王立絶版魔導書復刻印刷局

サブロー

第1話 最高の就職先


 夢が叶う喜びを味わったことのある人間が、一体世の中にはどれくらいいるのだろうか。

 重厚な雰囲気を纏った封筒の口をペーパーナイフで開けた先には、人生最高の知らせが待っていた。

「や、やった……!」

 過ぎた喜びに身を震わせ、俺は居ても立ってもいられず、自室のなかをぐるぐると歩き回った。二人の兄にこの浮かれた姿を見られたら、「二十一にもなって」とからかわれるに違いない。

 いやしかし、嬉しいものは嬉しい。この気持ちは仕方がないし、我慢するものではないと思う。俺に翼があったなら、今すぐ窓から外へ飛び出して、青空を行き交う小鳥たちに逐一語りかけていたことだろう。

 苦手だったワルツのステップも、今なら優雅に踏めそうだ。

 無意識のうちに緩む頬を押さえながら、俺は両手で握った便りに視線を落とした。

 辞令、と記された用紙の上部には、我が国——ザーロイス王国の獅子の紋章が輝いている。

 つまり、国からの正式なお達しだ。俺はこのときをもう三年も待っていた。日々退屈と戦いながら、いつか巡ってくるかもしれない幸運を祈っていたのだ。

「ついにこのときが……!」

 俺にはどうしてもやりたい仕事があった。

 第三王子という立場と環境がなかなかそれを許してくれなかったが、国王である父との粘り強い交渉の末、遂に夢が叶ったのだ。

 二人の兄は既に結婚し、子ももうけている。もはや俺に王位継承権などあってないようなものだ。そもそも王座になどまったく興味がない。

 俺の興味が向くのは、ただひとつ。

 ——エルフリート・マグナベック・ザーロイスを、下記機関の研究員として任命する。

 流れるような美しい文字に、高鳴る胸が抑えられない。

 研究職というものは、何らかの理由で席が空かない限りは決して就けないのだと常々言われていた。だからこそ、喜びもひとしおというものだ。

 記された就職先を、うっとりと指先でなぞる。

 ——王立絶版魔導書復刻印刷局

 それが、俺の夢を叶える場所の名前だ。



 ◆◆◆



 かつてこの国は、魔術によって機能していたという。

 国民の誰しもが魔力を持って生まれるものの、その力を正しく扱える素養を持つ者はほんのわずかだ。

 運良く魔力を扱える者の一部は、魔術師となる道があった。魔術師は生涯を通じて国から全面的な援助を受ける代わりに、日々研鑽を重ね、その技術と知識を魔導書というかたちで残すことを義務付けられていた。

 魔力の扱いを知らない者でも、噛み砕かれた術式を正しく組むことにより、魔術を扱えるようになるのだ。

 魔導書は特殊な技術で印刷され、国民の手元へ行き渡る。

 そして人々はその魔導書をもとに術式を組み、生活に役立てていた……というのが、この国の者であれば誰しもが、子どものころに教えられる歴史だ。

 時代は流れ、魔術師たちは自らの技術を魔導書とは違うかたちで残せるのではないか、と考え始めた。その都度頁をめくり字を追い、悪戦苦闘せずとも、市井の者たちが容易に魔術を利用できるようになる方法があるのではないか、と。

 つまりは、いちいち魔術を書き記すのが面倒になっただけだと思うのだが、「なんとかして楽をできないものか」という彼らの熱量と努力は偉大だった。

 彼らは、魔術を機構システム化させたのである。

 魔術師たちは、魔術を発動させるための術式を、ブロックと呼ばれる固体に組み込むことに成功した。

 ブロックは柔軟に変質する。

 たとえば火の属性を持つものをかまどに練り込み、決まった動作を行えば、子どもでも魔術を使い火入れができるようになったのだ。

 この画期的な発明から百五十年。

 ブロックの登場は、あらゆるものの使い方を塗り替えた。

 魔術師はブロックの調整を行う技術職となり……皮肉なことにかつての業務よりも多忙になったと聞く。

 そして魔導書は、人々にとって不要なものとなった。

 名だたる魔術師が記し、重版により流布されていた魔導書は次々と絶版となり、姿を消していった。手が痺れるほど重く、場所を取り、こまめな手入れを必要とする書だ。皆その扱いに困り、一時国内では魔導書の大量投棄が問題となったという。

 当時の風刺画を見れば、魔導書を何十冊も束ねてベッドやらテーブルを作り、「使い勝手が悪いな」とぼやく民衆が描かれている。

「燃やすとなんだか呪われそう」という先入観のため、根こそぎ燃やされる、という事態は避けたようだが、国民の大多数はもはや魔導書を過去の遺物とみなしていた。

 国もとりあえずは魔導書の回収を進めたものの、やはり「呪われたら怖い」という理由で保管庫に放り込むだけだったようだ。

 人々の生活を助けた魔導書たちは、こうして暗くじめじめした保管庫の中で朽ちていく運命を辿ったのである。

 その流れを少しだけ変えたのが、二代前の国王、つまり俺の祖父の発案だ。

 ——消えゆく魔導書の価値を今一度見直し、保護すべきではないか。

 ——たとえもう使う者がほとんどいないといえど、魔導書は我が国の文化であったはずだ。

 魔導書を保護する活動はこのころ始まった。

 加えて、絶版となった魔導書を復刻すべきではないか、という声も上がった。おそらく国の中枢にも、魔導書に魅せられた者がいたのだと思う。祖父も含めて。

 ほどなくして、王立絶版魔導書復刻印刷局が設立された。

 規模は小さく、設備と人員も最小限。税金の無駄遣いではないか、と叩かれたこともあったようだが、祖父は「でもさぁ、文化保護って大事だからさぁ」とすべて一蹴したという。

 祖父は国王でありながら、研究者気質なところがあった。王政よりも、興味がある学問に取り組むのが好きな人だった。俺はきっと、祖父に似たのだと思う。

 祖父は公務の合間に俺を見つけては「お前まで王位は回ってこないと思うから好きなことやったらいいよぉ」と頭を撫でてくれた。

 羨ましい、と本音を漏らしながら。

 俺が魔導書を初めて目にしたのは、五歳のときだ。

 公務を抜け出した祖父がこっそり見せてくれたのがすべての始まり。

 ——魔導書には、この国で生きた者たちの人生が込められているからね。

 にっこりと笑って差し出されたそれは、幼い俺には、よろめくくらいに重かった。

 実はそれが国指定の文化財だった、とあとから聞いたときは冷や汗をかいたものだ。

 けれどその一冊が、俺の人生を変えた。

 植物の蔦と花々が繊細に描かれた革表紙。

 古びたインクの香りとざらついた紙の手触り。

 頁をめくるたび、複雑に絡み合った文字が躍る。

 その時代に生きていた魔術師の吐息と、それを受け継ぐ人々の意思を、俺はたしかに感じた。

 おそるおそる記された術式を組むと、魔術の素養がないはずの俺の指先にも、小さな火が灯った。

 ——美しいだろう? エルフリート。

 祖父はそう言って微笑んだ。

 俺はあまりの感激に口もきけず、こくこくと何度も頷いた。

 こうして俺は、魔導書の魅力に取り憑かれてしまったのだ。



 ◆◆◆



「明日からお世話になります。ザーロイス家第三王子、エルフリート・マグナベック・ザーロイスと申します」

 そして迎えた、出勤日の前日。

 街中で買った焼き菓子を手土産に、俺は王立絶版魔導書復刻印刷局へと足を踏み入れていた。事前挨拶のためである。

 できるだけ誠実に見えるよう、卸したての簡素な白ブラウスを身に着けてきた。何事も初めが肝心という。ともに働く面子の第一印象は良くしておきたかった。

「はぁ〜、若いのにしっかりしてらっしゃる。えーと、エルフリート殿下」

 印刷局の責任者であるトポル局長は、皺だらけの顔を更にくしゃくしゃにしてから、一度作業着で拭いた手を差し伸べてきた。背中は丸く、俺よりも頭ひとつ小さい。醸し出す雰囲気が、どこか祖父に似ていた。

 握り返した手の温かさに懐かしさを覚えながら、俺は告げる。

「私はあくまで研究員の立場ですので、『殿下』は抜きでお願いいたします。単にエルフリートと」

「あっ、そうだよねぇ。それはそれ、これはこれ。エルフリートくん」

 あちこち欠けた歯を見せながら、トポル局長はうんうんと頷く。俺は愛想笑いを返しつつ、こっそりと局内の古びた壁に視線を這わせた。

 ここを訪れるのは初めてだった。中心街から外れた、工房街のそれまた隅に、二階建ての印刷局はひっそりと建てられている。

 魔導書の復刻技術は特殊なもので、見学したいと思ってもおいそれと実現できるものではない。

 とりあえずこちらへ、と局長に通された事務室は雑然としていて、作業場だという奥の方から機械の重い稼働音が絶えず響いていた。

 トポル局長はテーブルの上の書類をがさがさと寄せると、空いた空間に縁の欠けたカップを二つ置いた。そこにびしゃびしゃと紅茶を注いでいく。水滴が書類に跳ねて染みていた。

 雑だ。いや、大らかと言うべきか。

 局長はカップの一つを俺に押しやりながら言う。

「印刷局って大層な名前だけどもね、今は僕ともう一人だけでやってるの。この前までいた研究員さんがね、腰やっちゃって。年齢も年齢だったからそのまま引退」

「それで私が……」

「うん、そうそう。いや〜、若い人が入ってくれて助かるなぁ。魔導書の復刻なんてね、今どき相当変わってる人じゃないと興味持たないから」

「あ、そうですよね……」

 朗らかな笑顔に悪意はない。とにかく、ここでは「殿下」扱いされないようだ。ほっと胸を撫で下ろし薄い紅茶ををすすっていると、少しだけ稼働音が小さくなった。

 トポル局長は「あ」と小さく声を上げると、おもむろに立ち上がる。

「今なら大丈夫かも」

「え?」

「うちの印刷技師さん。この感じだとちょっと落ち着いたと思うんだぁ。挨拶していくでしょう?」

「は、はい!」

 俺は慌てて立ち上がり、ゆらゆらと揺れる局長の背中を追った。局長が事務室の奥のドアを開けた途端、インクと油の匂いが鼻をつく。

「これが……」

「そう、うちの印刷機。大きいよねぇ」

 薄暗いその空間には、巨大な機械がところ狭しと並べられていた。

 印刷機は全部で四台。本体の隙間から見える部品の一つ一つが、生き物の手足のよう忙しなく動き、ギシギシと軋んでいる。傍に寄ると、その巨体からは絶えず振動が伝わってきた。そしてわずかに感じる、魔力の気配。

 これがあの美しい書物を生むのか。

 俺が静かな感動を覚えていると、トポル局長がきまりの悪そうな顔で声をかけてきた。

「……それと、言い忘れてたんだけど」

「はい」

「うちの印刷技師さんね、悪い子ではないんだけども……ちょっと、いや結構、個性的というか、癖が強いというか……」

「はあ」

 なるほど職人だからこだわりは強いのだろう。

 そう軽く考えていたとき、印刷機の隙間から一人の男が顔を出した。小柄で分厚い眼鏡をかけているその男は、俺と同じくらいの年頃に見えた。

「……誰?」

 ひとかけらの愛想もない、冷たい声だった。焦げ茶の髪はぐしゃぐしゃで、身に着けている作業着はさまざまな色のインクに塗れている。

「あ、ちょうど良かった〜。あのね、この前話したでしょ? 新しい研究員の方」

「……全然聞いてませんけど」

「そうだっけ? あはは、まあいいや。こちらの方、明日から研究員としていらっしゃるエルフリート殿下」

「は? 殿下ぁ?」

 素っ頓狂な声をあげると、眼鏡の男はずかずかと俺の目の前までやって来た。首を傾げて俺を見上げた後、つま先まで舐めるように視線を下ろす。俺は明らかに品定めをされていた。仲良くしてね、というトポル局長の声がむなしく響く。

 散々視線で往復したあと、眼鏡の男はぼそりと言った。

「なに、その服」

「え」

「舞踏会にでも行くつもり?」

「…………」

 胸元にわずかにフリルがあしらわれたブラウスだが、そんなに変だっただろうか。胸にわだかまるものを感じた。端的に言えば、ちょっと苛ついた。

 俺が王族だということが鼻につくのかもしれない。仕方ない、そういう人間は少なからずいる。

 初めが肝心、と自分に言い聞かせ、俺は背を伸ばし男に向き合った。

「……明日からお世話になります。私はザーロイス家第三王子、エルフリート・マグナベック・ザーロイスと申しま」

「長い」

「はい?」

 途中で遮られて、思わず俺は聞き返した。眼鏡の男が淡々と続ける。

「名前が長い」

「…………」

「王族ってのは本当に長い名前を付けるのが好きだよね。ここの印刷局もそうだけど」

 隣でトポル局長が「あらっ」と声を上げるのを聞きながら、俺は呆気に取られていた。

 なんだこいつ……いや、この人は。

 初対面だというのに、失礼が過ぎるのでは。

 男は面倒そうにため息をついたあと、口元を歪めてみせた。眼鏡の奥のまるい瞳が、意地悪げにきらりと輝く。

「で、その『ザーロイス家第三王子』っていうのも、君の名前?」

「な……!」

 言われた瞬間、頭に血が上り、指先がわなわなと震えた。

 俺が王族だからとか、そんなことで偉ぶるつもりは毛頭ない。

 こうして自分の立場を口にするのも、単に名乗るときの癖として染み付いてしまっているからだ。

 しかしいくらなんでも、明日から働こうという人間に対して、この男の態度はあまりにも不誠実すぎる。

 柄にもなく声を荒げようとしたが、トポル局長がなおも「あらあらあら」と困り果てているものだから、気が削がれた。

 どこへ行っても、王族の肩書は邪魔になる。

わざと大きく深呼吸をして、俺は答えた。

「違います」

「それは良かった」

 ちっとも「良かった」とは思っていない声で返されて、頬が引きつった。

 いやしかし、明日からこいつと……いやいや、この人と働くわけで、こんなことで逐一腹を立てていたらキリがない。

 トポル局長の言う通り、きっと、少し癖が強いだけで。

「どっちにしても長すぎるから、君のことは『エル』と呼ぶ」

「…………」

「エル。明日からは、そんな趣味の悪いヒラヒラじゃなくて、一番汚くて丈夫な服で来てくれ。そんな服、持ってるか知らないけど」

 そう薄く笑ってから、男は手袋をつけたまま眼鏡を押し上げた。

 分厚いレンズの表面が黒く汚れたが、まるで気にならないようだった。

「僕はランツ。この国一番の印刷技師だ」

「はあ、この国一番の」

「そのとおり」

 ゴウンゴウン、と印刷機の稼働音が鳴り響く中、ランツと名乗った男は、横柄に腕を組んだ。

 そして、嫌味たっぷりの口ぶりで続ける。

「せいぜい気張って働いてくれよ、エル」

 最高の就職先だと思っていた職場の第一印象は、この上なく最悪だった。









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