第3話 価値観のすり合わせ



 魔導書の復刻印刷は一筋縄ではいかない。


 まずは長い眠りについていた……つまりは経年劣化でぼろぼろになった過去の魔導書を保管庫から引っ張り出し、そこに記された内容を一つずつ確認するところから作業は始まる。


 できれば中身をじっくり味わって、術式の組まれる過程を歴史的背景に絡めて論文に仕上げたいところだが、読み耽っているとランツに後ろから「早くしてよ」とどやされるので、なかなか叶いそうにない。


 ランツにとっては、魔導書の中身は単なる文字の羅列でしかないのだ。

 魔導書の中身の精査のあとは、用紙やインクの種類、印刷方法をランツの経験と勘で特定し、できるだけ当時の状態に近づけるため設計図に起こしていく。


 記された文字を、当時の状態そのままで版に移すのはトポル局長の仕事だ。のんびりしたお爺ちゃん、と勝手な印象を抱いていたが、彼は魔術の心得があるらしい。


 俺とランツには仕組みがよく分からないが、魔導書の原本から文字をそのまま引っ張り上げ、印刷用の版に落としていくのだ。まっさらな版に着地した文字は、心なしか居心地が良さそうに見える。


「さすがです、局長」


 ランツが真面目な顔で拍手をしてみせるから、俺もそれにならってみる。あくまでも真剣な口調で、ランツは続けた。


「何回見ても魔術みたいですね」

「おい」

「あはは、魔術みたいというか、魔術なんだけどね〜」


 愛想のないランツだが、トポル局長のことは尊敬しているらしい。

 普段は上司である局長に対して「もっと働いてください」と厳しく接しているが、技術は評価している、というところか。もしかしたら、局長はそこそこすごい魔術師なのかもしれない。


 版が完成すると、いよいよ印刷に入る。

 ランツは神経質に版を何度も調整し、印刷機を起動させる。


「魔導書を刷るにあたって、すべての頁が仕上がるまでは絶対に印刷機を止めちゃいけない」


 聞けばここにある機械たちも、魔力の込められた特注のものだという。

 一度動き出したら、一冊分を刷り終えるまで動かしておかないと「へそを曲げる」のだそうだ。


「こいつらは頑固なんだ」


 そう言って印刷機を撫でるランツは、いつもなぜか楽しそうだ。

 印刷を中断された機械は、その後同じ魔導書を刷ろうとしないという。まるで、意思がある生き物のように、印刷機が仕事を選ぶ。

 魔導書との相性が悪い、あるいは印刷技師による調整が不足だと判断すれば、機械自体がその動きを止めるらしい。


「……生きてるみたいだ」

「人間から生まれた魔力が込められてるわけだからねぇ。段々人間みたいになってくるんだよねぇ」

「はぁ」

「人間もねぇ、年取ってくると頑固になるじゃない。それと一緒だねぇ」


 そういうものですか、と首を捻る俺に、局長は「そうなの〜」と頷いて温かい眼差しを投げかけてくる。やはり雰囲気が祖父に似ている気がした。


 印刷機が動き出したあとは、ランツが一人で印刷工程を管理する。

 四台それぞれが異なる魔導書を印刷するが、すべてを同時に動かすことはほぼない。個々の機械の微調整は、素人目には分からないほど繊細な技術が必要で、その分労力もかかるからだ。


 ランツ一人では賄い切れない。

 というわけで、俺が種々の雑用に奔走する羽目になる。俺は息を切らしながら、人使いが荒い同僚に尋ねた。


「前任者も、こんなに、こき使ってたのか?」

「まさか。お年寄りに無理はさせられないよ」

「じゃあ……」

「幸いにして、エルフリート殿下は若く健康でいらっしゃる」


 演技めいた話ぶりで、ランツは言った。


「使えるものは使う主義なんだ」

「……そうか」


 印刷技師が誰かは一旦置いておくことにして、こうして、魔導書の復刻印刷は為される。

 朝から晩まで丸一日印刷機を稼働させ、仕上がる魔導書はせいぜい十数冊。刷り上がった用紙はこれまたトポル局長の手によって革表紙で立派な装丁が施される。


 初めて仕上がった魔導書を見たときは、俺も疲れも忘れてはしゃいでしまった。

 自分が復刻の過程に関わることができたという事実に、気分は高揚した。その様子を見て、ランツはまた意地の悪い笑みを浮かべる。


「エルはなにもしてないじゃん」

「…………」

「ランツくん〜、なにもしてないわけではないよぉ」

「局長……!」

「エルくん、おいしいお菓子買ってきてくれたし、紅茶も補充してくれたよねぇ」

「…………」


 ちょっと人間不信になりそうになった。


 とにもかくにも、復刻された魔導書は、王立図書館と王立博物館にそれぞれ一冊ずつ寄贈され、残りは古書店に並ぶのだという。

 新しく復刻したのに古書、というのがなんとも世知辛い。


「どこの誰が買ってるんだか知らないけど、たまに変わり者が欲しがるみたいだね」

「俺も買ったことがある」

「変わり者だもんね」

「……お前が言うな」



 ◆



 印刷局を後にするのは、毎日夕陽が沈み切るころだ。

 ちなみにトポル局長は陽が赤く染まり始めると帰り支度を始める。


 自由だ。自由すぎる。

 仰々しい名を与えられながらも、稼働人員が実質三名しかいないこの職場は、ほとんど規則というものが存在しない。


 何時に来てもいいし、何時に帰ってもいい。仕事を一生懸命にやっていれば。

 強いていうならトポル局長のその言葉が規則だ。印刷局も「王立」なわけだから、俺は他の王立機関の勤務時間に合わせているが、これも意味があるのかどうかは分からない。

 多少早く来ようが、遅く帰ろうが誰も気にしない。こんな職場が他にあるのだろうか。


「ランツ、俺は上がるぞ」


 窓が少ない作業場はすっかり暗くなっていて、俺は点灯用の装置に手を伸ばし灯りを点ける。

 ランツは二号機の脇でしゃがみ込んでいた。細い背中をこちらに向けて、また何やらぶつぶつと呟いている。


「おい、ランツ」


 痺れを切らして近寄り声を掛けると、心底迷惑そうな顔が俺の方を向いた。

 考え事をしているときのランツは、いつも以上に扱いづらい。


「なに?」

「だから俺は上がるぞ」

「お好きにどうぞ」


 ひらひらと手で追い払われるのが腹立たしい。しかしランツの意識はすでに俺から離れ、真剣な眼差しで印刷機の版胴を見つめていた。

 どうやって魔導書を完璧に印刷して仕上げるか。

 魔導書どころか魔術にも一切の興味を持たないこの男は、それしか頭にない。


「……お前、毎日いつごろ帰ってるんだ?」


 さっさと作業場を後にした方がいい、と思いながらも、おれはうっかりそう口にしていた。


「なに、その質問」

「気になったから聞いただけだ」

「君は変なことばかり気になるんだね」

「だから、お前に言われたくない」


 俺の答えを小さく鼻で笑ったあと、ランツは眼鏡を押し上げ、視線を宙にさまよわせた。

 数秒間の沈黙が降り、どこか自信なさげな答えが返ってくる。


「……三日前には家に帰った、かもしれない」

「は?」


 驚いて声を上げた俺に、ランツは取り繕うように「湯浴みはしてるから」と続けた。

 それもまあ大事だが、そういう問題ではないと思う。

 二番目の兄が働き始めたころ、血走った目で「すごいぞ! 職場に泊まったら遅刻しない!」と言い出して、社会への恐怖を覚えたことをふと思い出した。


 俺の狼狽を感じ取ったのか、ランツは唇を尖らせ、ガシガシと頭を掻いた。

 そして珍しく言い訳するように訥々と言葉をこぼす。


「家に帰っても、うずうずして落ち着かないんだよ」

「うずうずする?」


 ランツの焦げ茶の目が俺を捉えた。

 いつもの小馬鹿にする瞳ではなく、俺を通り越したその向こうになにか新しいものを見つけたような、そんな明るい色をしていた。


「次の書を刷るにはどの印刷機で刷ればいいのか、インクの調合はどうしたらいいか、あの頁は新しい方法を試した方がいいんじゃないか、次からは文字の出し方を少し強くしてみたらどうだろう、前に失敗した調整方法はああしたら上手くいくんじゃないか」

「…………」

「そうやって考え出したら、じっとしていられない。ここに来て印刷機と向き合いたくてたまらなくなる」


 真っ直ぐな、それでいてどこか興奮した口調に、俺は口をつぐむ。

 比喩などではなく、ランツはずっと印刷のことだけを考え、集中しているのだ。


 じっとしていられない。


 ランツに同意するのは嫌だったが、俺にはその気持ちが分かった。

 初めて手にする魔導書の頁をめくるときの胸の高鳴り。自分の頭に新たな風が吹き込む興奮と喜び。


 ランツの情熱は本物だ。

 こいつは間違いなく、やりたいことをやっている。誰になんと思われようが構わない。本気でそう考えて、仕事に全力を傾けているのが分かる。


「……それでも、少しは休めよ」


 苦し紛れにそれだけ言い残して、俺は同僚に背を向けた。


 俺にはランツの揺るぎなさが、羨ましく、そして少しだけ妬ましかった。






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