乾風とささくれ

nanana

乾風とささくれ


「痛っ」


 鋭く、か細く。細やかでありながら明確に、爆ぜるような短い痛みが指先に走る。堪らず、暖を取る為ポケットに収めていた掌を、冷えた晴空の下に晒す。


 右手の薬指。甘皮には毛羽立つようなささくれが。引っ掛け捲れた指先から、つう、と。傷んだ赤色の血液が伝っていた。

 元々その存在には気付いていたものの。特に何某かの対策を打ち出すでも無く過ごしていた故の、自業の自得。

 とは言え。唐突に襲い来る不快な痛みを、自身の責任と断じて納得するのも、些か釈然としないところ。一先ず、溜め息と併せて実体なき犯人に苦言を呈する事で溜飲を下げる事とする。

「くそ、乾燥め…」

 言語化すれば、やにわに虚しい。独りごちるも返る言葉は無く、立ち尽くす横を、晩春の風が冷ややかに吹き抜けるばかりであった。




「ねえ」

「うおっ」



 突如。背後から投げかけられた声に、不自然な程驚き、跳びのく。大袈裟極まる自身の挙動を目の当たりにしながら、特に言及するでもなく。声の主…八木詩葉やぎうたはは、ただただ不思議そうな表情を浮かべるばかりだった。

「なにしてるの?何にもないとこで」

 大きな目をぱちくりと。ローポニーの髪を空っ風に遊ばせながら小首を傾げて見せる。その様に、いきなり声を掛けられた事に対しての不平を口にしようとして、やめた。言われてみれば確かに。呆然と突っ立つ知人の姿があって、そこに向けて声を掛けた。彼女の行為には何一つ奇異な点はなく。気を抜くだけ抜いて、かかしのように立ち止まるばかりだった自分が悪い。

「あー…特に何も」

 バツが悪い心持ちの只中、曖昧な口振りで誤魔化す。まさか乾季に憤っていた、とは言えない。一聞でもう頭がやばい奴過ぎる。

「そお?」

 誤魔化せた、のか。それとも単にさして気にしていないだけなのか、一見して判断が難しい。とは言え考え込んで回答が得られる類の話でもあるまいし、問題無しと自身の中で定義してしまおう。


「あれ」

 我ながら滑稽な逡巡に耽っていたところ。ふと、八木の視線がこちらの指先を捉える。と、みるみるその表情が鈍く曇る。

「怪我したの?大丈夫?」

 瑣末な傷であるにも関わらず、心底から心配してくる。むしろこちらの方が申し訳ない気持ちになってしまい、慌てて言い繕う。

「ささくれ引っ掛けただけだ。特に怪我って訳じゃない」

 加えて。血液という、衛生的によろしくも無い代物を不躾に晒してしまった負目もあり、滴る赤ごと指を握り込み、腕ごと背後へ。


 隠そうとして。けれどその動作は、呆気なく阻止される。


 八木の手が、自身の手首を掴む。

 冷風の下冷え切った、こちらの体よりも余程冷たい掌が。握り込んだ拳を緩く解いた。

「怪我ではあるでしょ。うわぁ、痛そう」

 損傷した指先をまじまじ見つめ、八木の顔が僅かに引き攣る。見たくなければ見なければ良いのに、とは言い出せない。動作は、この身を案じての事なのだから。

「待ってね」

 ぱ、と。手を離すや、八木がリュックを体の正面に持ち替え、ガサゴソと内部を漁る。

「絆創膏、指先用じゃないけど良い?」

 言いながら。目当てのものを探り当てたらしい。取り出された絆創膏は、極めて一般的な仕様のものであった。意図は汲んで…この期に及んで変に遠慮する方がおかしな話にも感じられたもので。

「まぁ、うん」

偉そうな返答に終始した。我ながら碌な態度では無い。


 リュックを背に戻し。改めてその手が、こちらの手を取る。今度は手首では無く、掌の両端を柔らかく持ち上げる様に。


「できたっ」

 指先に絆創膏が貼られる。傷に対しての本体サイズの大きさがやや余り気味の為、所々に皺が寄った、存外不格好な仕上がりであった。もちろん、八木の所為ではない。

「上手い事いかなかった…ごめん」

 たはは、と。申し訳なさ気に乾いた笑いを浮かべるその様に、これ以上気を遣わせたくなくて。

「自分で持ってなかったから。助かった、ありがとう」

真っ直ぐに礼を告げる。それでようやっと、八木がにっこりと笑顔を浮かべた。



「ほんと今日乾燥すごいね。私も手、ぱっきぱき」

 ひらひらと両の手を振りながら、八木がげんなりした様子で共感の言葉を口にする。こちらも短く頷き、同意する。

 そう言えば、と。八木が別方向の問い掛けを投げかけて来る。

久世くぜがハンドクリームとかリップとか、使ってるとこ見た事ない。どこのやつ使ってるの?」

「持ってない」

「え、なんで」

 八木が怪訝そうにする。乾燥起因で実害を被ってる辺り、それはそうだろうと言う話なのだが。

「…そういうのを男が使うのは、なんか女々しいみたいな考えの頃が昔あって。今は特に何も思わないんだけど、当時の名残何だろうが、自分で買うってのはしないんだよ」

 自業の自得の、まさしく直接の原因が。まさかそんな理由だとは思わなかったのだろう、八木がポカンと呆けた後、ケラケラと笑う。

「すごい偏見。有識者から怒られるよ」

「ほっとけ。中学生男子のジェンダーバイアスは重目なんだよ」

 押し付けてる訳でもなし。似非フェミニストから攻撃されたら、ソイツの家ごと燃やしてやる所存だ。…やらないけど。

「そもそも世の中のハンドクリームなんか、どれもこれもいい匂いしたりするだろ。あれが良くない。自分の体から華やかな香りでもしようもんなら、具合悪くなって心根の方が先にささくれ立つわ」

「いや、無香料使えばいいじゃん。拗らせが凄い」

 ぐうの音も出ん。


 と。突如、八木の目が僅かに細く。精一杯の悪役面を模しながら、悪戯っぽい笑みを浮かべる。

 くるりとこちらに背を向けて、何をかごそごそと。何をしているかは勿論見えず、こちらとしては可愛げもない首を傾げる事しか出来ない。

 もう一度、くるり。

 踊る様にこちらへ向き直ると、自身の両の掌をこちらへ向けて来る。徒手空拳の様に思惑が読み取れず、眉を顰める。と、


「お手を拝借っ」


 ぱっ、と。左手を掴まれ、その全体をふわふわと撫でられる。

「な、なんだよ」

 慌てて、自身の手を引っ込める。だが、時すでに遅く。どうにも目的は達せられたらしく、満足気なにやけ顔を浮かべながら。

「嗅いでみて、手」

 手の甲を自身の鼻に充てがって、八木が促して来る。はたと気づけば、左手に油分の滑りがあった。

 恐る恐る、自らの掌を鼻腔に近付ける。

「良い香りでしょ」

 どやぁ、と。楽し気に言い放って来る。その表情に気圧されるでもなし、だが、確かに。柔いハーブの様な、優し気な香りだった。…問題は、その香りが手前の体から香っているという一点だが。


 と。つい、と。自身の鼻先に、手の甲が差し出される。半歩こちらとの間合いを詰めて、八木がにやりと笑みを浮かべる。

「お裾分け」

言葉の通り、確かに。八木の掌からは、今まさに自身の手を包んでいるものと同じ香りがしていた。


「…まぁ、乾燥対策にはなるよな」

 香りについての言及は避ける事とする。ご希望に応えた回答ではなかったらしく、八木が若干不服そうな表情を。とは言えそれも長くは続かず。とん、と。こちらの肩に、貧弱な体当たりをしてくる。


「いっしょに行こ」

 これこそは断る理由も無く。体裁としてはフラットに。肩を並べて、歩みを揃える。

 その只中。心の中で、実体なきモノへの非礼を平に謝罪する。代わりの一言は口には出さず。こちらも同じく、心中にて唱えるのみではあるが。いや、全く。



 中々やるな、乾燥め。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

乾風とささくれ nanana @nanahaluta

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ