第3話 油の木 3

 村人の集会所となっている高床式の小屋の階段を上がるラドゥの足取りは重かった。先生に支払う謝礼が滞っている。

 ラドゥが入り口の簾を上げて中に入ると、ランプの明かりの向こうに浮かんだバダルカタイ先生の窪んだ目の奥の光が、ラドゥの顔を射た。

 バダルカタイ先生とは、ラドゥがかつて通っていた川向こうのオモ先生の学校以来の付き合いであある。その学校ではカサン帝国の公用語であるカサン語を若い女教師のオモ・ヒサリが教え、土着の言葉アマン語の読み書きを老教師バダルカタイ先生が教えていた。

 オモ・ヒサリ先生は村を去ったため、今はラドゥが皆にカサン語を教え、バダルカタイ先生には今この場でもアマン語の読み書きを教えてもらっている。

「今日はたったの四人かね」

 バダルカタイ先生はラドゥに皮肉を言った。

「すみません」

 ラドゥは頭を下げた。

「仕事を終えたら皆疲れて、ここに来ようという気力すら残ってねえ有り様で」

「情け無い事じゃ。しかもさっきは一人、アマン語の読み書きなど習っても仕方が無いと言って帰って行きよった」

 ラドゥは押し黙ったまま、先生の言葉を聞いた。確かにアマン語の読み書きはすぐに何かの役に立つものではない。なぜなら役に立つ情報は皆カサン語の本や雑誌からしか得られないからだ。

「アマン語とは民族の心じゃ。それを疎かにするという事は、人としての尊厳を失うに等しい。自らの言葉を大切にせぬ事は思考力を失う事じゃ。思考力を奪われた者は奴隷に成り下がるより他無い」

 バダルカタイ先生の言葉が、ランプの光を揺らすかの如く部屋に響く。しかしそのような精神論は、今のくたびれ果てた農民達の心には響かない。ラドゥは恩師の言葉をもっともだと思いつつも、微かな苛立ちも感じつつ聞いた。

 ラドゥは話題を変えようと、腰の袋から害虫にやられた油の実の欠片を取り出した。

「見てくれ、油の実がひでえ有様だ。何とか実につく虫を退治する方法がねえもんか……」

「それは妖人どもの呪いだ! 奴らが入り込んで田んぼを埋めたて油の木を植えてめちゃめちゃにししたせいでこのざまだ!」

 暗がりから、ニカソという名の男が突然叫んだ。

「よせ!」

 ラドゥはニカソを一喝した。

「妖人の呪いなんて、そんなもんはねえ!」

「妖人どもは俺らに恨みを持ってやがる。それに奴らは執念深いからな!」

 ニカソの興奮はおさまらない。

「そんな事はねえ! 妖人が田んぼを埋めて油の木の畑にしたのは上に命じられてやっただけだ」

「ラドゥ、おめえは妖人と一緒に勉強したから妖人に甘いんだ。だがおめえも知ってるだろ! 妖人がカサン人に取り入ってずるいやり方で儲けてるのをな!」

「そういう話はよせ! とにかく妖人の呪いだなんてのは迷信だ。俺らは何でもかんでも悪い事が起これば『妖人の呪い』って事にしてきた。でも本を調べりゃちゃんと解決策が書いてあったじゃねえか。油の木にとりつく害虫のやっつけ方だって、きっとどこかに書いてあるに違いねえ。そのために俺らは読み書きを学んでる。だからいつか街に出て、そういう事が書いてある本がねえか探してみようと思う」

 ラドゥは一気に言葉を吐き出した後、賛同を得ようとするようにバダルカタイ先生の方を見た。しかしバダルカタイ先生の口から出たのは思いがけない言葉だった。

「そんな事は無駄じゃ!」

「え!」

「小手先の知識で対処しようとしてもうまくいくはずがない。そもそも先祖代々稲を育ててきた土地に油の木などという禍々しい物を植えた事が間違いのもとじゃ」

「先生の言われる通りです。でもこれはどうする事も出来ねえんです。上からの命令ですから」

「上とは誰じゃ」

「村長……、いや、そうじゃねえ、カサン人です」

「カサン人が我々の上だという事を、一体誰が決めた」

「いや、それは……」

「いいか、聞きなさい。カサン人がこの国で我が物顔にふるまってよいはずがない。この国の主は我々のはずじゃ。理不尽な命令に対しては抵抗せねばならん!」

「そうはいってもラドゥの兄貴は何度も村長や役人にこの状況をどうにかしてくれって頼みに行ってるぜ。でもあの人達はまるで聞く耳持たねえ」 

 ニカソは再びわめく。

「お前達農民には覚悟が足りん!」

 バダルカタイ先生は、低く唸るように言った。

「先生、じゃあどうすりゃいいってんだよ7! 読み書きは教えても、肝心な事はてんで教えてくれねえじゃねえか!」

「そんな事は自分で考えよ。そのための読み書きの勉強じゃ」

「ケッ、やってらんねえ!」

 ニカソは立ち上がるなり、足音を立てて小屋の外に出て行った。続いてもう一人の別の若者も。

「ほう、勉強する意欲は無くとも怒る元気はあるようじゃな。さて、わしは用が無いなら帰るとしよう」

「先生……」

 ラドゥはそう言ったものの、バダルカタイ先生を引き留めるために立ち上がる事も出来ず、その場で溜息をついた。残された数名の物の沈黙が、狭い部屋の床に溜まっていくかのようだった。

「ラドゥ」

 その時、暗がりの中から掠れた声がした。ラドゥは声の方に顔を向けた。ヌンという女がうずくまるようにそこに座っていた。彼女は下を向いたまま、ラドゥの方を見る事なく髪をいじっている。彼女はよく勉強会には顔を出すが、正直なぜなのかラドゥには分からなかった。彼女は熱心に勉強するわけでもなく、常に壁にもたれかかり、人の話を聞いているのかいないのか分からないような態度で髪の毛をいじったりあくびしたりしている。

 ヌンは周りから素行の悪い女だと見られていたが、それも理由の無い事ではない。彼女の兄のニジャイは、反カサンゲリラのメンバーである。彼女は少女の頃に彼らと行動を共にし、ゲリラの男達の慰み者になっていた。ラドゥは彼女を組織から救い出したものの、その頃身に付いたすれたどこか投げやりな態度が、年月を経ても彼女から消えなかった。そして時折思いついたように奇妙な事を言い、ラドゥを困惑させるのだった。

「何だ」

「ねえ、分かんないの? バダルカタイ先生、武装蜂起しろって言ってんのよ」

「何だと!」

 ラドゥは声を荒げた。

「そんな事、二度と口にするんじゃねえ!」

 ラドゥはヌンに詰め寄って言った。ヌンは顔を上げない。彼女の長い髪を、ラドゥの荒い息が揺らす。

「そんな事は悪魔の手先がする事だ! 善良な農民がする事じゃねえ! おめえがまだニジャイや組織と通じてるとしたら、おめえを警察に突き出す事も出来るんだぞ!」

「怒んなくたっていいじゃない。あたしただ、先生がそう考えてるんじゃないかって言っただけ」

「そんな事言うな! 先生に失礼だぞ!」

 しかしラドゥは言い終えるなり息を吞み込んだ。バダルカタイ先生は、見かけは白髪と白い髭をたくわえた老人だが、その内に過激とも言える情熱がたぎっている事をラドゥは感じていた。ラドゥは今日のバダルカタイ先生の去り際の表情を思い出し、一瞬混乱し、しばらくの間先生の去った扉の方を見詰めていた。

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