第21話 地獄の鍋 2

 ラドゥは、顔の上に落ちた大きな雫にハッとし、目を覚ました。ラドゥは今、一体自分はどこにいるのかしばしの間分からなくなっていた。急いで起きて身支度をし、橋を渡って学校に行かなければいけない気がした。教室に着けば仲間達がいる。ナティやカッシ、メメにダビ、そして鈴を鳴らすようなマルの笑い声……。

 しかし間もなく、その光景は遠い過去のものである事に気付くのだった。一緒に学んだ生徒達もオモ先生も、ここにはいない。ナティやカッシはいるが、かつての牧歌的な夢のような光景はどこにも無い。

 あれからどれだけの年月が経ったろう。どれ程多くの苦しみがあった事か。青々とした美しい田んぼは昼間には日の光を浴びて輝き、夜には月を写す鏡となっていた。しかしそれも今では見る影も無く、醜悪な油の木の畑に変えられた。そこでの労働は過酷を極め、一日一日の仕事に追われ、木の実から油を搾り取ると同時に自分達の体力と考える力まで絞り取られていくかのようだった。そのまま、自分や家族や仲間の命はじりじりと大地沈んで行くかのように思われた。

 しかし、そのような日々は突然終わりを迎えた。妻や子ども達、村の仲間達が次々とカサン兵に撃たれて倒れて行く様は、悪夢となって蘇り何度もラドゥを苦しめた。それを追い払うために、ラドゥはカッシら山の民が栽培している「魔法の実」に頼った。その実をすりつぶした粉を炙って吸い込めば嫌な思いがスッと飛び、一時心地良い気分を味わう事が出来る。しかし多く吸い過ぎると後で数前以上の激しい苦しみに苛まれる事になる。カッシはこの魔法の実をただでくれたばかりか、適切な量を吸う画期的な方法を編み出した。それは魔法の実をすりつぶした粉を葉巻に仕込む事だった。それを一日三本までと決めて吸うのである。このお陰で、ラドゥはどうにか苦しみを乗り越える事が出来た。それは薬のためというより、カッシの細やかな気遣いのお陰であったかもしれない。

 また、その後に続く過酷極まりない日々はラドゥに悲しむ暇を与えなかった。ラドゥ達農民とオムーの率いるゲリラ部隊はカッシとナティの先導により命がけで森を抜けたのだった。

 森は妖怪ハンター達ですら、いまだ遭遇した事の無い恐ろしい妖怪の住処だった。しかしラドゥには怯えて立ちすくむ事も許されなかった。自分より弱い物を守らなければならなかった。

 妖怪ハンターのナティは、妖怪から身を守る方法を持てる知識を振り絞ってラドゥ達に教えてくれた。全身が目玉に覆われた「百目猿」に出会ったら絶対に目を逸らせ。一つでも目が合ったら飛び掛かってきてお前の目玉をえぐり取ってしまう。熊猫が鋭い歯をむき出しているのに出くわしても走って逃げてはいけない。背を向けて走り出した瞬間、飛び掛かってきてお前を一口で食べてしまうだろう……といった事だ。

 また、人々が入って休めそうな洞窟を見つけるとナティが真っ先に行って中を確かめた。なぜならそれは洞窟と見せかけた森ワニで、やって来る人々を一飲みしようと大きく口を開けて待ち構えているのかもしれないからだ。

 カッシら山の民は、食用に出来る草や木の根を教えてくれた。ラドゥは山の民が普段こんな物まで食べているのかと驚かされたが、今ではそれが自分達の命綱だった。体に纏わりつく気味悪い山ヒルの落とし方や、恐ろしい病気を運ぶ蚊を寄せ付けないために草を絞った汁を体に塗り込む方法を教えてくれた。

 誰一人死ぬ事無く一行が森を抜けたのだった。それは奇跡と言えた。

 ラドゥは行軍の中で、妖人や山の仲間達にどういった形でお返しが出来るだろう、と常に考えていた。農民達が彼らのお荷物になるわけにはいかない。洞窟の中で雨宿りをする間、ラドゥが自分の思いをナティに伝えると、ナティは答えた。

「俺らがお前達農民にしてもらいてえことはたくさんあるぜ。俺達にはすげえ計画がある。この森の下に地下要塞を作るんだ。『モグラの女王』って話に出てくる地下御殿みたいなやつさ! いいか、教えといてやる。戦闘にはな、想像力ってのが必要なんだ」

「モグラ女王の御殿か……マルが昔そういう話をしてたな」

「そうだったっけな。モグラ女王の話をしたのがマルだったかどうか覚えてねえよ」

 ナティはぷいとラドゥから顔を逸らして言った。

(ナティは必死でマルの事を忘れようとしてる。だがな、あいつの事は忘れられる訳ねえさ)

 ラドゥは自分の思いを口にしなかった。そんなのは、ナティがマルを失った事で出来た傷を抉るような事だ。

 ラドゥはジャングルの過酷な逃走の間、洞窟を見つけては休む度にナティから今後の闘争、さらにはカサン人に支配されない国についての夢を聞いた。ラドゥはナティから聞いた事を嚙み砕いて甥のジュカや妹のスンニ、さらには仲間の農民達に伝えた。未来を思い描く事は過酷な行軍を耐え抜く力になると信じて。さらに、ジャングルの下に自分達が築くであろう壮大な地下要塞に思いを馳せた。

(なるほど。そんな物を作ろうってんなら、ゲリラも我々農民の手が必要ってわけだ。もしうまく協力し合えれば、こりゃあとてつもねえこった! 本当にカサン軍と正々堂々戦えるかもしれねえ。何しろおら達アジェンナの人間はこれまで人種は身分でバラバラ。協力し合うなんて事が無かったもんなあ……)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る