第10話 新しい同居人
レイモンドと共に寮に戻ると、シュゼも後から合流してきた。
「可愛いの抱っこしてますね、ノア様」
後ろからちょんと指先で猫に触れ、シャー!と猫の威嚇を受けたシュゼは楽しそうだ。
「猫好きなんですか?」
シュゼはニコニコしていて、隙あらば猫に触ろうとしている。
「はい。小さいものはなんでも好きですよ」
階段を登り、208号室へと入ると、アシュレイがリビングルームの掃除をしているところだった。
「おかえりなさいませ、ノア様。お戻りは夕方になると思っていましたが……。その子は?」
掃除の手を止め、アシュレイの目がぱちぱちと瞬きを繰り返す。
「新しい入寮者、というところですかね」
レイモンドが告げた。
「アシュレイさん、早速で申し訳ないのですが、温かいお湯を沸かしてもらえますか?猫をお風呂に入れます」
「分かりました」
深く何度か頷いて、浴室へと走っていく。
「ぼく、猫をお風呂に入れたことないです」
どんどんと準備が整ってくるが、そういえば誰がどうやって入れるのだろうと思った。
「それは心配いりませんよ!自分が入れますので」
シュゼが自信満々に頷いたので、ノアは良かった、と頷き返す。
ノアの腕の中の猫は、よくわかっていなさそうで、呑気にあくびをしていた。
お風呂が沸いて、シュゼがノアの手からスッと猫を抱きあげる。
あまりの手際の良さに、猫も一瞬ぽかんとしていたが、その後シャー!だかギャー!だか、とにかく酷く驚いた声をしながら連れて行かれてしまった。
若干可哀想に感じ、猫の消えた浴室の扉を見つめていると、レイモンドが肩を竦めた。
「可哀想ですが、あの汚さでは不衛生と言わざるを得ません。弱っている時ならともかく、リュカさんの歌のおかげで元気でしょうし、変な病気に罹るよりも綺麗な体にしてあげたほうが良いでしょう」
「その通りです。ノア様、あの猫をあの汚れた状態で部屋に放つわけにもいきません」
ノア様も手を洗ってきてください、とアシュレイに促され、まだ猫の暖かさの残る手を見る。
猫は相当汚れていたようで、ノアの手にも黒い跡を残していた。
手を洗って戻ってくると、リビングルームのテーブルの上にはサンドイッチやサラダ、コーンスープなどが並んでいた。
「お昼ご飯がまだだと伺いましたので、準備しました」
アシュレイが満足そうにしている。
レイモンドが、早く座りなさい、と手招きする。
食事をとっていると、濡れそぼった猫が浴室から飛び出してきた。
後ろから、同じくびしょ濡れのシュゼが猫を追いかけて出てくる。
アシュレイは部屋の惨状に目を覆い、レイモンドは食事を摂る手を止めない。
ノアはあわあわと猫をまだ追いかけ、何も出来なかった。
しばらく猫とシュゼの追いかけっこが続き、シュゼが無事に猫を捕まえた時には部屋の至る所に水たまりができていた。
「アシュレイさん、メイドを呼んで、片付けを手伝ってもらってください。1人で片付けるのは大変ですよ」
アシュレイは頷いて、部屋を出て行った。
アシュレイがメイドを連れて戻ってくる前に、と昼食を食べ終えてしまう。
「部屋にいたら邪魔でしょうから、私達は子猫のために必要なものでも買いに行きましょうか」
「はい。あ、でも、シュゼさんは?」
聞いてる間に、浴室から「ちょっとじっとしてください!」「ニャー!」というやりとりが聞こえ、レイモンドが首を振った。
「もう少しかかりそうですよ」
「そうですね」
「レイモンド様、ノア様、メイドを連れてきました」
扉が開いて、アシュレイとメイド服を纏った少女が3人入ってきた。
水浸しになった部屋を見て、メイド達が微妙な顔を浮かべる。
「絨毯も変えた方が良さそうです」
「わたくしとって参ります」
「ではわたくしは拭き掃除の準備を」
各々が部屋の片付けについて話し合い、それぞれテキパキと動き出す。
「アシュレイさん、私達は街へ買い物に行ってきますね。シュゼと猫はまだ浴室にいますので、よろしくお願いしますします」
「あ、はい。かしこまりました。お戻りまでには、お部屋を綺麗にしておきますね」
ぺこっと頭を下げるアシュレイの横を、レイモンドと共に通り過ぎた。
「リリアンさん、御者を1人借りれますか?」
寮の入り口、管理室で書類仕事をしていたリリアンにレイモンドが声を掛ける。
「まあ。ハーデン様。いらしていたのですね。シュゼ様はどうされました?」
「シュゼは今、手が離せないんです」
「そうだったんですか。少々お待ちくださいね」
リリアンはすぐに戻ってきた。
青年と少年の狭間のようなその人は、マルセルと言うらしい。
「今日は用事がないので、マルセルを連れて行ってくださいな」
マルセルは頭を軽く下げ、明るく笑った。
「マルセルさん。久しぶりですね」
レイモンドはマルセルのことも知っているらしい。
マルセルははにかむように笑って、レイモンドと握手した。
「ノアさん、マルセルさんは話せないんですが、優しく聞き上手なお兄さんなので、何か困り事があれば相談すると良いですよ」
レイモンドがそうノアに紹介すると、マルセルは照れくさそうに頭を掻いて、ノアにも握手を求めた。
ノアがその手を握ると、目を細めてノアの頭をポンと撫でた。
「さ、日が暮れるまでにいきましょうか」
馬車は寮の目の前に停まっていた。
最初は街で食事の予定だったので、シュゼが馬車を持って来たそうだ。
「レイモンド様、リュカはどこへ行ったんですか?朝、遠くへ行くって言ってたんです」
「リュカさんは、王都の外にある町に行きました。今日は癒しの歌が歌える神の愛子達が地方の小さな教会で人々に癒しを与える日なんです。日帰りで帰って来れる距離ですが、遠いといえば遠いですね」
「さっき教会で見たようなことを、色んなところでするということですか?」
「えぇ。そうです。大事なお役目ですよ」
「そうなんですね」
まだノアの耳に、穏やかな歌声が響いている。
教会の中庭で聞いた、優しい声が。
癒しの歌はノアには歌えそうにない。耳には残っているのだが、音として再現できそうにはないのだ。
「さ、ノアさん。リュカさんが帰ってくる前にあの猫の住処を整えてあげましょうね」
レイモンドは雑貨屋さんや家畜の餌を扱っている店などを、マルセルに伝えて複数寄り道した。
子猫用のミルクと、肉。少しの穀物。
子猫が休むためのクッションや、毛布。
それから、猫が隠れられる手頃な箱。
猫の毛並みを整えるための櫛。
猫のトイレ。
「これもいいですね」
手足が麻縄で出来たクマのぬいぐるみもひとつ購入して、レイモンドが馬車の中に積んだ。
「さあ、帰りましょう」
猫のための用品はリビングルームに置くことになった。
寮に着くと、絨毯が新しいものに変わっていた。
毛足の長い、茶色の絨毯。
メイド達はすでに退室しているようで、姿はない。
テーブルにはノア達が食べたのと同じ昼食が1人分並び、シュゼが食事をとっていた。
アシュレイは給餌に徹しており、シュゼから離れた吊り下げ型の卵のソファの上で猫が丸まっていた。
「白猫だったんですね」
猫の毛並みは見違えるように綺麗な白色だった。まだらに汚れていたときには、グレーの毛並みなのかと思っていた。
「綺麗な毛並みですね」
猫は自分の話をされていると気付いたのだろう。
うっすらと目を開け、物言いたげにゆっくりと尻尾を上から下へと振っている。
「綺麗になったでしょう」
サンドイッチを頬張っていたシュゼが、一度水を飲んで口の中を空にしてから、得意げに笑った。
「ありがとうございます、シュゼさん」
「どういたしまして。いやー、その子を綺麗にするのは骨が折れましたね。大分暴れん坊でしたよ。あ、ちなみにその子は女の子ですね」
あはは!と笑いながら、シュゼは満足そうだ。その腕に、無数の引っ掻き傷と咬み傷があったのは見ないふりをしておく。
食事を終えると、シュゼとレイモンドは揃って寮を出た。
「では、ノアさん。また会いましょうね。もうすぐあなたも教会学校へ通うことになりますので、心の準備をしておいてください」
「ノア様、猫のことで困ったことがあればアシュさんを通して連絡してください」
それぞれに、そう言い残して。
猫は早速お気に入りの場所を見つけたようで、卵形のソファの上で寛いでいる。
日当たりの良い場所に猫のソファを置いてみたが、見向きもしなかった。
猫用のミルクをソファの近くに浅い皿に入れておいたら、それはノアが本を読んでいる間に少しずつ飲んでくれていた。
猫はミルクを飲んで、ご飯を食べて、ソファで寝て過ごす。
ノアは猫に構いたいのを我慢して、本を読みながらチラチラと猫の様子を伺った。
夕方、お風呂に入って出てくると、猫は浴室近くの扉の前に座っていて、ノアが出てくるのを見るとのそりと立ち上がってソファへと帰っていった。
食事をとって、また本を読む。
猫はノアに近寄って来ることなく、時々毛繕いしている。
夜遅く、リュカがあまりにも帰って来ないのでそろそろ寝ようかと思った頃、リュカが帰ってきた。
「……まだ起きていたの?」
リュカの顔はくたびれていて、起きていたノアにびっくりしたようだった。
「おかえりなさい、リュカ」
「ただいま」
「えっと、お疲れ様でした」
「うん。ありがとう。今日は、読み書きの勉強はなしでもいい?」
「もちろん。ね、リュカ」
「なに?」
本を閉じて、立ち上がる。
そっと指で白猫を指すと、リュカの表情が柔らかくなった。
「あぁ、猫。洗ってくれたの?」
白く柔らかな毛に、リュカがそっと手を差し込んだ。
猫は起きていて、リュカの手にじゃれつくように仰向けになると、リュカの手を舐め始めた。
「シュゼさんが」
「そうなんだ。綺麗なったね。良かった」
リュカが猫にされるがままに手を差し出し、目を細める。
「リュカ、猫の名前はどうする?」
「あぁ……そうだね。白い毛並みだから、ブランシュにしよう」
「ブランシュ?」
「うん。異国の言葉で白色って意味」
「そうなんだ。ブランシュ。ブランシュ。良いね」
何度か呟いて、口に馴染ませる。
綺麗な響きだ。
子猫はまだ自分の名前だと分かっていないようで、繰り返し呟いても何も反応はしない。
「ブランシュ。君の名前だよ」
リュカが視線を合わせてそう言っても、ブランシュはキョトンとするだけだった。
その日の夜は、ブランシュが寂しくなったらどちらかの部屋にでも行けるように扉を開けたまま寝た。
ブランシュはむしろ1人で過ごすのが快適だったようで、卵型のソファに上でずっと寝ていたようだった。
次の日、ノアはブランシュが気になって自然と早起きした。
リビングルームに出ると、ブランシュは変わらず卵形のソファの上ですやすやしていた。
「ブランシュ、ずっとそこにいたの?」
ノアの気配に気づいて起きたブランシュは、頭だけを少し持ち上げてあくびをする。
昨日まで野生だったのか疑わしいほどののんびり具合で、短く「ミャ」と鳴いた。
「おはよう、ノア。珍しいね。1人で起きたの?」
「おはよう、リュカ。うん」
リュカは珍しくノアより後に起きたらしい。
まだ寝巻きのままで、少し眠そうな目をしていた。
「今日はお休みなんだ。学校も、仕事も。だから、ちょっとダラダラしようか」
リュカが一日中家にいるのは初めてのことだった。
少しだけ文字の勉強をして、2人で本を読み、ブランシュと遊んで過ごした。
のんびりとした1日だった。
「リュカは、魔物と戦いたいの?」
窓を少し開けて、呟くように歌っていたリュカの姿をそっと眺める。
「……まあ、それはね。せめて、前線に出たいとは思うよ。僕らは神の愛子だけど、いつだって蚊帳の外なんだ。怪我した愛子を、後から癒すだけ。目の前で魔物に襲われる人々を救うこともできない。無力だ」
リュカはじっと窓の外を見つめていた。
何かを思い起こしているようだった。
リュカの歌声は繊細で、優しかった。
リュカの声を、いつまでも聞いていたかった。
攻撃の歌と、癒しの歌は根本的に違うのだと感じていた。ノアにはない、癒しの力。
ノアの歌は攻撃的で、激しい。
リュカの歌は優しく降り積もる雨や雪のようだった。
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