第6話 差し出された椅子


 印刷局の雰囲気は……というか俺とランツの関係は、日に日に悪化していった。

「四号、用紙」

「……ああ」

 不毛な口喧嘩からすでに十日が経ち、俺たちは単語で必要最低限のやり取りを交わすだけだ。

 意思疎通はそれで足りる。そう思っていたが、当然ながら足りないこともあって、そういうときは大概俺が何らかの失敗をする。

 するとランツは、おろおろと慌てふためく俺に音もなく近寄り、小さく舌打ちをして俺の尻拭いをする。

 以前であれば舌打ちは抜きで、からかいの笑みと軽い嫌味が伴っていたが、今はそれがない。嫌味があった方がまだマシだった、と思うあたり、俺も相当毒されている。

 トポル局長からはたびたび、「仲直りしようよぉ」とたしなめられたが、俺たちは互いに意地を張り合い、仲はこじれる一方だった。

 さすがに言いすぎたな、という想いが俺にもあったから、口喧嘩のあと二、三日はランツにそれとなく言葉を向けてみたりもしたが、ランツは無視をし続けた。

 ついでに言えば、以前よりも根を詰めて働くようになっていた。

「ランツ」

「…………」

「早く帰れよ」

 帰り際、声を掛けても完全なる無視だ。

 翌朝、世間話を明るく振ってみても無視。

 刷り上がった用紙の出来を、それとなく褒めてみても無視。

 当然、無視されたことに俺は苛立つ。その苛立ちを察したランツが不快げに舌打ちをする。そのくり返しが重なって、俺たちは会話の糸口さえ見出せずにいた。

 結局、俺はランツの指示に従っていた。ランツが保管庫から見繕ってくる魔導書の原本から、トポル局長が文字を抜き、ランツが印刷をかける。 

 俺は雑用一本。これまでと変わりなく、時間をかけてゆっくりと復刻は進んでいく。

 刷り上がる魔導書は、いつだって美しい。誇らしげに立派な革表紙を巻かれたその書の重みで、俺の気分は少しだけ浮上する。

 王立図書館や博物館、そして指定の古書店に納品しに行くのは、本来ならば局長の仕事だ。

 けれどランツと同じ空間にいるのが気詰まりで、先日俺がその役目を引き受けてみた。

 第三王子といっても、俺は兄たちに比べれば公務で外に顔を出すことが少なかったから、さほど認知度は高くない。

 俺にとっては気楽なことに、街に出てもいつも「どこかで見たような顔」という評価で終わる。

 それに、まさか誰も王族が汚れた作業着でやって来るとは思うまい。

「あー、はいはい。納品ですね。ご苦労さまです」

 予想どおり、俺を王族と見抜く者はいなかった。そしてどこへ行っても、担当者の反応は味気なかった。

 受け取られた魔導書が、邪魔くさそうに無造作に棚へ載せられるのを見るのは、なかなか辛いものがあった。

 分かっていたことだ。

 俺が現実として理解していなかっただけで。

 必要とされていない仕事。ランツの言葉は、思いのほか俺の心に刺さり続けていた。

 俺にとって、印刷局は好きなことをできる……まあ実際にはできていないわけだが、とにかく好きな魔導書に携われる場所だ。

 第三王子という中途半端な立場の俺が、好きなことをやっても許される場所だと思った。

 けれど、それも「必要とされていない」と一蹴されてしまうと、身動きが取れなくなった気分になる。

 おそらく、他の誰かに魔導書の必要性について説かれていたならば、「そんなことは百も承知だ」と言い返せていたように思う。

 言ったのが、ランツだったから。

 取り組む姿勢は違っても、同じ方向を向いていると思っていたあいつが言ったから、余計にこたえて、腹が立ったのだ。



 ◆◆◆



「長引いてるねぇ〜、君たち」

 昼休憩の時間になり事務室へ入った途端、紅茶を淹れるトポル局長からそう言われた。

 気遣わしげな言葉とは裏腹に、口調はのんびりしている。

「……そうですね」

 ランツはもう昼休憩にすら顔を出さない。

 俺たちは単語での会話もしなくなった。

 最近はランツから、朝一番に「エルフリート殿下が今日やること」のメモを手渡されるだけだ。

 メモを渡されたそのときばかりは、思わず「会話もいやなのか」と詰め寄ってしまったが、それも無言で立ち去られて終わった。

 無視をするんじゃない。口がついているんだから口を使え。そしていちいち嫌味ったらしく「エルフリート殿下」と書くな。

 今朝は「第三王子たるエルフリート殿下でもできる範囲での今日やること」と書いてあった。長い。

 つい思い出して俺は苛々と奥歯を噛み締める。

 その傍らで、トポル局長が菓子の袋を開けて突然「ああっ!」と絶望的な悲鳴を上げた。

「大変だぁ、予備のお菓子なくなっちゃったぁ……!」

「……後から買ってきます」

「ほんと!」

「……はい」

 子どものような喜びようだ。はじめのうちは局長のゆるさに少し引いていたが、こんな状況だとある意味救いとなってくれている。

 そう思っているのはランツも同じだろう。

 ランツは、どうしてもメモでは言葉が足りないときはトポル局長を通して俺に指示を出してくる。だから口を使えというのに。

「それにしても、『御影の魔導書』をねぇ」

 ランツとの仲違いの理由はすでに知らせている。

 局長は椅子に腰掛け、カップに手を掛けた。節くれだった太い指は、厚い皮に覆われて彼が歩んできた歳月の長さを表しているようだった。

 俺はテーブルの脇に立ったまま、トポル局長に問いかける。

「やはり無謀でしょうか」

「無謀じゃないと言ったら嘘になるかなぁ」

「そうですか……」

「でも、無茶や無謀は若者の特権だしねぇ」

 けらけらと笑って、局長はズズズと行儀の悪い音を立てた。

 御影の魔導書。

 俺がその言葉を口にした瞬間、ランツの様子は変わった。それまでは、俺が妙なことを言っても「呆れたな、エル」と笑って理由を説明してくれていたのに。

 あの日以降、ランツの表情は堅いままだ。

「エルフリートくんもね、そのうち分かってくると思うんだけど」

「はぁ」

「ランツくんも、まあ色々あってねぇ」

「色々?」

「そう。うちに来たばかりのころは、もうちょっと人当たりの柔らかい子だったんだけどねぇ」

 魔導書の印刷技師なんて一筋縄じゃいかないから、と局長は静かに続けた。

 不意に、皺の奥に埋まりかけた灰色の瞳が光った気がした。日頃は穏やかな色を灯しているが、時折それは理知と思慮に満ちたものへと変わる。

「ここからは年寄りの戯言なんだけど」

 どうぞ、と椅子を勧められ、俺は素直に従った。自分が知らず拳を作っていたことに、そのとき初めて気づく。

「君たちは腹を立てすぎて、もう何に対して怒っているのか見失っているように見える」

 トポル局長はゆっくりと指を組むと、俺に向けて穏やかな微笑みを見せた。

「怒るのは体力を使うんだよねぇ。心も擦り減って、ますます他人に対して寛大になれなくなるし、なにより疲れちゃう」

「はい」

「そういう相手はね、理屈でねじ伏せるより、椅子を差し出して休んでもらった方が、話は聞いてもらえる」

 俺は思わず目を瞬かせた。

 自分がつい今しがた腰掛けるよう勧められたことに、どこかむず痒さを感じていた。

「なんてね」

 そこまで言うと、トポル局長はぱっと顔をほころばせて、またいつもの局長へと戻った。

 面と向かって諭されてしまったが、少しも不快さはなかった。

 言葉の奥に、局長が経験してきたものが透けて見えた気がしたから。

「……菓子を買ってきます」

「おっ、いいの? ごめんねぇ」

 ちっとも悪いとは思っていない笑顔で、トポル局長は嬉しそうに手を叩いた。

 俺はそれに軽く頭を下げて、外へと出る。

 一筋縄でいかないのは、多分、ランツだけじゃない。






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