第11話 秘密
魔術局への発注は難航していた。
インク瓶を並べる棚は随分と寂しくなったというのに、追加の発注を受け付けてもらうことすらできていない。
午後の休憩に顔を出したランツは、どっかりと椅子に座り込んだ後、カップに口をつけるなり忌々しげに言った。
「もし在庫が底をついたら、僕は魔術局の前で座り込みの上断食をするね」
「やめてくれ」
ランツは壊滅的に交渉が下手だ。というよりも、そもそも話し合いをしようとしない。一方的に要求を通そうと高圧的な態度を取って、その場を拗らせてしまう。
それこそ、取り返しがつかなくなるほどに。
「逆に聞きたいんだが、今までどうやって発注を掛けていたんだ?」
「そりゃもう粘り強くやるんだよ。相手が『うん』と言うまでその場から動かないとか」
「……悪質だな」
「ひどい言い草だね」
しかしランツは、本気でその方法が一番良いと考えているようだった。魔術局へ行くのに何度か同行したが、とにかくごねて、ごねまくる。隣にいるのが恥ずかしくなるほどの屁理屈が、次から次へと口から出てくるのだ。
それでも魔術局は応じない。むしろ回数を重ねるごとに状況は悪くなっているように思える。
昨日も「この人でなし!」と喚き始めたランツの首根っこを、俺が掴んで無理やり帰ってきたのだ。
トポル局長はランツの発言にもにこにこと微笑むだけだ。おそらく「なんとかなるんじゃないかなぁ」くらいに考えているのだろう。
「普通に話を持ちかけたところで、聞いてくれやしないんだから」
不満げに唇を尖らせて、ランツはカップを置いた。
そしてゆっくりと腕を組むと、魔術局のある方向を睨み、苛々と続ける。
「魔術局は僕が一人になってからずーっとあんな感じだよ。本当に意地が悪い」
「一人になってから? 他にも印刷技師がいたのか?」
「当たり前だろ。僕がここに入ったころはあと二人いたんだ」
「ああ、懐かしいねぇ」
トポル局長はどこか遠くを見ながら、焼菓子を口に放り込む。そしてもぐもぐと口を動かす合間に、作業場の方へ目をやった。
「来たばかりのランツくん、とっても素直でかわいらしくてねぇ」
「ランツが素直でかわいらしい?」
「なに、文句あるの」
「いや……」
眼鏡越しの瞳がきらりと光ったのを見て、俺は視線を逸らした。ランツの素直なころがあったなんて、まったく想像がつかない。トポル局長は次々と焼菓子を口に詰め込みつつも、器用に言葉を紡いでみせた。
「ランツくんの他にも、熟練の印刷技師さんが二人いたんだよ。でもねぇ、二人とも随分高齢だったから」
「僕が一人前になったとみるや、二人とも辞めちゃったんだ」
それが三年前、とランツはつまらなさそうに呟く。
なるほど、若手一人だけが残り、魔術局もそれまで熟練の職員に対して払っていた敬意を向けなくなってしまったというわけか。そしてランツなりの奮闘の結果が、あれ。なんと言っていいのか困るところだ。
「もうね、ランツくん。みるみる強く頼もしくなっちゃって」
「照れますね。ありがとうございます」
「…………」
その頼もしさは、だいぶ間違った方向に転がってしまったように思えるが、そんな経緯があるのなら、頭ごなしに否定するのも良くないかもしれない。
たしかに、ただでさえ忙しい魔術師に手間を取らせるのは、魔術局としても避けたいのだろう。しかし、このまま材料を用意できないのは困る。
ランツはずるずると椅子に身体を沈ませながら呻いた。
「あいつら、早く印刷局がなくなればいいと思ってるんだ」
「それは言いすぎだろう」
「言いすぎなもんか。あーあ、かつては魔術師と印刷技師は手を取り合って魔導書を作ってたっていうのに、不義理なもんだ」
文句を言いながら丁寧に指を拭くと、ランツは脇に積んでいた魔導書を一冊手に取った。「犀利の書」と題された淡黄のそれは、主に刃物の手入れに関する魔術をまとめた書だ。
刷り上げたばかりの頁にランツがあたたかな眼差しを落とすのを見て、俺はなぜだかむず痒い気分になる。
犀利の書は、「どうせ作業速度が落ちるなら」と俺とランツで話し合い、工程をあれこれ試して作った魔導書だ。初めて俺が自主的に作ることを許された一冊。年代はかなり古いものを選んだが、記述内容を書き起こすのは楽しい作業だった。
横からランツが「エルフリート殿下、本当にそれでいいの?」と何度も聞いてくるのには参ったが、あまりに楽しそうにからかってくるものだから、邪険にもできなかった。
トポル局長の力を借りて文字を版に落としたあとは、ランツが首を捻りながら、印刷機を回していた。
いつもとは違うことをやりたい、とちょこまかと歯車や部品を調整していたけれど、俺には何が違うのかよく分からなかった。
それでも、インクに塗れたランツが稼働音のなかで楽しそうにしていると、なんとなく「まあいいか」と思えてくる。
何が「まあいいか」なのかはよく分からない。ここで働き始めてから、俺は少し寛大になったのかもしれない。
「良い出来だよねぇ、その魔導書」
トポル局長がにっこりと笑って言う。
戸惑う俺が口を開く前に、ランツが顔を起こして眼鏡を押し上げた。得意げに唇を緩ませながら。
「僕が刷ったんですから、当然です」
「そうだよねぇ〜」
「…………」
この二人の話に、口は挟むまい。
ほのかな喜びをそっと胸に隠しつつ、俺はカップへと指を伸ばし、笑った。
◆◆◆
普段より穏やかな進度で印刷を終えた後、ランツはゆっくりと印刷機の歯車を止めた。
きりきりと軋みながらも、巨大な機体は眠りにつくかのようにその動きを緩め、やがて静かになる。
これまでは、俺がいる間にランツが機械を止めることはなかったが、最近はトポル局長が帰って少しすると、ランツはこうして作業を終えることが多くなった。
俺が長々と印刷局に居残るようになったせいもあるだろうが、ランツは「急いでも仕方ないからね」なんて、らしくないことを言ってみせる。
柔らかな布で印刷機を拭き上げながら、ランツが小さく「おつかれさま」と呟くのを、俺は背中で受け止めた。
ここで働き始めて三月。
ランツの言う通り、魔力を宿す機械そのものがある種の意思を持っていることは、俺も少しずつ理解している。
ランツが部品を調整するときは機械も規則的に稼働音を鳴らしているが、下手に俺が手を出せば、ガシャガシャと耳障りな音を立てるのだ。まるで、俺に手を出されることが不満だ、とでも言うように。
「エル、また見てるの?」
「ああ」
「よく飽きないね」
手の甲で鼻を擦りながら、ランツが脇から俺の手元を覗き込んでいる。視線の先には、御影の魔導書。ランツには自由に見ていいと言われているから、こうして仕事終わりにじっくりと眺めることができる。
「いいだろう。何度見ても興味深いんだ」
「別に責めてるわけじゃないけど?」
にやにやと笑いながら、ランツは椅子を引き、俺の隣に座った。
そして手袋を外して頁を摘み、その手触りを確かめる。
「やっぱりこの用紙を使うなら押圧式の方がいいのかな。輪転式でも原本に近づけられなくはないけど」
「随分やる気だな」
真剣な口ぶりについ驚いて言うと、ランツは一瞬目を見開き、それが決まりが悪そうに手袋を弄んでみせた。
「……言ってみただけだよ」
「別に責めてるわけじゃない」
からかうような笑みを向ければ、ランツは「やな感じ」と返す。
けれど表情は少しだけ緩んだ。眼鏡の奥の焦げ茶の瞳が、朱い陽をはらんでいる。
「大分暗くなってきたね」
「ああ」
「エル、これ点けて」
押しつけられたランタンを受け取り、俺はランツを見返した。
期待に満ちた眼差しに、そっとため息をつきながら頁をめくる。もう何度かくり返した指の動きの後、「灯せ」と呟き、ランタンに火を入れる。ランツはそれを、毎度興味津々といった様子で眺めるのだ。
「お前こそ、飽きないな」
「だって不思議じゃないか。僕にはできないことだし」
そう言い切る口調は楽観的だ。御影の魔導書に複雑な思いを抱いていたであろうランツが、魔術の生みだす奇跡に惹かれている。
俺はほんの少しだけ、ランツの心に引っかかっていたものを外す手助けができたのかもしれない。小さく揺れる火を見つめながら、ランツがぽつりと言った。
「エルはさ。何か秘密はないの」
「秘密?」
ランツは顔をこちらに向けた。
今度は子どものような悪戯っぽい笑みだった。
「そう。僕だって自分の秘密を打ち明けたんだから、公平にいこうよ」
「公平って…0」
「あ、王族のドロドロの色恋沙汰とかは要らないからね」
「元々そんなものはない」
「なんだ、残念。じゃあエルの恥ずかしい話でもいいよ」
背もたれに体重をかけてランツはテーブルの上で指を組んだ。細くて白い、けれど指先の皮が厚い職人の指だ。
同じだけ生きていても、俺とは違う。
「秘密……」
なぜわざわざそんなことをこいつに、と思いながら、俺は指先を口元に当てて、揺れる火を見つめた。
橙がすっと天まで伸び、空気の端を焦がしている。
秘密。恥ずかしいこと。
ふと遠いある日のことがぼんやりと浮かび、気づけば俺は口を開いていた。
「……十六のとき、一番上の兄に男の子が生まれた」
「うん」
「兄も義姉も、もちろん他の家族もとても喜んでいて、国を挙げての祝事も盛大に執り行われて」
「そういえばそんなこともあったかも」
俺は何を話そうとしているのだろう。
自分でも話の行き着く先が分からぬまま、衝動に任せて続ける。
「自分に甥ができると思ったら嬉しくて、もちろん生まれたての赤ん坊は柔らかくて、かわいくて……でも」
「でも?」
「がっかりしたんだ」
ランツが息を呑んだ気配がした。
当時、漠然と感じた落胆だ。その不謹慎な想いを誰かに言えるはずもなく、胸の奥底にしまいこんでなかったことにしていた。
それが突然、浮かび上がってきた。
「自分でも驚いた。王位なんて興味がなかったはずなのに」
素直に喜べない自分が恥ずかしかった。
尊敬する兄の祝い事だというのに、仄暗い感情を持った自分の人間性を疑った。
「でも生まれたての赤ん坊の顔を見て……ああ、これで俺は本当に、ただの三番目の王子として終わるんだな、と思って、がっかりした」
自分は兄たちよりも自由だと、それが嬉しいと思っていた。
本当に、王位が欲しいわけではないのだ。でもきっと俺は、自分でも気付かないほどの、わずかな期待を抱いていた。たとえば兄たちが何らかの理由で父の跡を継げなくなってしまったら……そうしたら、もしかしたら、俺が。
そんな浅ましい欲があった。そして目の前に現れた無垢な存在に、俺の浅ましさは暴かれてしまった。
第三王子としての立場に甘んじるふりをしながら、俺は贅沢にも、与えられた身分にひそかな不満を抱いていたのだ。
不満を抱くこと自体が、間違っているというのに。王となるべき覚悟も資質もないというのに。
「……恥ずかしい話だ」
そしてランツにとっては聞きづらい話だっただろう。
期待されていたものとは違うことを口走ってしまった自分に嫌気が差した。これっぽっちも笑えない。
変な話をしてすまなかった、と立ち上がろうとしたとき、ランツの手が伸びて俺の手首を掴んだ。
小さいくせに熱い掌に驚いて顔を見れば、思いのほか真剣な表情がそこにあった。
「話としては面白くなかったけど」
「……悪かったな」
「でも、恥ずかしい話でもないと思う」
ランツは一瞬目を宙に逸らした後、再び俺の顔を捉える。
「たとえ期待していなかったとしても、可能性があったものが無くなったら、誰だってがっかりするさ」
言葉をひとつひとつ選ぶような口調だった。でも、その場限りのごまかしを差し出そうとしているわけではなかった。
可能性があったものが無くなる瞬間。
ランツにもそれが分かるのだ。
普段は思ったことをそのまま吐き出すランツが、今持ち得るなかで、一番良い言葉を選ぼうとしていた。
「それは多分、悪いことじゃない」
「…………」
「悪いことでも、恥ずかしいことでもないよ」
手首を握り直して、ランツは言う。
ランタンの火が小さく揺れて、作業場の床に二人分の影を落としていた。
その火に呼応するように、胸の奥がざわりと揺らめく。
正体の分からない揺らぎに押し出されるように、俺は目の前の男の名を呼んでいた。
「ランツ」
丸い目がゆっくりと瞬く。
俺はその動きからも目を逸らせずにいた。
「お前、案外良いところあるんだな……」
ランツはそれを聞いて、呆れたように笑う。
その笑顔を見たとき、俺の胸の奥では、また何かが揺らめいた。
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