第7話 「そんなこと」


 焼菓子を買う店は大体決まっている。

 王族御用達の……なんて店の菓子は、店構えも味も値段も華やかすぎるから、印刷局の休憩時間には似つかわしくない。

 となると、中心街から少し外れた一角で、慎ましやかに営まれている菓子店に足が向く。

 気難しそうな中年の男が店主だが、素朴な味からは仕事の丁寧さが感じられる。食べ飽きないのがいい、というのがトポル局長の談だ。

「はい、まいどあり」

 ほぼ毎日通っているためか、店主は俺が店に入るなり焼菓子を紙袋に詰め始める。ぴったり毎回同じ量。値段は尋ねるまでもないから、俺は決まった金額を手渡して「ありがとう」と焼菓子を受け取る。

 店主の顔には、「毎日毎日飽きないのだろうか」と書いてあった。しかしここで「俺ではなく上司が食べるので」と弁明するのも言い訳がましいし、かえって嘘っぽい。

 カサカサと乾いた音がする紙袋を小脇に抱えて、俺は中心街の方へと向かった。いつもなら寄り道せずに印刷局へ戻るところだが、トポル局長の言葉を、時間をかけて消化したかった。

 怒るのは体力を使う。

 たしかにその通りだ。

 頭に血が上っていては、冷静な判断なんてできない。そして正直なところ、俺はランツと険悪な空気でい続けることに嫌気が差していた。関係を修復したい。ランツがそれを望んでいないとしても。

 ランツはあまり性格が良いとはいえないが、それでも以前はまだ話をできていた。

 ぼろぼろの魔導書を開いて、綴られた中身をああでもないこうでもないとランツと議論するのが、俺は嫌いではなかった。

 というか、今思えば結構楽しかったような気もする。

 過去を美化しているだけかもしれないが。

 あれこれ考えに耽りながら歩いていると、学生時代によく通った古書店が視界に入った。

 印刷局で復刻された魔導書の卸先の一つでもある。特に考えもなしに、俺は店へと近づいた。

「いらっしゃい」

 軋むドアを押し開いた途端、古書特有の香りとともに奥の方からしゃがれた老人の声が投げかけられるのも、学生時代と同じ。

 店の主人らしい老人は、奥に引っ込んだままなかなか姿を現さない。たとえなにか買い求めようとしても、「駄賃は置いていきな」と告げられるだけだ。

 初めて来たときは、その不気味さに尻込みしたものだが、慣れた今ではさほど気にならない。店内はしんとして、他の客の気配は感じなかった。俺は狭い店内の、これまた狭い通路を通って、とりわけ目立たない棚へと視線をすべらせる。

「あった」

 見覚えのある魔導書たちが、肩身が狭そうに一冊ずつ棚に差されていた。頭を捻った末に文字を抜き出し、慎重に刷った書だ。真新しい背表紙に指の腹を這わせて、俺はそっと息を吐く。

 需要がないからこの冊数にこの並びなのだろう。トポル局長が顔を真っ赤にして革表紙を施すのを見ているだけに、その表紙が隠されていることが不満だった。

 そのとき、ドアが軋む音が聞こえた。

 続いて小さな咳と、引き摺るような足音も。

 顔を上げてみると、小柄なご婦人がきょろきょろと丸い目を棚に走らせながら、ゆっくりと通路を進んでくるところだった。

 かなり高齢のようだが、肩に羽織った深緑のローブは上等なものに見えた。俺と目が合うと、ご婦人は上品に微笑んだ。

「こんにちは、先客がいたのね」

「……こんにちは」

 老女はなにかを探しているようだった。

 くまなく棚を見渡しては、首をひねったり小さく横に振ったりしている。

 しかしどうしても高い位置の本は見えないようで、彼女がよろよろと梯子に手を掛けたあたりで、俺は思わず声を掛けた。

「あの、なにかお探しですか?」

「ああ、ごめんなさいね。気を遣わせてしまって」

 照れたように口元を覆って笑うと、ご婦人は内緒話をするような潜めた声で言った。

「魔導書をね、ちょっと」

「魔導書?」

「そうなの。時代遅れで恥ずかしいわ」

 恥ずかしい、と口にしながらも、ご婦人はどこか嬉しそうだった。焦りにも似た温かい思いが湧き上がるのを感じながら、俺は少し上擦った声で答える。

「……魔導書であれば、こちらに」

「まあ!」

 ご婦人はぱっと表情を明るくすると、俺が指した棚の前で手を合わせた。楽しげな横顔は、彼女を幾分か若々しく見せていた。

 節の目立つ細指が伸びた先には、「やさしい護符作成の手引き」と題された魔導書がある。

 ご婦人はそれを迷いなく抜き取り、紫陽花色の革表紙に愛おしげな眼差しを降らせた。その光景に戸惑いと驚きを覚えつつ、俺は静かに問う。

「魔導書を、使われるのですか」

「ふふ、そうよ。護符の作り方をおさらいしたくて。復刻したものをここで仕入れてくれるって聞いたものだから」

 ご婦人はなおも声をひそめていたが、その口調は軽やかだった。

 その魔導書はつい最近、俺が文章の中身を選り分けたものなんです。印刷局で、トポル局長が文字を抜いて、ランツという印刷馬鹿がせっせと刷り上げたものなんです。

 思わず説明したい衝動に駆られたが、それより先にご婦人の言葉が続いた。

「うちにもね、昔はまだボロボロの魔導書があったの。これと同じもの。曽祖母が使っていたものなんだけど、書いてある文章が易しくて」

「そうですか」

「ええ。家族に隠れてこっそり魔導書を開いて、術式通りに護符を作るのが好きだったの」

 今どき護符なんてね、とご婦人は口の中で笑った。

 彼女の言うとおり、護符という存在はもう廃れてしまっている。かつて家を守る女たちが、家族の健康と安寧を祈って家事の合間に作っていた守りの札。

「でもね、久しぶりに作ってみたくなったのよ」

「護符を?」

「そうよ、ひ孫が生まれてね。老いぼれの思いつきだとしても、思いつきは大事にしてあげないと、すぐに色褪せてしまうもの」

 ご婦人は得意げに言うと、付けられた値札に視線を落とし、目をみはった。

 そしてまた、愉快そうに顔をほころばせる。無邪気な笑みに、少女の可愛らしさが透けて見えた気がした。

「随分高いのね!」

「……申し訳ありません」

「ん?」

「あ、いえ。なんでも」

「あら、そう」

 ご婦人は不思議そうに俺の顔を覗き込んできた。

 人から見つめられるのはあまり得意ではないから、さりげなく顔を伏せる。

「でも、いいのよ」

「え?」

 彼女は俺の態度をさほど気にする様子もなく、両手で大事そうに魔導書を抱えて続けた。

「価値のあるものには、それ相応の値段がつくものね」



 ◆◆◆



 その後、俺は予定通りに印刷局へ戻り、トポル局長の世間話に付き合った。

 ランツは相変わらず俺を無視した。日が傾き局長が立ち去っても、俺が三回にわたって「帰るぞ」と宣言しても、唇をひき結んだまま印刷機と向き合っているだけだ。

 作業効率は徐々に落ちている。誰からも必要とされない、と言いながらも、ランツはひたすらに機械の傍にいた。

 五回目の「帰るぞ」にも反応がなかったから、俺は怒りに任せて暗くなるまで街を闊歩したあと、観念して宮殿へと戻った。メイドたちに服の汚し具合を讃えられたあと、よろよろと自室に戻り、着替えてベッドに仰向けになる。

 もしランツが俺の呼びかけに応えたなら、古書店での出来事を話そうと思っていた。

 しかし、ランツは頑なだった。おそらく、この先もずっとそうして行くつもりだ。

「……どうしたらいいんだよ」

 またもや苛立ちを覚えた始めたところで、はたと俺は気づいた。

 ランツが呼びかけに応じたなら。そんな条件付きで行動しようとすること自体が、俺の傲慢なのではないだろうか。

 緩慢に身体を起こして、俺は考え込んだ。

 ランツに「御影の魔導書」の話を一蹴されたのは腹が立った。だが、その後の苛立ちはなんだったのかと問われれば、それは自分の意地を突き通そうとしたがゆえに生まれたもののように思える。

 俺は一体、何と戦っていたのだろう。

 耳の奥で稼働音が鳴っている。俺は慎重な性格だと自負していたが、たまには思いつきで動いてもいいのかもしれない。

 じっとしていられなくなった俺は、メイドたちからこそこそと姿を隠しつつ、宮殿を抜け出した。



 ◆



 夜の空気は冷えていた。

 薄着で出てきたのはさすがに早計だったな、と腕をさすりながら、俺は見慣れてしまった古い建物を見上げる。

 中に明かりは見えない。機械の稼働音も漏れてこない。ただ、無人ではないという確信があった。

 案の定無施錠のドアを開け、俺は印刷局の事務所へ入る。手探りでランタンに火を灯し、壁に手をつきながら作業場へ進んだ。

 途中、足元で何かを蹴飛ばした。局長の私物だと思うが、明日片付けてもらおう。

 無音の作業場は初めてだった。ランタンを掲げ目を細めると、設計図を広げているテーブルに、男が突っ伏しているのが見えた。そんな馬鹿は一人しかいない。ランツだ。

 わざと足音を響かせて近づくが、男はぴくりとも反応しなかった。ランツを照らしてみると、眼鏡は鼻の上にずれ、口からは涎が垂れていた。涎が設計図をなんとか避けているのと、右手にペンを握ったままなあたりに性格を感じる。

 ランツ手元に置かれたランタンからは、火が消えていた。まだ眠るには早い時間だと思うが、あれこれ動き回って疲れたのだろう。おそらくこいつは、いつもこんな調子なのだ。

「ランツ」

 声を掛けて肩に触れた。掴んだ感触が頼りなさに、激しく揺さぶろうと思っていたところを、軽く揺する程度で我慢した。

 しかしランツは起きない。相当大きな声で呼んで、結局最後には激しく揺さぶって、やっとのことで目蓋が開いた。

「うん……?」

「お前、しぶといな」

「エル?」

 久しぶりに名を呼ばれた、と妙な新鮮さを感じた次の瞬間、ランツは「え!?」と勢いよく叫んで身体を起こした。

「えぇっ、エ、エル!?」

「身体を壊すぞ」

「な、な、な……」

 そんなに驚くことないだろう。

ランツはずれた眼鏡をガチャガチャと直し深呼吸をすると、やっと落ち着いたのか口元を歪めてみせた。

「……わざわざ何の用? 僕の間抜け面を見れて満足だった?」

「お前ほど性格は悪くないつもりだ」

「どうも」

「俺は無視もしないしな」

「君もいい性格してるよ」

 はあ、とわざとらしいため息をついて、ランツは俺から視線を逸らした。

 バツの悪そうな顔でぽりぽりと頭を掻きながら、心底面倒そうに「それで、何の用?」と尋ねてくる。

 俺は少し躊躇ってから、口を開いた。

「……今日、日中に古書店に行った」

「へぇ」

「そこにご婦人が来て、『やさしい護符作成の手引き』を買って行ったんだ」

「そう」

 ランツは膝の上で指を組み、すぐにそれを離して、また組んだ。口をもごもごと動かして落ち着かないように見える。

 俺はなおも続けた。

「魔導書は誰からも必要とされてないわけじゃない。ただ、必要とする人が減っただけだ」

「絶望的にね」

「そうだ。でも価値を見出してくれる人はいる」

 そこまで言って、やっと腑に落ちた気がした。

 嬉しいと思ったこと。自分のやっていることがまったくの無駄ではなかったということ。

 そして、ランツもその事実を知るべきだ、と思ったこと。

「そのことをお前に言おうと思った」

 ランツは指先を見つめながら、不自然に明るい声で言った。

「呆れた。そんなことでわざわざ?」

「そうだ」

「暇だね」

「でも『そんなこと』じゃないだろ」

 瞬間、ランツは言葉に詰まった。また忙しなく指を組んでは離し、爪先で床を蹴る。

 俺ははっきりと言ってやった。

「俺たちのやっていることを、必要としてくれている人がいる」

 ランツは無意味な動作をしばらくくり返した末に、これまでで一番大きなため息を吐いた。

「……なんか、調子狂うなぁ」

 そう呟いて立ち上がると、ランツはマッチを擦り、消えたランタンに火を入れた。

 ほのかに照らされた横顔は、何か思い詰めているようだった。

 あえてからかうように、俺は尋ねる。

「無視はやめたのか?」

「疲れたからね。エルには効果ないみたいだし」

「お前な、腹を立てるのはいいけど、無視はよくないぞ」

 ランツは唇を尖らせ、俺を軽く睨んだ。

 何と返していいのか分からない顔をしていた。素直に謝ればいいものを、それをしないのがこいつらしいというか。

 俺から視線を剥がすと、ランツはランタンを手に取り、保管庫のある方向へ足を向けた。

「付いてきて」

 声はどこか堅かった。俺は細い背中を追い、わずかな灯りを頼りに保管庫へと進んでいく。

 保管庫は地下への階段を下った先にある。

 ひんやりとした空気が頬を撫で、下り切ったところでランツは「待ってて」と奥へと歩いていった。

 保管庫のどこに何があるのかは、ランツにしか把握していない。

 ガチャガチャと金属音が鳴り響いたあと、ランツの顔がぼう、と奥から出てきた。

 むっつりと無愛想に顔をしかめながら、一冊の書を押し付けてくる。片手で掴むには重すぎる質量に負け、俺は足元にランタンを置いた。

 ランツが書を照らす。濡羽色の革表紙からは古めかしい印象を受けたものの、その手触りから、丁重に扱われてきたのが分かった。

 そして表紙に刻み込まれた文字に、俺は目を瞬かせた。

「……『御影の魔導書』」

 はじまりの魔導書だ。

 ここまで状態の良いものは見たことがなかった。

 博物館に収蔵されているのは頁の断片だけで、全容を完璧に把握するのは難しいと言われていたのに。

 すぐ隣から、抑えた声が響く。

「……御影の魔導書の著者の名は、リスタ・シュテーデル。田舎から出てきたばかりの、しがない魔術師だった」

 俺はランツに顔を向けた。

 うっすらと照らされる焦げ茶の瞳には、諦念の色が浮かんでいる。

「僕は、ランツ・シュテーデル。『御影の魔導書』を生み出した魔術師リスタ・シュテーデルの、末裔だ」







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