タワマンの影になる(後編)

 家を買うらしい。幸せな2人は順調に人生を歩んでいく。郊外に今度建つ、新しい町のシンボルになるという、大きくて綺麗なタワーマンションに。


 すごいね、と言えた。


 あたかも普通に、無味乾燥に、大人のように、当たり障りのない定型句を。


 間取りや立地や、一世一代の買い物の感想とか、周りのお喋りが軌道に乗ったところで、ようやく感情の蓋を直視する。


 カタカタと、今にも水圧で弾き飛びそうな脆い蓋。もはや存在意義さえわからないヘンテコな意地だけが、必死になってそれを押さえつけている。


 俺のことはいい。先に行け。情けない顔をした俺が言う。


 いや、かっこつける権利すらとうの昔になくなったんだよと、自分に慰めの言葉をかける。


 あの時ああしておけば、なんて後悔できる機会が人生にあったのかさえわからない。ただ、いい歳をしてフラフラと、進むべき道すら見出せずに管を巻いている自分が彼女の横に立てていたはずがなかった。


 あの場所は、必死に自分や、社会ってやつや、彼女と真剣に向き合ってきた名前も知らないMr.誰かだからこそ立てた場所で。


 狂おしいほど願って、諦めて、目を逸らして、それでも眼前に突きつけられて。泣く権利も怒る資格も「ちょっと待った」なんて言える全ても持ち合わせていないのに、感情だけは一丁前に揺さぶられる俺なんかじゃ到底ーーああでも、やっぱり泣く権利くらいは、くれてもいいじゃないか。


 その涙に何の意味があるかわからないけれど、遠い昔に置いてきた自分が泣きたがっているんだから、いいじゃないか。


 どこまで真剣だったのか、誰も知らない。手に入らないとわかってはじめて感情をあらわにするのは、おもちゃを取られた稚児みたいで無様だ。


 でも、誰も認めてくれなくても、心にどうしてかぽっかり穴が空いたのは確かで。そこに元々何があったのか、どうすれば埋められるのか、俺はまた無意味な場所で迷い続けている。


 指先の熱さに、意識が引き戻される。煙草はすっかり短くなって、弱々しい火が、じんわりとその身を焦がし、灰と化していく。


 火を消そうと思って、ふと立ち上がり、ベランダから乗り出した。


 道路の向こうでは絶賛工事が進んでいる。生き生きと働く人たちが、昔好きだった人の幸せを作っている。

 

 彼らに向かって、ほとんど灰になった吸い殻を投げ捨てた。

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タワマンの影になる 日笠しょう @higasa_akira

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