無愛想で優しいひと
第6話 新しい生活
朝、目が覚めてノアは呆然とした。
今まで馬車の旅だったからだろう。
体は思った以上に疲れていて、熟睡どころか爆睡してしまっていたらしい。
ここがどこだか一瞬わからなくなり、少しパニックになった。
家とは違う、質のいい家具。手触りの良い布団。柔らかいベッド。
何もかもが、自分の知っている世界とは違う。
息を整えて、レイモンドに買い揃えてもらった寝巻きから、神の愛子が着るという祭服を取り出す。
服は、いつの間にかウォークインクローゼットの中に入っていて、昨日寝る前にリュカから、朝起きたら着替えるように、と言われたのだ。
着替えようと思ったが、どこのボタンがどのボタンとくっつき、どの順番で重ねれば良いのか分からず困惑する。
そおっと扉から顔を出すと、扉の前にはアシュレイが立っていた。
それも、とても心配そうに。
「おはよう、アシュ」
じっと見つめられ、タジタジになりながらとりあえず、と挨拶するとアシュレイは「おはようございます、ノア様」と言った後、ため息を吐いた。
「おはようございます、の時間は過ぎてしまいました。昨晩はお疲れでしたよね?」
どうやら、寝過ごしてしまったらしい。
「とりあえず、ノア様。お食事に……服、お困りですね?」
中途半端に肩にかけた布に気づいたらしい。
アシュが目を輝かせる。
「着方わかる?」
「もちろんです!お手伝いします!」
ノアに一度部屋へ戻るように促して、後ろからアシュレイも付いてくる。
ぴょこぴょことアシュレイは右から左へと動き、ノアに祭服を着せる。
仕上げに白いローブを着れば完成だ。
「わぁ。素敵ですね、ノア様」
布はどれも上質で、畑仕事や水仕事で荒れたノアの手に引っかかってしまう。
いつか破いてしまうのではないかと、布に触れるのさえ躊躇わせる。
「ありがとう、アシュ」
「どういたしまして!」
「あ。アシュ、リュカ様は……」
「リュカ様でしたら、教会学校へ行っていますよ。ノア様、リュカ様と貴方様は同じ立場なんですから、様付けする必要はないと思いますよ」
アシュレイが眉を寄せて説明する。
「いや、でも。呼び捨てはしづらいし、さんっていうのも違う気がするし」
リュカは気品があって、貴族然としている。
「その気持ちは、分からなくもないですけど」
うーん、とアシュレイは唸りながら、ノアが着ていた寝巻きを回収する。
「お寝巻きは洗濯は回しておきますね。食事を準備するので、リビングルームの方へどうぞ」
アシュレイはノアの他の洗い物も回収し、足早に去っていった。
ローブは丈も長くて扱いづらい。
時々躓きそうになりながら、ノアはのろのろとリビングルームへと出る。
正面扉から奥に奥行きのある窓。
真ん中には広めのテーブル。1人用の椅子が左右に一脚ずつ。
端っこには、卵の形をした吊り下げ式のソファがひとつと、長めのソファが一つ。ソファの目の前には小さなテーブル。
どれも落ち着いた色で統一されており、ごちゃごちゃした印象はない。
真ん中のテーブルの席につき、アシュレイが戻ってくるのを待つ。
アシュレイは銀色のトレーを抱えて戻ってきた。
細長いパンと、バター、トマトベースのスープ、ベーコン、サラダ。それから、羊肉。飲み物はミルクとフルーツジュース。
「どうぞゆっくり召し上がってください」
アシュレイがぺこっと頭を下げた。
「アシュは、もう食べたの?」
時計を見ればちょうど昼時だ。
いつからノアが出てくるのをノアの扉の前で待っていたのかは分からないが、昼ごはんはまだ食べていないだろう。
「いえ、まだですが……」
「じゃあ一緒に食べようよ。ぼく1人じゃ寂しい」
生まれた時から賑やかな食卓を囲んだことはないが、1人で食べることもなかった。
いつも母がいたし、旅に出てからはレイモンドやシュゼと一緒だった。
アシュレイは少し困った顔をして、それからうーんと唸って、「内緒ですからね?」と言って、自分の食事をとりにいった。
食事メニューはノアとは違い、スープとパンのみだった。
「それだけ?」
「はい。あ、ノア様の食事は朝昼兼用なので!ボクは昼だけなので、これだけですけど、小間使いへの待遇が悪いとかじゃないんですよ!」
あわあわと、アシュレイが言い訳のように言う。
「アシュ、ぼくはあんまり食べる方じゃないから、これ少し食べてくれない?」
アシュレイの皿へ、肉やサラダ、ベーコンを取り分ける。
「え、え、そんな。そんなことしちゃダメですよ、ノア様」
「残すより良いでしょう?」
「それは、そうなんですけど……」
いいのかなあ、と言っているアシュレイを置いて、ノアは先に食べ始める。
「ねぇ、アシュ」
ようやく観念したように食べ始めたアシュレイは、ノアに呼びかけられてお皿から顔を上げる。
「はい?」
「ぼくも、教会学校へ通うの?」
「はい。ひとまず、こちらでの生活が落ち着いてから、と聞いています」
「落ち着いてから、か」
それってどのぐらいなんだろうか。
「ひとまず、本日は特に予定がありませんが、明日はこの国、レーツェル王国の国王陛下との顔合わせがあります」
「え、王様?」
びっくりして、フォークとナイフで切り分けていた肉が皿の上を転がる。
「はい。神様の愛子は大事な存在なので」
「ぼく、礼儀も何も分からないんだけど」
見様見真似でしているこの話し方も、頭の下げ方も、足の運び方だって知らない。
頭の中で、村の幼馴染のアンナが悪い顔を浮かべている。
「失礼なことしたら罰されるかも!」と。
「大丈夫です、ノア様。神様の愛子に、王侯貴族の誰も礼儀なんかは求めていません。求められるのはその力だけ」
なんだか突き放すような言い方に感じられて、アシュレイを見る。
アシュレイは下を向いたまま、ギッギッ、と肉を切っていた。
「アシュ?」
「あ、いえ、なんでもありません。とにかく、余計な心配はしなくて大丈夫ですよ、ノア様」
顔をあげたアシュレイはにこにこと無邪気そうな、人懐っこい笑顔を浮かべていた。
「それにしても、このお肉、美味しいですね。分けてくださってありがとうございます」
と、上機嫌に頬張っていた。
食事が終わると、アシュレイは食器類を片付けた後、ノアの前に本を数冊置く。
「ノア様、教会学校へ通うことになる前に、文字を覚えましょう」
アシュレイが積んだのは、幼い子供が読むような絵本が数冊と、基礎的な文字の読み書きの教材だった。
ノアが一冊手に取り、パラパラとめくる。
絵本の中身はまるで絵画のようで、右横と左横にそれぞれ短い文が美しい装飾の施された文字で書かれていた。
絵の中央には、昨日教会で見た神の像が、跪いた少年少女に何かを語りかけている絵だった。
文字の読めないノアには、どんなシーンで何を語っているのかはさっぱり分からなかった。
「ノア様、まずはこっちからですよ」
アシュレイが、ノアの広げた絵本の上に文字の教材の本を広げた。
途端に、絵が見えなくなってしまう。
「まずはこのなぞり書きをしてください。ボクもそうやって、文字を覚えたんです」
「あ、うん。……アシュも、読み書きができなかったの?」
アシュレイの言葉に聞き返すと、彼は頷いた。
「はい。ボクもノア様と同じように、この王都から遠く離れた貧しい村で育ったので。ノア様とは違って、ボクの村はもうありませんけど」
アシュレイの顔は、悲しそうで、悔しそうで、憎々しげだった。
「ボクはやることがあるので、失礼します。何か用があったら呼んでくださいね」
アシュレイの表情が、パッと無邪気な笑顔に変わる。
そして頭を下げて、軽やかに退出していった。
ノアはアシュレイが残していった教材を捲り、ペンを手に取る。
読み書きの基礎の教材は、ひとページにつき一種類のみを練習できるようになっている。
音も、意味も分からないまま、ノアはゆっくりとなぞり書きを始めた。
集中して書いているうちに、手が痛くなってくる。
力仕事ならしたことがあったが、こう言った細かいことはしたことがなく、力加減がわからない。
それに、段々と字が字ではなくて、蛇がのたうったようにしか見えなくなってくる。
次のページも、次のページも、同じようなものがあるばかりだ。
段々日が暮れてきた。
突然、扉ががちゃりと音を立てて開いて、ノアはびっくりした。
「びっくりした。ノアか」
驚いたのは、リュカもそうだったらしい。
無表情に、僅かばかりの驚きが混じっている。
「何してるの?」
リュカは明かりをつけてから鞄をソファに置き、ローブを脱ぎながら近づいて来る。
ノアと同じ、神様の愛子を示す白のローブ。
ノアが着ると着せられてる感があるが、リュカにはよく似合っている。
「リュカ様。おかえりなさい。えっと、文字の練習を。ぼくは読み書きが出来ないので……」
まっすぐ冷たい金の目に見つめられると、何も後ろめたいことなどないはずなのに、落ち着かなくなる。
「だから、練習を?」
「はい」
リュカがノアの手元を覗き込む。
「ノアは、読むことはできるの?」
「え、いえ。村では必要なかったので……」
視線を落として答えると、リュカは眉を顰める。
「読みも分からないのに、書いてたっていうの?」
責められているようで、居心地が悪い。
「誰がこんな方法を?」
「えっと、アシュが。アシュも、同じように字を覚えたって言って、教えてくれました。この本も、持ってきてくれたんです」
「ふうん?」
リュカが、不機嫌そうに扉へ視線を投げる。
「アシュはそうして覚えたのかもしれないけど、あんまりお勧めしないね」
やれやれと、呆れた様子だ。
「それから、ノア。その下手くそな敬語、もうやめなよ。僕のことも、様付けで呼ぶ必要なんてない」
え、とあげた視線が、ノアを見つめていたリュカの視線と絡む。
「僕らは同じ神の愛子で、対等な存在だ。教えてもらわなかった?僕らが敬うのも頭を下げるのも神様だけ。王さえも、僕らを従えることなんてできない」
レイモンドに言われたことは覚えている。
「でも、リュカ様は貴族の子供ですよね。ぼくは平民ですし……」
「だから、平民だとか貴族だとか、そんなのは関係ないんだよ。ほら、呼び捨てにしてみて」
リュカの金の目が、ノアの目をじっと覗き込む。
「ほら。呼んでごらん」
微笑みの一つ浮かべず、無表情のまま。
一体何を考えているのだろう。
「りゅ、りゅか……?」
促されるまま、居心地の悪ささえ後押しして、ノアはとうとう呼び捨てにした。
「うん。それで良い」
リュカがそっと身を離す。
無表情ながら、どこか満足気だ。
「さて、ノア。先に食事にしよう。お腹が空いていたら、頭に入るものも入らない」
入り口近くの紐、ノアにはなんのために使うのかも分からない紐を、リュカは何度か引く。
「あぁ、まだ言ってなかったね。これは使用人を呼ぶベルだ。使用人の待機室につながっていて、まあ大抵はアシュがくる」
リュカの言う通り、一般もしないうちにアシュレイがひょっこりと姿を見せた。
「リュカ様!おかえりなさいませ」
「夕食の準備を」
「はい、かしこまりました」
ぺこーっと頭を下げて、アシュレイが去っていった。
「そうだ、ノア。アシュとはあんまり仲良くしないようにね」
「え?」
片付けてくる、と言って、その理由も何も告げないまま鞄とローブを抱えてリュカ用の部屋へと消えていった。
リュカが戻って来るのと、アシュレイが夕食をワゴンに載せて運んでくるのは同時で、先程の言葉が何を示していたのかは分からなかった。
机の上に載った絵本と教材を、リュカは何が気に入らないのかドサドサと重ねて、ソファの上にポンと置く。
どこか不機嫌そうに、リュカは席についた。
だが、アシュレイは気にした様子もなく手際良く食事の準備を進める。
リュカが不機嫌なのは珍しいことじゃないらしい。
そういえば、リリアンが昨日、リュカのことを無愛想で気難しいと評していたことを思い出す。
「何?」
先に淹れたての紅茶を飲んだリュカが、視線に気づいたようで顔を上げる。
不機嫌そうに眉を寄せている。
「あ、いえ、何でもありません……」
「また敬語になってるし」
ふぅ、とリュカがため息を吐く。
「アシュ、もう下がって良いよ。お風呂の準備だけしといて」
「はい、リュカ様」
アシュレイが退室すれば、ノアと2人きりだ。どことなく気まずいまま、パンに手を伸ばす。
「あ、そうだ、ノア。いつまでローブ着てるの?」
「え?」
伸ばした手を止めて、自分の姿を見下ろす。
朝から着たままの白いローブを、まだそのままにしていたことを思い出す。
「動きにくいでしょ。脱いだら?」
「そう、します……あ、いや、そうする」
一度立ち上がって、ノアは自分の部屋のクローゼットに白いローブを掛けた。
それからテーブルに戻ると、リュカは食事を食べずに待っていた。
「さ、食べよう」
リュカの食事作法は完璧だった。
作法のさの字も知らないようなノアですら、その優雅さにため息が出るほどだった。
食事が終わると、リュカはアシュに片付けをさせ、ノアに風呂に入るよう促した。
「あの。服の脱ぎ方が分からなくて」
ノアはもじもじしながら告げた。
「朝はどうやって着たの?」
「アシュに手伝ってもらって」
「そう。とりあえず、脱ぐのは手伝うよ」
「え。え。いや、いい、いいです!着るのより簡単そうだし」
「でも破ったらまずいでしょ?明日、国王陛下との謁見があるって聞いてるけど?」
う、と何も言えなくなる。
勢いに任せて持ったところがすでに、ぎゅ、だか、びっ、だか不吉な音を立て出したところだ。
ノアは渋々受け入れることにした。
相変わらず、リュカは無表情で不機嫌そうだが、どうやら面倒見がいいらしかった。
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