第4話 兄のからかい


「まあ、エルフリート殿下。また随分とお汚しになって!」


 すっかり日が暮れたころ、自宅——世間一般にはザーロイス家の宮殿だが——へ帰ると、待ち構えていたメイドたちに笑われた。

 印刷局で働き始めてからというもの、彼女たちは俺が毎晩インクやら機械油やらで作業着を汚してくるのが楽しくてたまらないらしい。

 王族が作業着で仕事へ行く。

 おそらく、過去にも例がなかった。


「殿下がこーんなに小さいころは、もっと泥んこにされましたもの」


 付き合いの長いメイドは、腰の高さに手をかざして朗らかに言う。それに続けて周りの女たちがころころと笑ってみせた。


 宮殿に勤める者と王族の間に遠慮がなくなって久しいと聞くが、こうして女性陣にからかわれるのは何ともこそばゆい。母や叔母が増えたかのようだ。


「殿下、お食事はどうされますか?」

「今日はいい」

「まあ、若い方はこれだから! お食事を抜くなんていけませんよ! あとでお部屋にお持ちします」

「……わかった、よろしく頼む」


 そもそも俺に選択権はなかったようだ。

 笑い声を振り切って階段を上り、自室へ足を踏み入れたところで、俺はやっとひと息をつく。

 このままベッドに倒れ込みたかったが、後々汚れたベッドに横になるのは嫌なので、気力を振り絞って私服に着替える。


 そして俺は書斎机によろよろと近寄り、椅子を引いて座り込んだ。机に身体を投げ出して、深く息を吐く。


「……疲れた」


 口にするとますます肩が重くなる気がした。

 毎日が濃密で早い。あちこち走り回り、なにがなんだか分からないまま一日が終わる。

 働き始めてひと月だが、体感ではもっと時間が経ったような気分だ。


 落ちそうになる意識を奮い立たせ、俺は机の隅に置かれた書に手を伸ばした。

 丁寧になめされた真紅の革表紙。

 学生のころ、偶然古書店で見つけて買い求めた魔導書だ。復刻されたものではなく、古き良き時代にしっかりと使い込まれたもの。


 状態はあまりよくないものの、書物そのものがほのかに甘く香るのが気に入っている。

 古い書物から独特な匂いが立つのは、用紙に含まれた種々の物質が、光や熱、そして空気に触れて性質を変えるためだ。

 無造作にページを開けば、右上がりの癖のある文字で「害虫駆除のまじないについて」の章がある。人々の暮らしに寄り添った、庶民的な内容の一冊だ。


 今日、印刷局で刷った魔導書もそうだった。薬草を魔術でいかに効率的に精製していくかが、これでもかと細かく記載されていた。


 魔導書は魔術師の鏡だ。

 性格も理念も技術も、すべてが詰め込まれている。読み込みすぎて擦り切れた頁に指を這わせて、俺はランツの言葉を思い返していた。


『家に帰っても、うずうずして落ち着かないんだよ』


 俺がこうして背中を丸めている間にも、あいつは印刷機とともにいる。

 やりたいことをやる、というのは、きっとああいうことなのだ。


 すごいな、という言葉を、俺は口から出せなかった。俺も魔導書の研究を心から愛しているけれど、あれほどの情熱を傾けることはできないと思う。


 文学と歴史を学ぶ上級学校を出てからというもの、俺は印刷局への採用を夢見ながら、公務にまつわる雑務を恵んでもらい、だらだらとこなしていた。

 いつかは王族らしい立派な職を、と周囲からささやかな圧を感じながら、のらりくらりと日々を過ごしていたのだ。

 

 つまり、完全に甘やかされていたわけだ。

 実にむなしい王族生活である。世が世なら民衆に処刑されていた。


 また、指先で頁をめくる。

 魔導書の研究がしたい、と口にすれば、いつも苦笑いをされた。

 そんな時代遅れのものを。

 今はブロックがあって、魔導書なんて誰も使わないというのに。


 優しい兄たちは俺に気を使って、「エルフリートは歴史的なものが好きなんです」とかばってくれたが、俺はいつも釈然としない思いを抱えていた。


 歴史的なものが好きなわけじゃない。

 皆が忘れてしまっただけで、魔導書は価値があるものだ。


 けれど、その本音は飲み込んできた。

 俺の心の臆病な部分が、「これ以上嘲笑されるのはこわい」と告げていたから。


「エルフリート」


 そのとき突然、ドアの向こうから声がした。長兄、こと次期国王たるイェルターの声だった。

 夜に訪ねてくるなんて珍しい。どうぞ、と答えると、ドアが開いて見慣れた顔が覗いた。


「通りかかったら、女性陣に可愛がられている声が聞こえたからな」

「兄さんもからかいに?」

「そうだ」


 兄の目が細くなる。

 俺と同じく、母譲りの金髪と緑の瞳。

 同じくこの宮殿に住み、普段は見目麗しい妻子たちと過ごしている。


 十離れている兄は思慮深く、なおかつ面倒見が良いから、偶然を装ってはこうして時折俺の部屋を訪ねてくる。こうして細やかに人を見ようとするあたりが、為政者に向いているのだと思う。


 気が抜けた笑みで椅子を勧めると、イェルターはすぐに腰掛けて脚を組んだ。

 そして投げ捨てられた作業着に視線をやり、可笑しそうに口元に手をやった。


「最近、随分楽しそうにしてるな」

「どこが」

「生き生きして見える」

「だからどこが。疲れきってるだけだ」

「前よりも男前になったぞ」


 どうやら本当にからかいに来たらしい。

 軽く睨んでやると、兄はくすくすと笑い声を立てて言った。


「刺激的な毎日なんだろう」

「良く言えばそうだな」


 刺激的というか、腹立たしいというか。

 同僚とウマが合わない、というのは、以前イェルターにも告げていた。

 ランツというチビ眼鏡にひたすらこき使われているということも。

 ちなみに休憩用の焼き菓子買い出し要員にされていることは、自尊心を守るために伏せている。


 エルフリート、と思慮深い声が響いた。


「考えの違う人間と出会えるのは幸せなことだ」

「考えが真逆だとしても?」


 言い訳を並べて本当に好きなものとは向き合わず、時間を浪費してきた俺。それとまるで違う人間には心当たりがあった。


「その分だけ視界は広がる」

「視界が広がったかどうかは分からないが、目は回りそうになってる」


 とにかく一度、イェルターにもランツの無礼さを体感してもらいたいものだ。

 兄はゆっくりと脚を組み替えて続けた。


「私は嬉しいよ。君が良い方向に変わっている気がして」

「…………」

「こういう言い方は良くないが、君は第三王子だ。王位の継承はほぼ望めないだろう」

「知ってる。今のところ第一王子の暗殺も計画してない」

「それだと助かる」


 イェルターはくつくつ肩を震わせた。

 兄はこの上なく恵まれている。

 そして同時に、自らなにかを選ぶことはできない。


 ひとしきり笑ったあと、イェルターは俺を見据えた。兄ではなく、国王としての眼差しだった。


「つまり君は、好きなことをやったらいい」


 好きなこと。やりたいこと。

 いつも誰かのせいにして、口にも出さなかった望みが、俺にはあった。


「羨ましいことだけどね」


 祖父に似た人間は、ここにもいた。



 ◆



 翌朝、俺はいつも通りに印刷局へ向かった。中へ入る前にもう稼働音が聞こえる。


 作業場のドアを開けると、首を大きく捻ったランツが、難しい顔で三号機を眺めていた。


「ランツ」 


 声を掛けると、ぱちくりと瞬いた瞳が俺を捉えた。


「いつの間に」

「今来た」


 肩から荷物を下ろしながら、俺はランツを見返す。相変わらず髪はぼさぼさだ。


「昨日は帰ったのか?」

「昨日は……」


 ランツは一瞬固まると、あからさまに目を逸らした。どうやら誤魔化すのは下手らしい。


「寝るときは、家だった」

「なんだそれは」

「……エルこそ放っておいてよ」


 再び背筋を伸ばしたランツは、不満げに眼鏡を押し上げる。そんな同僚に、俺は一歩近づき、心を落ち着けるために深呼吸をした。

 一晩考えた結果だったが、ランツを目の前にするとなかなか勇気が必要な行動だった。


 俺は勢いに任せて、眉をひそめたランツに言った。


「お前に、相談したいことがある」




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