた悲しみが滲んでいるように見えた。

 見ない方がいいのかもしれない。そう思いつつ、ぐしゃぐしゃにされた手紙を広げた。

 魔術局の紋章が入ったそこには、嫌味なくらいに整然と文字が並んでいた。

 ——開局からすでに五十年あまりが経過し、貴局の役目は概ね果たされたように思われる。

 ——魔術師の負担を避けるため、今後魔導書に関する材料の種類及び量については、供給を削減させていただく。

 俺はひとり息を呑んだ。ランツがどれほどごねてみせようと、先に正式な通告が届いてしまった。

「ああ、これは……」

「トポル局長」

 いつのまにか隣にやって来ていたトポル局長が、低く言葉を紡いだ。

 ちょっとだけ貸して、と言われて皺だらけになった手紙を渡すと、局長もまた険しい表情を見せた。供給を縮減、などと回りくどい書き方をしているだけで、実際はもうこれ以上材料の提供は停止したい、というのが本音だろう。

 俺は手紙をもう一度覗き込む。魔術局の紋章は入っているが、国の紋章はない。

 つまり、魔術局単独での判断でなされた決定だということだ。トポル局長は小さく息を吐いて、「参ったねぇ」と手紙を丁寧に折り畳んだ。

「明日あたり、僕が魔術局に行ってみるねぇ」

「俺も行きます」

「ふふ、ありがとう」

 局長は笑ってみせたが、普段の和やかさは薄まっていた。ランツ以上にここに留まってきた人なのだ。

 たとえ覚悟していたとしても、この通告は突然過ぎて受け止められないだろう。

 作業場へ行くと、ランツが仏頂面のまま印刷機を稼働させるところだった。

 ぐおん、という一瞬の轟音とともに歯車が軋み始める。機械油の香りと、用紙を飲み込む軽やかな音が鼓膜を叩いた。

「ランツ」

 ランツは返事をしなかった。

 俺が気に入らなくて無視しているわけではなく、自分の唇から言葉が零れるのを抑えているように見えた。

 ランツ、ともう一度呼ぶと、ゆっくりと顔だけがこちらを向く。相変わらず表情は硬く、レンズの奥の瞳は、気のせいか揺らいでいた。

 しばらく視線がぶつかったあと、ランツの唇がわずかに開く。

「……ほらね」

「え?」

「なくなればいいと思われてる」

 ランツはそれ以上語らなかった。

 ただじっと印刷機の間に身体を入れて、部品の動きを神経質に睨みつけていた。機械たちがいつもより大人しく感じたのは、おそらく気のせいではない。作業場自体が翳るような空気があって、自分にその重さを打ち破れるほどの器量がないことに気が付く。

 作業場の隅に重ねられた残りわずかな用紙の束と、すっかり寂しくなってしまったインクの棚。

 ……ほんの少しだけだが、必要とされている。

 そんな俺たちの主張はいずれ通らなくなる。時代に取り残されたこの場所に、価値を見出してくれる人間は、あまりにも少ない。

「分かってるんだよ」

 ランツが静かに口にした。

 視線は機械に注がれたままで、軋む金属音のなかでもその声はよく通った。

「でも、こっちが真面目にやってることを、役目は果たされたって断言されるのはさ……」

 それ以上、言葉は続かなかった。

 雑な動作で眼鏡を外して、ランツは一瞬だけ目元を拭う。

 ほんの一瞬だけだ。でも、見てはいけないものを見てしまった気がして、俺は咄嗟に顔を逸らした。

 重い空気がその場に降りるなか、ランツはまた眼鏡をかけると、ゆっくりと印刷機に登り始めた。それでもやるべきことはやらなければ、と考えているのが分かる。

 顔を見ることはできなかった。ランツが望まないと思ったからだ。ただ、どうしようもなく胸がざわめいた。

 それは俺の身体の内側から飛び出そうと鋭い痛みを伴い、今いる場所に留まることを許そうとしない。

「少し出てくる」

 冷静な考えなどできないまま、俺は作業場を出た。

 エル、と呼ばれた気がしたが、それに反応するよりも足を動かす方がずっと有効だと思えた。

 目を瞠る局長を尻目に、俺は外へ出た。

 さほど歩調は早くなかったが、鼓動は大きく、頭の中は熱い。自分が起こそうとしている行動が、嘲笑されるべきものだということは分かっている。

 一心不乱に脚を動かし、たどり着いた先は魔術局だった。出入口をくぐり受付の男と顔を合わせた瞬間、思い切り嫌な顔をされる。

 また来たのか、と顔には書いてあった。

 男にとって俺はランツの同行者、という認識でしかないのだろう。

 それは当然のことだ。俺は自分の身分を明かさなかった。名乗らずにやり過ごそうと思っていた。

 自分の力ではない力を使って、何かを押し通そうするのだけは、絶対にやめておこうと決めていた。

 ろくに顔も知られていないくせに権力をかざすなんて、恥ずべきことなのだから。

「ザーロイス家第三王子、エルフリート・マグナベック・ザーロイスと申します」

 男がぽかんと口を開けた。

 作業着を身につけた若造が何を言い出す、と笑いかけた男と距離を詰め、一瞬の羞恥を振り切って俺は続けた。

「兄を呼んでいただいても構いません」

「なにを」

「少し、お話が」

 でもたとえどう貶されようと、今このときは、あえて馬鹿な王族でいようと思った。

 あの場所がなくなるのは……ランツが楽しそうにちょこまか動き回るのを見れなくなるのは嫌だと、そう心が囁いていたからだ。




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