第2話 あまりにも厄介な
仕事をする上で最も重要なのは、業務内容そのものではなく、職場での人間関係だ。
印刷局への辞令が出た日、二番目の兄から得た助言だ。彼は次期国王である長兄の助けとなるべく、王立学院を終えてすぐに政務職に就いた。そしてふくよかだった彼は、わずか半年ですらりとした細身になった。
お花畑だった俺は、兄の助言を聞き流していたが、彼の助言は正しかった。
人間関係。これほど厄介かつ面倒なものはない。
◆◆◆
「エル! おい、エル!」
「……聞こえてる」
うんざりと返事をすると、印刷機の陰からランツのぼさぼさ頭がひょこっと現れた。いつも通り、俺をからかうように口元は歪んでいる。
「聞こえてるならもっと早く返事をするべきだろ。三号に二番と十一番のインクを足しておいて」
「……わかった」
「あ、この前みたいにぶちまけて床に斬新な模様をつけるのだけはやめてね」
「…………」
あえて聞こえなかったふりをして、俺は補充用のインク瓶が並べられた棚に近づき手を伸ばす。
事務室も作業場も雑然としているが、ここだけは几帳面に整頓されている。魔導書用に、魔術師に調合を依頼をして作ってもらっているインクだ。一般的に流通している本に使うものとは違う。主に価格的な部分で。
二種類のインクを腕に抱えて、印刷機……三号とランツが呼ぶ機械に近づく。部品同士が擦り合わさって軋む金属音にも、もう大分慣れた。印刷機自身の作業を邪魔しないよう時機を見計らいつつ、補充用レバーを力を込めて引く。ガチャン、と物々しい音を引き出された補充ポットには、ランツの汚い字でインクの種類を示す数字が振られていた。
「エル、間違えないでよ」
「……だから分かってる」
「補充なんて子どもでもできることなんだから」
「…………」
機械の陰からランツの声が響いて苛々した。いちいち嫌味を言わないと気が済まないのか、こいつは。
……いや、きっとそうだ。こいつは人に嫌味を言わないと絶命する呪いにかかっているに違いない。そうでも思わないとやってられない。大人になれ、エルフリート。
インクの蓋を開けて、慎重にポットの中へ注いでいく。補充の瞬間、インクそのものがほのかに煌くのは、魔力が込められているためだ。
某同僚には腹が立つが、この作業は神秘的なものを感じるから嫌いじゃない。一滴たりとも無駄にしてはならない、というランツの教えを守りつつ、二種類の瓶の中身をあけていく。
「ふぅ」
「大変な重労働をありがとう」
「うわっ!?」
突然すぐ隣から声を掛けられて、俺は飛び上がって声を発した。
いつの間にここに。
俺の上げた声に「声がでかいな」眉をひそめながら、ランツは俺の手から空き瓶を取り上げた。光にかざしてインクが残っていないかをわざわざ確認するあたりが厭らしい。
「ふむ、今回は合格」
「そりゃあどうも」
「この辺のインクもそろそろ発注かけとかないと」
ぶつぶつ呟きながら、ランツは机へと向かい、そこに広げられた設計図に視線を落とした。
「君影草の章はあのままの配合比率で良いとして……次の術式となると八番を少し混ぜたほうがいいか。いや、でもそうなると他の頁との釣り合いがなぁ」
手袋のまま顎に手をやり、目を細め思慮にふける様子だけなら、こいつもまともな人間に見えなくもない。と思えば、すぐにぱっと顔を上げて印刷機へと駆け寄り、小柄な身体をするりと隙間に滑り込ませる。
そして腰に差した工具を巧みに操り、部品の緩みを調整する。その後は印刷機によじ登ったり、また降りたり。
最後には吐き出される用紙に手を伸ばし、光に透かして仕上がりを確認しては「完璧」と白い歯を見せる。
ランツはこうして朝から晩まで、ちょこまかと忙しなく動き続けている。四台の印刷機とともに。
俺が出勤するころにはすでに作業場は稼働を始めているし、俺が退勤するときもまだ四台と一人は動き続けている。
トポル局長に言わせれば「とっても働き者だよねぇ」らしいが、俺からすればただの印刷馬鹿だ。ランツは俺のことを「魔導書馬鹿」と呼ぶが。
胸のうちで悪態をついていると、印刷馬鹿がまたもやひょこっと頭を出した。
「エル! 次は一号に三十五番の用紙の補充!」
「……はいはい」
「いいかい、三十五番だからね。君でも数字くらいは読めるだろ。あ、あと輪転部分の歯車も確認しといてね。噛み合わせが悪くなってたらすぐ教えて。それが終わったら次は」
「一気に言うなよ」
「鳥頭め」
「……なんだと」
そろそろ本気で怒ったほうがいいかもしれない。しかし俺が眦を吊り上げる前に、ランツはまた巨大な印刷機の陰に姿を消した。
事務室のドアが開き、のんきな声が響く。
「ねぇ、そろそろお茶にしようかぁ〜」
「トポル局長」
「休憩も必要だからねぇ」
「……はい」
こんなはずじゃなかった。
思い描いていた夢と現実の差は残酷だった。
俺は肩を落とし、こっそりとため息をついた。
◆
印刷局で働き始めて、ひと月が経っていた。
わざわざ勤務用の作業着を準備して仕事に臨んだ俺は、勤務開始一日目でランツに敬語を使うのをやめ、二日目で「ランツ」と呼び捨てにし、三日目にして「お前」と呼ぶようになった。
ランツはそれをまるで意に介さない。自分では皮肉と嫌味をたっぷりまぶした言葉を投げつけてくるくせに、俺が渾身の嫌味をぶつけても「ああ、そうだね」とさらりとした返事で終わる。
それ以降は嫌味をぶつけるのはやめた。
人に悪意を向けるのは体力を使うのだから。
ランツはそもそも、稼働音を立てる印刷機しか興味がないのだ。いつも視線は機械に向けられているから、俺の顔を覚えているかどうかも怪しい。この前も出勤時にたまたま目が合ったら、「君ってそういう顔してたんだね」と驚かれた。
なんという奴だ。俺が暴君だったら即首を刎ねていた……いやいや、さすがにそれはやり過ぎだ。
それでも、働き始めのころの俺は今よりもう少し寛大だった。日々ランツにこき使われるだけで時間が過ぎ、魔導書そのものの研究には一切取り組めていなかったものの、この印刷局に集う者たちは皆同じ志を……魔導書を愛していると思っていたからだ。
しかし、それは大きな間違いだった。
「ま、魔導書に、興味が、ない……!?」
「声でかいなぁ。ないよ。内容には全然興味がない」
勤務開始五日目で告げられたのは、衝撃の事実だった。
昼下がりの休憩時間、ランツは齧歯類のようにポリポリと焼き菓子を食べながら言ったのだ。
魔導書の中身に意味を見いだしたことはない、と。
俺の唇はわなわなと震えた。
「ま、ま、魔導書に興味がないのになぜ魔導書の復刻を!?」
「一番難しいから」
「は!?」
「印刷技師としての技術が最も必要とされるのが魔導書なんだよ。しかも復刻となると手探り状態。普通の印刷技師なら手を出そうとしない」
ランツはあちこち黒く汚れた顔を緩ませた。それは街に出るとよく絡んでくる、悪戯坊主たちの顔つきに似ていた。
「難しいことを完璧にやってのけるのが楽しいんじゃないか」
「…………」
「はぁ〜、ランツくんかっこいいねぇ〜」
トポル局長が感心した様子でぱちぱちとしけた拍手をしたのは記憶に新しい。
その局長すらも無視して、ランツは「まあいいじゃないか」俺の口に焼き菓子を詰め込んできた。
ちなみに、俺が毎日買いに行かされる焼き菓子だ。
「僕は自分がやりたいことをやってるだけさ」
香ばしい小麦の香りに、機械油の匂いが混じっていた。
「君もやりたいことをやったらいい」
そう、軽く言われたものの。
「エル、次! 加湿装置の噴射角度直しといて!」
「……そんなのどうやってやるんだよ」
「僕がいつもやってるだろう」
「見てるわけないだろ!」
「注意力がないんだな、君は」
「…………」
こんな状況で、一体何をどうしたら、「やりたいこと」ができるというのか。
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