第7話 作法なんていらない
お風呂に入った後、リュカはノアに寝るように促した。
文字の練習が、とか、せめて自分の名前だけでも書けるようになりたい、とか、色々言い募ってみたが、リュカはノアを部屋へと押し込んだ。
「疲れてる時に何やっても身につかないよ」
リュカの言い分は尤もで、今日一日中ノアがやった書き取りは一文字もノアの身についてはいなかったし、これ以上やったところで頭に入るとは思えなかった。
疲れた右手を揉みほぐしながら、ベッドへと入る。
上質なベッドはすぐにノアを眠りの中へ引き込んだ。
ノアが寝た頃、リビングルームではリュカがソファに腰掛け、美麗な絵の描かれた絵本をパラパラとめくっていた。
「リュカ様、何かお淹れしますか?」
「……水があるから良い。それよりも、アシュ」
「はい?」
「あんまりノアに八つ当たりするなよ」
「何の話ですか?」
本当に何の話かわからないかのように、アシュレイはきょとんとしている。
「リュカ様が気にかけるなんて珍しいですね。ノア様のことが気に入りましたか?」
「ルームメイトなんだから、気にかけて当然。それに、レイモンドから気にかけてやるよう言われてもいる」
「へぇ。そうですか。じゃあ、くれぐれも大事大事してあげてください」
じゃ、ボクは下がりますね、と去って行こうとするのをリュカが呼び止めた。
「アシュレイ。レイモンドは、お前のことも気にかけてやってくれた言っていた」
「……そうですか」
リュカに背を向けたまま、アシュレイが呟いた。
背を向けているので、アシュレイがどんな表情をしていたのか、リュカにはわからなかった。
トントン、と扉をノックする音がする。
今日は来客のある日だっただろうか、なんて考えてノアは飛び起きた。
そうだ、ここは家じゃなかった。
まだ見慣れない家具、嗅ぎ慣れない空気。
手触りの良い布団を押し退けて、ベッドから這い出る。
こんなにも寝起きの悪い人間ではなかったはずだが、ベッドの居心地がいいのが悪い。
気がつけば眠りに誘い、起きようとすれば二度寝に誘われる。
あくびをしながら、ノアは扉を開けた。
途端、何か眩しいものが見えた気がして目を細める。
「……リュカ、さ、ん」
様、と付けかけたところで踏み止まる。足踏みのように、さん付けしてしまったが、リュカの整った無表情は不機嫌に眉を寄せることはなかった。
「おはよう」
寝ぼけ眼のノアとは違い、リュカは寝癖ひとつない髪に、きっちり祭服を着込んでいる。
「おはようございます……?」
リビングルームに差し込む明かりから、朝であることは間違いない。
だが、何故リュカが扉をノックしたのか。
その疑問がノアの挨拶の語尾にも付いてしまう。
「今日は国王陛下への挨拶するんでしょう。作法なんかは気にされないだろうけど、服は流石にきちんと着ないとね」
どうやら、服の脱ぎ方すらわからないノアを気にかけてくれたらしい。
「あの、でも、アシュに着せてもらうから。だから、大丈夫」
「あの、とか、でも、とかばかりだね。ノアは」
リュカの眉が、今度こそ不機嫌そうに寄せられる。
「ルームメイトがだらしないと僕が迷惑するんだ。それに、アシュはこんなに朝早くは呼んでもこない」
「そうなの?」
「うん。部屋、入るよ」
祭服を着れないノアには断る理由もなく、どうぞ、と部屋へ招き入れる。
「朝早くからアシュを呼ぶ必要がないし、ノアと違って僕は1人で服を着れるからね。その代わり、夜遅くまで風呂の掃除やら何やらで起きててくれるから」
「朝ご飯は?」
「僕は食べないから。あ。でもそうか、ノアはいるよね」
手際良くノアに服を着せながら、リュカが呟く。
「まあ、ベルを呼べば誰かが来るから」
さあ、おしまい、と言って最後にローブを掛ける。
リュカはノアの服を満足気に見て、部屋を出て行った。
扉のそばの紐を引っ張ると、程なくして初めて見るメイド服の少女が来る。
「お呼びでしょうか?」
澄まし顔の少女は、ツンとした声でそう聞く。
「ノアに朝食を。僕はもう出るよ」
「かしこまりました」
少女は音もなく去り、リュカは一度自分の部屋へ入ると、カバンを持って出てきた。
「ノア。字の勉強なんてしないように。どうせ1人でしたって身につかない」
リュカの言い分は尤もで、だけどノアには意地悪に聞こえた。
ノアの勉強など無駄だと言われているようだった。
だけど、何も言い返せなかった。
「じゃあね」
リュカは颯爽とローブの裾を翻して去っていった。
その後から、メイドの少女が無言で入ってきて、朝食の準備を始める。
朝はヨーグルトと、バターがたっぷり溶けて染み込んだパンに蜂蜜がかかったもの、サラダと、ソーセージ、それからオレンジジュースだった。
少女は一通り準備すると、「失礼します」と静かに告げて退室した。
1人で食べる食事は少し寂しかったが、段々環境に慣れてきたおかげか味わって食べることができた。
食事が終わると、タイミングを測ったように少女が食器類を片付ける。
「では、また何かございましたらお呼びください」
定型文のように告げ、少女は去っていった。
しばらくやることがなくて、ノアはソファの上に積まれたままの絵本を一冊手に取った。
字の勉強ではなく、絵を眺めるぐらいなら良いだろうと思った。
卵形の吊り下げ式のソファに腰掛けると、卵の部分がゆらゆら揺れて心地よい。なにより、包まれるような形なのが落ち着く。
膝の上に乗せた絵本を、一枚ずつ丁寧にめくる。
慈悲深い神の絵と、少年少女が歌っている姿。
人々に崇められているのは、神様か少年少女か。
少年少女が、神の愛子を表しているのだと、ノアは文字が読めないながらも理解した。
少年少女の前で、醜い姿の魔物が崩れていったから。
鋭い牙も爪も、彼らには届かなかったから。
怪我をした生き物が、瞬く間に穏やかな顔つきになり元気になったから。
それらは、神の愛子の歌の力だ。
最後のページには、少年少女が神様と共に空へと上がる絵があった。
絵本を閉じたと同時に、部屋がノックされる。
「ノアさまー」
聞き覚えのある声に、ノアはソファから飛び出した。
「シュゼさん!」
飛びつくように扉を開けると、そこには予想通りシュゼが立っていた。
「こんにちは、ノア様」
「こんにちは」
シュゼの穏やかな微笑みに、飛び出してきたのが恥ずかしくなって、誤魔化すようにローブのシワを伸ばしてみる。
「今日は国王陛下への謁見の日なので、迎えにきました」
「シュゼさんが、一緒に来てくれるんですね」
「ハーデン様もいますよ」
「レイモンド様も?ぼく、お二人にお礼を言わないと、と思ってたんです」
「お礼ですか」
「はい。ここまで送ってもらったことと、沢山の服をいただいたお礼を。シュゼさん、ありがとうございます」
「あぁ!なるほど。ハーデン様も喜ばれますよ。ノア様、その祭服もよくお似合いですね」
「ありがとうございます」
似合っているかはわからないが、シュゼが褒めてくれるのは嬉しい。
お礼を言って、ノアは軽く頭を下げた。
「ノア様、そう簡単に頭を下げちゃダメですよ。あなたは尊い身なんですからね」
「それはまだよくわかんないですけど、わかりました」
実感としては分かっていないが、頷いておく。
「それから、ここまで連れてきたのも、それが仕事だから、って言うのがありますからね?だから、そんなに感謝する必要ないですよ」
それじゃあ行きましょうか、とシュゼがノアを誘う。
シュゼと共に外へ出ると、ここへ来た時と同じ馬車が停まっていた。
「ノアさん、こんにちは」
馬車の中から、レイモンドが降りて来る。
相変わらず感情の読めない綺麗な笑顔。
「こんにちは、レイモンド様」
「その服、よくお似合いですよ。ノアさん」
「ありがとうございます。あの、沢山の服と、ここまで送ってくださったこと、ありがとうございました」
「……服はともかく、ここへ連れてきたことに関しては感謝しなくて良いですよ。貴方は村を離れたくなかった。私は無理にここへ連れてきた。恨んでも良いぐらいですよ」
レイモンドの顔から笑顔が消える。
珍しく困ったような表情だ。
「確かに、本当は村を出たくなかったし、レイモンド様が迎えに来なければ良かったのに、とは思いますけど。でも、村を出ることを決めたのはぼくですから」
「貴方は歳の割にしっかりしてますね。わかりました。お礼を受け取っておきましょう」
レイモンドは大仰に頷いて、それからノアの手を取った。
「さ、国王陛下がお待ちですよ」
馬車に乗り込み、シュゼが御者台に乗る。
馬車がゆっくり進み出した。
林を抜けて、貴族街へと出る。
「ノアさん、寮では不便などありませんか?」
「あ、はい」
突然話しかけられてびっくりしながら、窓からレイモンドへと視線を移す。
「リュカさんとは、どうですか?」
「どう、とは?」
「彼は不器用なので。いじめられたりはしてないでしょうが、居心地の悪さはあるのではないですか?」
「いえ。良くしてもらってます。あ、この服も、朝リュカが着せてくれたんです」
「それはそれは」
レイモンドはびっくりしたように少し目を見開いて、それから目を細めた。
「仲良くできているようで何よりですね」
「はい」
「アシュレイさんはどうですか?元気にしていますか」
「アシュのことを知っているんですか?」
「もちろん。あの寮にいる人間のことは、把握してますよ」
「そうなんですね。アシュも元気そうですよ」
「それならよかった。あの子はノアさんと同じく、辺境の村から来た子です。ノアさんの気持ちをよく理解してくれるでしょう」
レイモンドはアシュレイを大事に思っているのだろう。
アシュレイのことを語るレイモンドの口調は優しい。
「……でも、アシュはぼくよりよっぽど優秀で」
アシュレイ自身が、貧しい村の出身だと言っていた。読み書きができないとも。
「どうしたんですか、ノアさん。何かありましたか?」
「あ、いえ、何かあったわけじゃないんです。ただ、アシュが字の勉強をするよう言って来るんですけど」
「ほう。良いことですね。教会学校に通う子供達はすでに読み書きを習得していますからね」
「ただ、その、アシュのおすすめしてくれる方法じゃぼくには難しくて」
「と、言いますと?」
「書き取りからするように教えてもらったんです。でも、音もわからないから、頭に入ってこなくて」
「それはそれは。おかしいですね。アシュレイさんには、私が読み書きを教えたんですよ」
「え?」
びっくりして、レイモンドを見つめると、彼は懐かしむように語りだす。
「彼がここへ来てすぐ、私は彼を保護した責任があったので、私の屋敷へ招いたんです。しばらく生活を共にしました。その際に、読み聞かせをして、字の勉強をしたんですよ」
「アシュは、書き取りからしたって言ってました……」
「そうですか……。何か、勘違いがあるのかもしれませんね」
うーん、と考え込むレイモンドをよそに、馬車は大きな城門を通過していた。
教会よりも遥かに大きな、城と呼ぶに差し支えのない建物が目の前に聳り立つ。
「ハーデン様、ノア様、着きましたよ」
馬車の外から声がして、シュゼが扉を開いた。
王城の前には身なりの良い紳士が1人。
レイモンドとノアの姿を認めて頭を下げた。
「お待ちしておりました、神の愛子様方」
紳士が先導し、王城の中を進んでいく。
すれ違うのは身なりの良い、貴族であろう人々だ。
彼らは、白いローブを纏うレイモンドとノアを見ると、すっと壁際に寄って道を開け、腰を屈めて頭を下げた。
不思議な光景だった。
「不思議ですか?」
「はい」
ぽかん、としているのが分かったのだろう。
脇に避けていく貴族たちを気にも留めず、レイモンドがマイペースに歩きながら聞いて来る。
「ぼくは平民なのに。神の愛子には、ぼくみたいな平民はいるんですよね?」
「はい、もちろんです。割合的には貴族に偏りますが」
「こうして頭を下げる貴族も、愛子の中に平民が混じっていることはわかってるんですよね?」
「ええ。彼らは分かってますよ。ただ、神の愛子である時点で平民とは違いますから。だから、慣れてください。貴方1人で王城に来ることもあるかもしれませんし。大丈夫、彼らは勝手に私たちに希望を見ています。中身に期待はしていません。特殊な歌を歌うことができれば、それが全てです。私たちは作法を知る必要はないですし、貴族を敬う必要はありません」
慣れるまでには時間が掛かりそうだった。
居心地が悪いのだ。
とくに、こういう場所に縁のなかったノアとしては。
王城の地面は石の床で、歩くたびにカツンカツンと音がする。
扉を潜り、回廊を抜けて、階段を登る。
段々と廊下に置かれる装飾品が増え、すれ違うのが貴族ではなく、見張りや見回りの兵士に変わる。
石の床ではなく、足が沈みそうな毛足の長い絨毯に変わったことに気づいた。
どこを歩いているのかなんてとっくにわからなくなっている。
歩き疲れたと感じた頃、ようやく先導する紳士が足を止めた。
重い扉をノックして、両サイドの兵士が観音開きの扉を開いた。
「レイモンド・ハーデン様をお連れしました、陛下。新しい神の愛子様をお連れです」
「ご苦労。新しい愛子様のお迎え、ご苦労であった、ハーデン殿」
玉座にはまだ若々しい王が座っていた。促されるまま、玉座の前まで歩みを進める。
レイモンドは跪くことも、頭を下げることもなかった。
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