第8話 魔術師の末裔


 一瞬、何を言われたのか分からなかった。

 橙の灯りが揺れ、ランツの目元に反射する。

 混乱したまま、俺は喘ぐようにランツの名を呼んだ。


「ランツ」

「なに?」

「すまない、もう一回言ってもらっていいか?」


 暗い中でも、ランツが眉根を寄せたのが分かった。そして呆れ果てた声が保管庫に響く。


「君、どういう神経してんの」

「驚いたんだ」

「こっちは言いたくもないこと言ってんのに」


 ため息とともに軽く肩を叩かれる。

 けれどランツの口調はどこか力が抜けて、放った言葉を後悔しているわけではないようだった。


「ランツ」

「なにさ」

「とりあえず作業場に戻らないか? 話を聞きたい」


 ランツは口をつぐんだが、拒否しているわけではなさそうだ。

 そして俺は、預けられた重みに視線を落とす。突然現れた憧れの書の存在に、抑えようもない胸の高鳴りを感じていた。


「それに、これの中身を見てみたい」

「そっちが本音でしょ」


 薄闇にランツの笑い声が響く。眼鏡の奥で細められた目を見返しながら、俺はまた驚きを覚えていた。

 こんな風にランツが素直に笑うのを見たのは、初めてだった。



 ◆



「すごいな。基礎的な理論がもうこの段階で完成している」

「…………」

「それに魔術の媒体となる鏡や杖を使わなくてもいいよう術式が必要最低限まで削ぎ落とされているのが素晴らしいな。これなら当時の民衆でも手が出しやすいはずだ。魔術師が記すとなるとどうしても書いた本人の思想が入り込んでしまって難解になりかちだがこれは」

「ちょっと」

「ん?」


 テーブルの上に御影の魔導書を広げたと同時に、俺はその洗練された中身に魅せられていた。

 感動に任せて口を動かしていると、隣に座るランツに袖を引かれた。


「その高尚なご考察を延々と聞かされるだけなら、僕帰りたいんだけど」

「なんだ、珍しく家に帰りたくなったのか」

「……珍しくはないよ」


 眼鏡を押し上げながらランツは答えるが、その視線は宙を彷徨っていた。やはりこれは帰っていない。


 しかし、確かに先ほどのランツの発言は聞き流せなかった。ランツがこの素晴らしい魔術書を生み出した魔術師の末裔だというのならば、なぜ書の内容に興味がないなどと言うのか。

 そしてなぜ、御影の魔導書の復刻を拒絶するのか。


 先に口を開いたのはランツの方だった。


「エルは、魔術の素養はあるの?」


 視線は魔導書の頁へと落とされていた。

 膝の上で緩く組んだ指が、落ち着きなく組み直される。


 魔術の素養。生まれ持った魔力の量で魔術師となれるかどうかは決まるが、さらにはそれを扱えるかどうかは才能と鍛錬にかかっている。


「魔力は少しだけある。でも俺は才能に恵まれなかったから、魔導書を補助的に簡単な魔術を扱えるだけだ」

「そう」

「ランツは、シュテーデル家の……魔術師の家の出なんだろう?」


 だとしたら、なぜ印刷技師を。

 そう尋ねようとした言葉はすぐに飲み込んだ。ランツの指先に力がこもったのに気づいたからだ。


「僕には魔力がないんだ」

「魔力が……ない?」

「そう、ないんだよ。これっぽっちも。才能どころの話じゃない。生まれたときから僕には魔力がなかった」


 思わず言葉を失った。この国に生まれる者は皆、多かれ少なかれ魔力を持って生まれてくる。ごくまれに、魔力を持たない子が生まれるともいうが、ブロックの広まった現在は、さほどそれは問題とならない。


 ただ、魔術師の家系であればどうなのだろう。魔術師の家であれば、ほぼ確実に、生まれる子は多くの魔力を宿すと聞く。生まれた子が魔力を持たないとなれば、それは。


 じっと魔導書を見据えたランツは、なにかを思い返しているようにも見えた。


「魔導書は確かに簡単な魔術の手引きだ。僕だって、書かれている内容が歴史的にも実用的にも有用なことは理解できる」

「ランツ」

「でもこの内容を実践して扱えるのは、魔力がある人間だけだ」


 言葉の最後は、少し掠れていた。

 魔導書の中身には興味がない。

 ランツはくり返しそう言っていた。けれど本当は、興味がないわけではないのだ。身体に魔力が存在しないのだとすれば、どれほど中身を読み込み理解しても、ランツには術式を扱うことができない。

 ランツにとって、魔導書はただの重々しい書でしかないのだ。


 ふう、と細く息を吐いてから、ランツは続けた。


「元々、リスタ・シュテーデルはあまり才能がない魔術師だったんだ」


 僕が言える立場じゃないけど、と自嘲気味に声が和らぐ。


「宮殿のお膝元で立派な魔術師になろうと田舎から出てきて、でもそれは叶わなくて……彼は不器用な自分のために、魔導書という形で単純な術式を記し始めた」

「…………」

「リスタは本当は、もっと高等な専門書を作ってみたかったと思う。魔術師としての矜恃はあっただろうからね」


 俺はこれまでの自分の言動を後悔し始めていた。自分の好きなものだけを見て、ランツのわずかな心の揺らぎに気付こうともしなかった。


「でも彼が記せるのは平易で庶民的な内容だけだった。そして皮肉にも、それが宮殿の魔術師の目に止まった」


 それが本当の始まりだ、とランツは告げた。

 眼鏡を押し上げて、また小さく息を吐く。


「実力がないままおだてられて、リスタは一流の魔術師として扱われた。シュテーデル家は突然魔術師の血筋になったわけさ」

「この辺りではあまり聞かない姓だが」

「そうだね。元々才能のない血筋なんだ。それでもちやほやされて先代たちは調子に乗った。でもリスタから数代経たあと、シュテーデル家は早々に田舎へ逃げた」

「…………」

「自分たちが本当は無能だと見抜かれるのが怖かったのさ」


 みっともない見栄だ、とランツは吐き捨てるように呟く。

 俺はランツの視線の先にある魔導書に目を向けた。俺にとっては価値のある、そしてランツにとっては羅列に過ぎない文字が並んでいる。


「そのうち魔導書自体に価値がなくなり、リスタの名を知る者はほとんどいなくなった。それでもシュテーデル家は魔術師の血筋を名乗り続けた」

「それは、今も?」

「そうだね。幸い僕の両親は分をわきまえている人たちだったから良かったけど。でも僕が生まれたことで、魔術師の血筋としては完全に終わった」


 ランツはそこまで言って、あーあ、と大きく身体を伸ばした。ぎし、と椅子が軋むのに合わせて、笑い声が漏れる。


「実力のない者を過剰に評価してはいけない、という教訓だよ。笑い話にもならないつまらない話さ」


 ランツは頁に指を伸ばすと、手触りを確かめるようにゆっくりとめくった。おそらく、これはシュテーデル家に伝わっていた魔導書の原本なのだろう。

 低い声が俺の鼓膜を打った。


「……こんなもの、生まれなければよかったのに。そう思ったこともあったけど」


 でもさ、とランツは続けた。


「魔導書は、きれいだから」


 静かな言葉に、思わずどきりとした。

 幼いころ、自分が初めて魔導書を手にしたときの記憶が不意に蘇った。


 託された重みと香り。

 そこに残された人々の記憶。


「魔力がないと分かって、両親からは好きなことをしていいと言われたんだ」

「…………」

「ついでにこれも……御影の魔導書も持っていけって。もうシュテーデル家には要らないものだから、古書店にでも雑貨屋にでも売ればいい、ってさ」


 俺はランツの横顔を見つめた。

 御影の魔導書は、今もここにある。ランツはこれを手放さなかったのだ。同じ歳とは思えないほど、落ち着いた表情がそこにはあった。


「術式の真似事を何回したって無駄だったけど。魔導書自体は、ここに残されているものには価値があって、きれいだと思ったから」


 ——だからこれを作ってみたいと思って、ここに来た。


 ランツははっきりとそう言った。

 そしてゆっくりと焦げ茶色の瞳が俺を捉える。


「復刻印刷が一番難しいから、っていう理由も本当だけどね」


 抑えた口調のまま、ランツは続ける。


「だから何も知らないくせに、エルがこの魔導書の話を能天気に持ちかけてきたから、物凄く腹が立った」

「それは……」

「まあ、僕の八つ当たりだったんだけど」

「おい」

「なんだか引っ込みつかなくなってさ。ごめんね」


 そんなに軽く謝られると拍子抜けしてしまう。ランツは俺をからかうように鼻を鳴らし、それから不敵に微笑んでみせた。


「考えてあげてもいいよ、復刻のこと」

「ほ、本当か!?」

「まあ、実現するための問題は山積みだけどね」


 そう素っ気なく言う声は楽しげだった。

 俺はまだ気持ちの整理ができていなかったが、きらりと光る瞳を見ていると、胸の奥に静かな高揚感が湧き上がるように感じていた。


 魔導書には価値がある。

 そう思える人間と魔導書を作れることは、もしかしたらとても恵まれているのかもしれない。

 ふと思いついて、俺は魔導書の頁をめくった。


「なに?」

「ちょっと待て」


 灯りをともす方法。流れるような文字と術式の図が記された頁だ。

 人差し指に魔力を込め、ゆっくりとその図をなぞる。順番を間違えないよう慎重に。ランツが怪訝そうに俺の手元を覗き込む。


 決まった動作をくり返し、「灯せ」と呟くと、俺の掌の中にはほんのりと橙の灯りが生まれた。

 急ごしらえだからすぐ消えるだろうが、実に単純で分かりやすい術式だ。


「ほら、できた」

「自慢?」

「違う」


 そんなに性格は悪くない、と返して、俺は掌をランツに差し出した。

 照らされた表情はやはり不審げだ。しかしそれも気にしないことにして、俺は言った。


「数百年経っても、この術式はまだ有効なんだ」

「…………」

「俺は、それはすごいことだと思う」


 一瞬、ランツは唇を開いて、でもすぐにひき結んで、うつむいた。

 さっきご婦人の話をしたときと同じ顔だ。

 素直じゃないというか、なんというか。


「明日からは無視するなよ」


 笑いながら言うと、ランツは唇を尖らせ俺を見て、「当たり前だよ」と返した。

 そして、ふと気づいたように目を見開き、意地悪く笑う。


「エルこそ、明日はその変な服やめてよね」


 俺が着ていたのは、よりにもよってランツに初めて会ったときに身に着けていたものと似た、白のブラウスだった。






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