第9話 癒しの力
「ノア、今日は字を書いてみようか」
リュカは律儀で、絵本の読み聞かせの話から毎晩ノアに絵本を一冊読み聞かせてくれた。
神様と神様の愛子の話の他にも、よくある英雄譚や、架空の世界の話、美しい楽園の話などの絵本を読んでいたある日、リュカがそう提案した。
早速、とリュカが紙とペンを用意する。
ノアにはい、とペンが渡された。
ノアがペンを握るのは、アシュレイが書き取りをするよう言ったあの日以来だ。
「ノア、持ち方が違う」
リュカは咎める様にピシャリと言った。
怒られた様に感じて、びくりと肩を跳ねさせる。
「こうだよ」
リュカがノアの手を後ろから握り、指先をペンに添える様に誘導する。
それから、文字を三つ綴った。
「これで、ノア。君の名前」
「……のあ。この三つで、ノア?」
「そう」
リュカがノアの手に添えていた手を外す。
ノアは、リュカが教えてくれた通りにもう一度同じ3文字を書く。
「上手。まずは自分の名前、次は自分の好きなもの。そうして書いていけばすぐに文字は覚えられる」
「リュカは、どう書くの?」
好きなもの、と言われてもパッと思いつかなかった。
なので、つい目の前にいたリュカの名前の書き方を聞く。
「え、僕の名前?……こうだよ」
リュカはびっくりした後、再びノアの手に自分の手を添えて、次は5文字綴った。
「これで、リュカね。分かった」
リュカの手が離れて、ノアはリュカの名前とノアの名前を交互に5回書いた。
音もわからずに一文字ずつ綴っていた時よりも、覚えられる気がする。
「次は、レイモンドって、どう書くの?」
「人の名前ばっかりだね」
「うん。その方が覚えられるから」
その後も、シュゼ、アシュレイ、ルイズ大司教、リリアン、と新しく出会った人々の名前を書いた。
それから、続けてアンナやユーナおばさんの名前をはじめとする、村の人々の名前もリュカに教えてもらった。
「それから、カンナってどう書くの?」
「カンナさんは、ノアの何?」
アンナやユーナ、村の人々の名前を伝える時、リュカは1人1人誰なのか尋ねてきた。
「ぼくの母さん」
「そうなんだ」
ただ誰か知りたいだけの様で、リュカはふうん、とかへぇ、とか返すだけだ。
「ノア、そろそろ寝よう」
すっかり夜も更けて、ノアの目がしぱしぱし始める。
リュカがノアの手からペンを取り上げた。
いつの間にか置かれるようになったリビングルーム本棚に、リュカが絵本を立てる。本棚の一部は引き出しになっていて、その中に書きかけの紙とペンを仕舞い込んだ。
「おやすみ、ノア」
「おやすみ、リュカ」
すっかり習慣になった挨拶を終えて、お互い自分の部屋に戻った。
ふかふかの布団に潜り込むと、すぐに眠気が襲う。
ノアは最近、夢も見ないほどぐっすり眠っている。
いつの間にか朝が来て、いつの間にかリュカに起こしてもらうのが習慣になってしまった。
「おはよう、ノア」
「……おはよう、りゅか」
あくびを噛み殺したら、発音が甘くなってしまった。リュカがクスッと笑う声がするが、顔を見るとすでに真顔に戻っていた。
「ノア、今日は遅くなるから。先に寝ていてもいいよ」
「どうして?」
「遠くまで行くかもしれないから」
遠く?と首を捻るノアの寝巻きを脱がせて、祭服を着せる。
さながら早着替えのような手際の良さで、リュカはノアの身支度を手伝った。これも習慣化してしまって、困ったことにノアはいつまでも祭服を一人で着れないでいた。
朝食を共に摂り、リュカを見送って、最近は1人でも読めるようになった絵本を開く。
お昼前、扉がノックされた。
「アシュ?」
いつもお昼を準備してくれる時間にしては早い気がする。そう思って尋ねる。
「はい。ボクです。ノア様に来客です」
扉が開いて、アシュレイがひょっこりと顔を出した。
後ろには、レイモンドとシュゼ。
「ノアさん、こんにちは。今日は一緒に、教会に行きましょう」
「こんにちは。教会ですか?」
「えぇ。文字のお勉強も、リュカさんのおかげで順調だと聞いていますし、もうすぐ10歳になりますよね?なので、そろそろ良い頃合いだと思いまして」
何が良い頃合いなのか、全くわからない。
ノアがここへ来てから、約1ヶ月が経つ。
確かに、10歳の誕生日が近いのは間違いないが。
「さあ、出かける準備をしてください」
出かける準備、と言われても、ノアはこのひと月近く国王陛下への挨拶以外には寮を出ることすらなかったのでわからない。
困惑しかないノアの後ろから、アシュレイが白いローブを着せた。
「ノア様、行ってらっしゃいませ」
ぺこっと頭を下げ、アシュレイがノアの背中を押す。
レイモンドが満足そうに頷くので、これで正しいらしい。
「じゃあ、行きましょう」
レイモンドが先に立ち、スタスタと行ってしまう。
ノアはその後慌てて追いかけた。
レイモンドになんとか追いつけた頃、ノアが一生懸命走るのを尻目にゆっくり歩いてきたシュゼが並ぶ。
「ノア様、健康的になりましたね。あんなにひょろっとしていたのに」
「そうですか?」
「はい。子供らしく、ほっぺが丸くなりましたね」
シュゼに指摘されて頬を触り、言われてみれば確かに肉がついたことに気付く。
村にいる時よりも体を動かしていないし、村にいた頃よりも良いものをたくさん食べている。だからだろう。
「なんだか、贅沢をし過ぎている気がします」
言うなれば三食昼寝付き。
ノアは文字の勉強しかここへ来てからしてないし、寮からも出ていない。
昼を過ぎて夕食までにアシュレイがおやつの時間だと、毎回ケーキ類を持ってくるのだから、贅沢に磨きがかかっている。
「それで良いんですよ。いわば先行投資みたいなものです」
シュゼはうんうん頷いている。
教会は寮から徒歩でも行ける距離だ。
話しているうちに、徐々に教会に近づいていた。
「あれは何の列ですか?」
ノアは教会の出入り口がよく見える位置で足を止めた。
教会の出入り口から、とても長い距離、人が並んでいる。
「勝手口から入りましょうか」
レイモンドが人の列を眺めて、それから進路を変更した。
教会の正面から脇に逸れ、小さな出入り口の扉を開ける。そこは教会の礼拝室に繋がる細い廊下に入る扉だった。
細く長い廊下に、微かに歌声が響いている。
穏やかで優しい声だ。
「あの、中で何をしているんですか?」
「ノアさんには、今日はそれを見学してもらいます」
レイモンドは教えてくれず、廊下を歩く。
石の床がコツンコツンと足音を鳴らす。
廊下の角を曲がると、扉が一枚。
それを、シュゼが静かに開いた。
扉は祭壇の横の小部屋に繋がっていて、その小部屋から礼拝堂に向かって重い赤色のカーテンが引いてあった。
レイモンドに促され、礼拝堂をカーテンから覗く。
礼拝堂の中は満員だった。
長椅子を所狭しと埋め尽くす人々。
彼らは啜り泣いていて、その泣き声を覆い隠すように穏やかな歌声が伸び伸びと響いている。
歌声は複数人のものだった。
礼拝堂の中、白いローブを纏った少年少女が、高らかに歌いながら歩いている。
長椅子に座った人々の頭に手を置いたり、両手を握りしめたりしながらも歌うのはやめない。
人々は目を閉じ、涙を流しながら歌を浴びているようだった。
「みなさん、癒しの歌を聴きにきているんです」
一度歌が途切れると、何度も頭を下げながら人々が教会を出ていく。
それから、教会の外で列を成していた人々が入れ替わりに入ってきて礼拝堂の椅子を埋める。
「月に一度、この教会ではこうして癒しの歌を歌い、人々の病や傷を癒します。欠損や生まれつきの病、死人を生き返らせるなどの奇跡は起きませんが、大抵の傷や病を治しているんです」
歌う少年少女の中には、リュカがいた。
リュカはフードを目深に被り、無表情で歌っている。
何度か礼拝堂の中が入れ替わった後、一度教会の大きな扉が閉められた。
「お昼休憩ですね」
お昼というには少し遅い時間だ。
「ノアさん、馬車を回してきますから、中庭で待っていてください。お昼は街で食べましょう」
レイモンドが、礼拝堂の小部屋から出ていく。
歌っていた神の愛子達も、それぞれにどこかへ行くようだった。いつの間にか外に出たようで、リュカの姿は見つからない。
ノアはレイモンドに教えられた通りに教会内を進んで、中庭へと出た。
中庭はきれいに整備されていて、色とりどりの花が咲いている。
花を見ながら歩いていると、裏庭の奥から歌声が聞こえた。
教会の礼拝堂で聞いた歌によく似ているが、少し切なく感じる。
ノアは自然と早歩きになりながら、歌の出所を探した。
中庭の奥、生垣で作られた迷路のような通路の奥にベンチがある。
歌声はベンチに座っているリュカのものだった。
一緒に暮らしていて一度も見たことのない優しい顔で、リュカは歌っている。
膝の上に小さな生き物を乗せて。
小さな生き物は薄汚れていて、弱々しくミィミィ鳴いていた。
猫だ。
リュカは優しく猫の背を撫でながら歌っていた。
猫は心地よさそうな目を細めている。時々、リュカの手に自分の頭や鼻先を押し付けたり、手を舐めたりしながら寛いでいる。
綺麗な光景だった。
美しい歌声だった。
少しでもその夢のような景色に近づきたくて踏みしめた足が、足元に落ちていた小枝をポキンと割った。
猫が先に反応して、耳をピンと持ち上げ外に向けている。
リュカの歌声がやんだ。
「誰?」
不機嫌そうな声に、ノアが恐る恐る生垣の影から出る。
「……ノア。来てたの?」
リュカはノアの想像とは違って、不機嫌な顔はしていなかった。
びっくりした顔をして、それからいつもの無表情に戻る。
「レイモンド様が、そろそろ良い頃だから、って連れてきてくれたんだ」
「あぁ。そうだね。……もしかして、礼拝堂の様子を見た?」
「うん」
「どうだった?」
「凄いと思った。癒しの歌は、みんなに求められてるんだね」
「あぁ……まあ、そうだね。そうかもね。でも、攻撃の歌や守りの歌に比べればおまけみたいなものだよ」
リュカが自嘲気味に言った。
ノアはその言いようにびっくりする。
「おまけ?癒しの歌がおまけなの?誰が言ったの?」
「誰が言ったわけでもないよ。でも、僕ら癒しの歌が歌える愛子はみんな思ってる。僕らは前線に出ないし、魔物への干渉力はないから」
だからノアが羨ましい、リュカがそう言った。
「リュカはすごいのに。さっきの人たちみんな、泣いてたよ。癒しの歌に感謝してた」
「まあ、誰だって辛いのも痛いのも嫌だからね」
「ぼくには出来ないことだよ。その猫も、治したんでしょう」
猫は警戒心の強い生き物だ。
なのに、リュカの膝の上で丸くなっている。
さっきまでの警戒は何処へやら、ピンと立っていた耳も、今は力が抜けている。
「……カラスに襲われてたんだ。子猫はカラスに狙われやすい」
猫は薄汚れているが、傷ひとつなさそうだ。
「ほら、行っていいよ」
猫をそっと地面に下ろすと、リュカがその背中を軽く押す。
猫は踏ん張るようにして動かず、リュカの足に身を寄せた。
「困ったな。僕は仕事があるんだけど?」
リュカが眉を寄せている。
猫は動く気がなさそうで、リュカの足の上に飛び乗ると丸まってしまった。
「リュカ、寮に連れて帰っちゃダメ?」
「え、寮に?確かに、寮に生き物を連れてきちゃダメってルールはないけど」
「じゃあ、いいでしょ?リュカは今からお仕事があるなら、ぼくが連れていくから」
リュカの膝の上に手を伸ばすと、猫が背中をぐっと持ち上げてシャー!っと鳴いた。
「リュカはお仕事なんだ。先に僕と行こう?」
ノアが声をかけても、猫は警戒を解かない。
リュカが優しく宥めるように背中を撫でた。
「大丈夫。怖くない。ノアと先に行っててくれる?」
猫は賢い。
伺うようにリュカの顔を見上げ、それから小さくミャア、と鳴いた。
のそりと立ち上がり仕方ないな、というようにノアの近くに寄ってくる。
ノアが触っても、今度は警戒しなかった。
「じゃあ、よろしくね」
村では犬猫をペットのように飼う人はいなかったが、どこからか流れてきた野良猫や野良犬と触れ合ったことはあった。
ゆっくり抱き上げると、小さな猫は恐る恐る体を預けてくる。
「うん。この子と待ってるね」
リュカは猫の頭をひと撫でして、去っていった。
猫は寂しそうにリュカの方を見ていた。
「夜には帰ってくるよ」
今日は遠くへ行くから帰りが遅いと言っていたが、夜には帰ってくるだろう。
「ノアさん。ここにいたんですね」
暖かい猫を抱いていると、後ろから声がかかる。
振り向くと、レイモンドが立っていた。
「レイモンド様」
「馬車の準備ができたので、呼びにきました。……その猫は?」
ノアの腕に抱かれた猫に気付き、レイモンドが近づいてくる。
「リュカが傷を治してあげてたんです。それで、離れなくなってしまって」
「リュカさんが。そうですか。お昼は街で食べようかと思いましたが、寮に戻りましょうか。猫は連れていけませんし、傷や病気は治っているでしょうが、酷い汚れです。洗ってあげましょう」
猫が警戒していることに気付いたのか、レイモンドは一定距離以上には近づいてこなかった。
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