魔法の手

葉月りり

ささくれ

 小学校の学年最初の父兄会。私は息子の席に座ってぼーっと役員決めの話し合いを聞いていた。去年、結構ハードな広報係を務め上げたので、今年はお役御免。余裕でぼーっとしてられる。


 父親の参加者はいない。母親ばかり。みんな綺麗にしてきているなーと見回していたら、すぐの隣の席で目が止まった。机の上で重ねられた両手は白くて細くてラメの入ったピンクのネイルをしている。そのキラキラした爪を見て私は、やはり机の上に置いていた自分の手をそーっと机の下に引っ込めた。


 ひゃー、何という違い。腿の上に置いた私の手は色黒で血管が浮いている。指先はガサガサで白くひび割れていて、昨夜、気合いで取ったささくれの跡の赤い三角形が余計にみすぼらしい。


 家にいると水仕事の後クリーム塗ったってすぐまた水仕事ができてきりがない。

 あんな爪してられるのはきっと要領よく家事をこなしているんだろうと思う。でも、お米研いだら取れちゃうんじゃないかな。お仕事だって、キーボードに引っかかったりしないのかしら。

 なんてこと思っていたら、


「青木さん、もう一年、広報やってもらえませんか」


?あれ? なんか今呼ばれた?


「青木さん、広報係、どうですか」


えええーっ。


私は慌てて立ち上がった。


何で? それおかしいでしょ。

断らなきゃ! はっきり言わなきゃ!


「役員は六年間で一回って、聞いてます。私、去年やりました。もう出来ません」


 ドキドキしながら何とか言えた。


「でも、なかなか出来る人がいなくて。本部から経験ある人が来てくれると助かるって言われてるんです」


 この場を仕切っている長年本部にいる人、すごい押しが強いんで有名だ。負けちゃいけない。


「家で仕事してるんだから出来そうなのにね」


 後ろで小声が聞こえた。

 確かに私は在宅勤務だ。でも、お勤めの人と何も変わらない。去年は仕事と広報係の両立で結構無理をしていた。


 絶対断る。こぶしをぎゅっと握ったらささくれ跡に親指の腹が当たってピリッと痛みが走った。ここでしっかりしなきゃ! 

 ドキドキで声が裏返りそうになりながらはっきり言った。


「無理です。今年は仕事も増える予定なのでお引き受けできません」


 それだけ言って席に座ったら涙が出そうになった。みんなに見られているような気がしていたたまれない。


 私はなかなか進まない話し合いを放って、仕事があると嘘を言って出てきてしまった。もしかしたらクラスのお母さん全員に嫌われてしまったかもしれない。


 学童保育に翔太を迎えに行って帰ってきたら、本当に急ぎの仕事の電話があった。嘘つきではなくなったけど、落ち込んだ気分は治らない。


 仕事はそんなことでクヨクヨしてられない量だった。今日は夫が出張で居ない。全部一人でやらなくちゃ。ご飯作って翔太をお風呂に入れて…大忙しだ。


 なのに、翔太ときたらこんな時に限って言うことを聞かない。ランドセルは置きっぱなし、学童で終わらなかった宿題もやらないでゲームゲームとうるさい。さっさと家事を終わらせて仕事する時間を作らなきゃいけないのに。余裕のない私はついつい大きな声を出してしまう。


 やっと仕事を始められたのは10時近く。パソコンで作業しながらタブレットで調べ物をしようとしたら、指がカサカサで画面が思い通りに反応しない。クリームを手に塗っていたら違う指にまたささくれが出来ていた。


 何とか目処をつけて、あとは明日にしようと寝室に行くと、寝ているはずの翔太が布団の上に座っていた。翔太は私を見て口を動かすが声が出ない。かすかにぜーぜーと聞こえる。


 発作だ。

 翔太は3歳の時に小児喘息だと診断された。ひどい発作を起こして救急病院に駆け込んだこともあったけど、良いお医者様の指導のおかげで小学校に上がってからは発作の回数はグッと減って、今年に入ってからは一度も起こしていなかった。


 私はすぐに吸入器を持ってきて翔太に口を開けさせた。いつもならこれですぐに治るのに今回はなかなか治らない。私は翔太を抱いて背中をさすり続けた。もう少し待って治らなかったら救急病院だ。今日は夫に頼れない。私が連れて行かなくちゃ。


 風邪引いた感じはなかったけど、ここのところ調子良かったから油断しちゃったかな。それとも…もしかしてストレス? 今日は翔太のこと怒ってばかりだった。そのせいかな。嫌なことがあったからって余裕なくイライラして、ごめん翔太。


 しばらくさすり続けているとゼーゼーが聞こえなくなってきてスースー楽そうな呼吸音になって来た。ホッとしながらも背中をさすりづけていると、


「ママ、もう大丈夫」


 翔太が私に寄りかかっていた体を起こした。私は翔太の頬を両手で挟んで顔色を見る。よいとも言えないが悪くはない。とりあえず唇はピンクだから心配ないだろう。


「大丈夫? 寝られる?」


「うん。大丈夫。すごいね、ママの手は」


「え?」


「魔法の手みたいだね。ママに背中を撫ででもらうだけですごく楽になるんだ」


 楽になったのは薬が効いて来ただけなのに。でも、ちょっと嬉しい。


「でもさ、今ほっぺ触られたらなんかガサガサして痛かった。ママの手、鱗があるみたいだよ」


 えー、鱗がある魔法の手? 私の手荒れ、そんなにひどいの?


「わかった、わかった。もう寝よう。あ、お水飲む?」


 キッチンでミネラルウォーターを人肌にするのにチンしている間、自分の手を見た。そうか、この手は翔太にとっては魔法の手なのか。それじゃもう少し大事にしないといけないね。しかし、鱗かあ。ちょっとショックだわ。


 次の日、ちょっといいハンドクリームと水仕事用にゴム手袋を買った。そして新しく出来てしまったささくれは無理に剥かないで、眉バサミで丁寧に切った。


おしまい

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魔法の手 葉月りり @tennenkobo

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