第10話 朝帰り


 なんだか、とても面倒なことになってしまった。

「よう、色男」

 朝、宮殿からそろそろ出勤しよう廊下を歩いていると、向こうから歩いてきた男に声を掛けられた。二番目の兄、ルベルだ。口元には堪えきれないからかいの笑みが浮かんでいた。

 ルベルは素早く俺に近づくと、生温かい眼差しを寄越しながら肩を叩いてくる。この後なにを言われるかは薄々分かったが、俺は逃げられなかった。

「やめてくれよ」

「照れるなよ。この前朝帰りしたって聞いたぜ」

「だからそれは違うんだ。職場の同僚が酔い潰れて……」

「あー、いいからいいから」

 うんうんと頷きながら、ルベルは「それ以上言わなくてもいい」という謎の理解を見せてくる。

 これは昨日イェルターにもやられた。

 気持ちは分かるぞ。遊ぶのはいいが、ほどほどにな、と。

「ルベル。これはだな、大きな誤解が……」

「お前もいつまでも子どもかと思っていたら、そうじゃないんだな。ちょっと複雑で寂しいが……兄さんは嬉しいぞ」

「いや、だから」

「若者よ、青春を満喫したまえ」

「…………」

 この調子では、もう聞き入れてもらえない。宮殿のその他の面子にも同じ反応をされたから、俺もこれ以上の弁明が無駄だとは分かっている。むなしさが胸を吹き抜けていった。

「じゃあな、弟よ。素敵なお相手によろしく」

 ルベルは片目をばちりと瞑ってみせると、上機嫌で階段を降りていった。

 素敵なお相手。そうじゃない。そうじゃないんだ。

 誤解が誤解を生むこの事態に、俺は文字通り頭を抱えた。

 ——第三王子のエルフリートが、初めての朝帰りをした。

 その話は、宮殿で格好の話の種となってしまった。



 ◆◆◆



 五日前、印刷局でランツを寝かせたあと、俺もつられてその場で長椅子に寄りかかったまま眠りこけてしまった。

 元々仕事で疲れていたし、その上ランツを背負ったものだから、身体は休息を求めていたのだと思う。

 翌朝、先に意識を取り戻したのはランツだ。

「……う? エル?」

 掠れた声に俺が目を覚ませば、しょぼしょぼと目を瞬かせるランツがいた。窓からは穏やかな陽光が差し込み、散らかった事務所の床を照らしていた。

「ん、朝か……?」

「なに? なんで、え、ここ、印刷局?」

 起き抜けだったせいで、お互い状況が飲み込めていなかった。特にランツの戸惑いは顕著だった。酒場でくだを巻いていたところで記憶が途切れているはずだから。

 ランツは顔に手をやり、それからワタワタとそこかしこを手で探り始めた。

「眼鏡、眼鏡がない……」

「あ、ここに」

 俺は自分の手にランツの眼鏡が握られたままであることに気づき、忙しない手に握らせてやった。

 ランツの顔には「なんで?」と疑問が浮かんでいたが、眼鏡をかちゃりと定位置に収めると、少しだけ落ち着いたようだった。

 そのままランツが身体を起こそうとしたときだ。

「うっ! あ、頭が……っ!」

「どうした?」

「わ、割れる!」

 ランツは額に手をやったまま、起こしかけていた身体をぼすんと長椅子に戻した。

「お、おぅ……」と低く呻きながら、眉根を寄せ険しい表情を作る。

 完全な二日酔いだった。あんな無茶な飲み方をしたのだから無理もない。吐き出す息もまだ酒臭い。

「エ、エル……っ、僕は死ぬかもしれない……!」

「飲みすぎただけだろ」

 ランツもここまで酷い状態は経験がないらしい。吐き気もする、と言い出したので水を飲ませてやるが、「飲ませ方が下手だね」とぶちぶち文句を言われた。

 腹が立って額を軽く叩くと、頭痛が増したのか「人殺し王子め!」と睨まれる。こんなときでも口は減らないのが憎らしい。

「あのな、俺がここまでわざわざお前をおぶってきてやったんだぞ!」

「うっ、声がでかい……頭に響く……」

「お前な……」

 ランツは顔をくしゃくしゃにして頭を押さえたが、時間差で言葉が入ってきたのか、薄く目を開いて俺を見た。

「おぶって?」

「そうだ」

 本当は引きずるつもりだったが、という言葉は、また新たに文句を言われそうだったから飲み込んだ。

 余計なお世話だよ、なんて返されるかと思ったが、ランツは唇を不自然に曲げたあと、視線を泳がせた。

 そしてしばらくの沈黙のあと、ぽつりと言う。

「それは、その……ごめん。……ありがと」

「え?」

 謝罪と礼を告げられるとは予想していなかった。

 なんらかの反論をするつもりで準備していた気負いが行き場をなくし、俺はもごもごと口を噤む。ランツも決まりが悪くなったのか、目を細めて呟いた。

「……なに、『え』って」

「い、いや」

「ていうか、一回帰ったら? ご実家が大騒ぎなんじゃない?」

 素っ気なく言って、ランツは呻きながら寝返りをうち、俺に背を向けた。

 それ以降、寝たふりでもしているつもりなのか、規則的な呼吸をしてみせる。

確かに俺が無断で外泊するなんて初めてのことだ。もう成人したからそこまで心配されているとも思えないが、一度戻った方がいいだろう。

 それにしても。

「一旦戻って、また来るからな」

「…………」

 ……なにやら、妙な雰囲気になってしまった。

 ざわざわと蠢く胸のうちは知らないふりをして、ちょうど出勤してきたトポル局長に二日酔い患者を託して宮殿に戻ったものの……それからが大変だった。


「エルフリート殿下……っ!」

「すまない、同僚が酔い潰れてしまってそれで……」

 やはり連絡もなしに外泊したのは良くなかった。そんなつもりで俺は頭を下げた……のだが。

「遂にこのときが!」

「おめでとうございます!」

 メイドたちをはじめ、宮殿の面々はにやにやと嬉しそうに頬を緩めていた。

 心配だとかそういう理由で、俺を待っていたわけではなかったらしい。

「……え?」

 ランツの言うとおり、ある意味「ご実家は大騒ぎ」状態になっていたのだった。



 ◆◆◆



「はは、それで今も誤解されてるままなんだ?」

「笑いごとじゃない」

 稼働音の鳴り響くなか、頭上からランツの笑い声が降ってくる。

 するすると降りてきた小柄な身体は、インクを補充する俺の手元を覗き込み、それから俺の顔を見上げた。

「さすが王族は違うね。第三王子の朝帰り記念で祝日ができるんじゃない?」

「怒るぞ」

「すぐ怒るんだから」

 力抜きなよ、と肩を叩いてくるランツは楽しそうだ。宮殿で何やら誤解されている、と打ち明けたときからずっとこの調子だ。話した当初は腹を抱えてひいひい笑われた。

「ははっ、なるほど、エルが『大人』になったと見なされたわけだ」

 幼い頃を知る者たちにそんな誤解をされ、毎日毎日いたたまれないというのに、この仕打ちはあんまりだと思う。ランツこそがすべての原因だというのに。

 俺としては全く笑えなかったが、トポル局長も一緒になって笑うものだから、怒るに怒れないでいる。空いた瓶を受け取りながら、ランツは歌うように続けた。

「どうしよう。エルフリート殿下を傷物にして申し訳ないって謝りに行くべきかな?」

「余計に大騒ぎになるだろうが」

「僕、首を刎ねられる?」

「いつの時代の話をしてるんだ」

「重罪なのかなぁと思って」

 ランツはまたけらけらと声を上げて笑った。

 最近、ランツはよく笑う。嫌味の切れ味は相変わらずだが、言葉数も多くなったし、俺に魔導書の内容について相談してくることもある。仕事もある程度任されるようになった。

 おそらく、ランツ自身はその変化に気づいていない。これまで通りちょこまかと作業場を走り回っては、的確に魔導書を刷り上げていく。

 トポル局長は、そんな俺たちを見て「仲良しだねぇ」と言い、ランツは顔を顰めて「仲良くないです」と答える。

 第一印象は最悪だったが、俺は印刷局にいることに心地良さを感じていた。

 そんな俺の横で、ランツが棚を眺めて小さく唸った。

「明日あたりもう一度発注を頼みに行かなきゃ」

「俺も行く」

「そう? 今度は『こちらはエルフリート殿下であらせられるぞ』とか言って圧かけようかな」

「ランツ」

「冗談だよ」

 あまり冗談には聞こえない口調だった。

 しかし、材料が用意できないとなれば死活問題だ。

 どうしたものか、と考え込もうとしたところで、俺はふとあることに気がついて事務所へ向かった。そこではトポル局長は珍しく真剣な顔で目蓋を閉じ……居眠りをしている。平和だ。

 テーブルの上の紙袋を手に取り、作業場へ戻る。また何かうんうんと考え始めたランツは、おかしな角度に身体を曲げていた。俺は手袋を外して、紙袋に手を突っ込む。

「ランツ」

「ん?」

 そして顔を上げたランツの口に、半ば無理やり焼き菓子を押し込んだ。

 今日、昼休憩のときに買ってきたばかりのものだ。

「もご」

「昼、食ってないだろ」

 こいつは放っておくと一日中飲み食いをしない。一体何を原動力にしているのか知らないが、ろくに食べもせず、夜も作業場で眠りかけるほど働くのは身体に悪いだろう。

 ランツは目を白黒させ、しかし菓子をもぐもぐと噛んでから飲み込んだ。ごくり、と喉が動いたのを見て、俺はすかさず二個目を詰め込む。昔飼っていた小鳥への餌付けを思い出した。

「…………」

「夜もちゃんと食うんだぞ」

 なんとなく保護者のような気分になって、俺は厳格な口調でそう告げた。

 いくら若いからといって、身体を疎かにしてはいけない。そんな戒めを込めたつもりで。

「……お節介」

「どうも」

 その後のランツは、なぜかずっと、不機嫌そうに唇を尖らせていた。

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