第27話獄上のペディキュア
その一言は明らかに挑発だった。ベルフェゴールも頭ではそうだとわかった。
どうせお前のことだ、ここまで言われても赤くした顔を逸らすだけなんだろう?
のえるの目はそう言っている。
だが――それは言ってはいけないことであった。
恩知らず。その一言に魔王の顔色が変わったのにも――のえるは気がつかなかった。
「お、恩知らず……? 俺がか?」
「そう言われたくないならやれし。何も膝ついて足のさきっぽ舐めろって言ってるわけじゃないんだし? まぁどうしてもって言うなら勘弁してあげてもいいっつーか……」
「……よしわかった。そこまで魔族をコケにするなら……後悔するなよ」
「えっ?」
言うが早いか、ベルフェゴールがのえるの右足の踵を掴み、ぐいと持ち上げた。
途端にバランスを崩したのえるがうひゃっと悲鳴を上げた。
それから慌ててスカートを左手で押さえ、のえるは赤面しながら抗議した。
「ちょ、ちょっとベルベル! 掴むなら掴むって……!」
「やかましい。お前にできることはただ動かず大人しくしておることだけだ」
なんだか急に低さを増したベルフェゴールの声に、のえるが口を閉じた。
そう、辛く厳しい魔界の自然に生きてきた魔族は、基本的に約束というものを滅多にしない。
滅多にしない故に、一度した約束、契約は必ず守り、受けた借りは死んでも返さねばならないと考える。
つまり――魔族にとって最悪の侮辱は「恩知らず」と罵られることなのだ。
のえるがからかい半分に口にしたこの言葉は、意図せず魔王ベルフェゴールの魔族としての沽券とプライドに関わる一言だったのである。
それ故、ベルフェゴールは物凄く真剣な表情でペディキュアの小瓶を手に取った。
「……この小瓶の中の塗料を塗ればよいのか?」
「う、うん……」
「どうすればよい?」
「ふ……蓋の中にブラシがあるから。塗りムラがないように綺麗に……」
「わかった。くれぐれも動くのではないぞ」
そう言って、ベルフェゴールは丁寧に爪に塗料を塗り始めた。
こういうとき、他の気の利いた魔族なら気を紛らわせるための雑談もできるのだろうが、生憎ベルフェゴールはそんな男ではないし、この仕事を真剣にやらねばというブラック精神が悪い方向に作用した。
ベルフェゴールの白くて長い指が瓶の蓋を持ち上げ、のえるの爪にブラシを乗せただけで、のえるの身体が小さく硬直する。
それから、ベルフェゴールは黙々と作業に没頭した。
塗りムラがないよう、周りの皮膚にまで塗料がつかぬよう、繊細に丁寧に。
魔王という圧倒的な存在でありながら、ベルフェゴールの両手は実に緻密に作業をする。
思わず見惚れるほど真剣なその顔に、のえるの心臓が静かに心拍数を上昇させ始めたのにも――この魔王は気がつかないままだ。
「とりあえず右は終わったぞ。こんな感じでよいのか?」
「あ、う、うん……あ、もういいよベルベル。あとは自分でするから……!」
「何を言う、お前が言い始めたのであろう? 最後まで塗らせろ」
「だ、だって……! これ以上は……!」
「ほら、動くなと言ったはずだぞ」
のえるの左の足首を掴んだベルフェゴールに、のえるがうひゃっと悲鳴を上げた。
ふと――掴んだ足首の細さに少し驚いたベルフェゴールは、まるで愛でるかのようにのえるの足の甲を指で擦った。
すすす、と足の甲の上を動いた親指の感触に、びくっとのえるが震える。
「……ほう、今までガサツな女だとばかり思っていたが、なかなかどうして身体そのものは女らしく華奢に出来ておるらしいな」
その一言に、のえるの顔がぼわぁと赤くなった。
「んな、ななな……! 何よ突然……!?」
「肌もきめ細かく滑らか……余程丁寧に手入れしておると見えるな。更にこんな見えない部分まできちんと飾ろうとは意識が高いものだな」
「どういう褒め方よ!? つーか突然何!? なな、なんか今日のベルベル、変だよ……!?」
「変? 事実を述べておるだけなのだが」
「だからいつもそんな事実述べたりしないでしょ!?」
「口にはせんだけでいつもそう考えておる」
「うえぇ……!?」
「ほら、動くんでない。何度も言わせるな」
ベルフェゴールは有無を言わさず、左の足の爪に塗料を塗り始める。
ベルフェゴールの指が移動する度、手の位置を変える度、ひくひくとのえるのふくらはぎが痙攣するように動く。
黙々と作業に没頭していると――不意に、耳障りな呼吸音が聴こえ、ベルフェゴールは顔を上げた。
なんだか――のえるの顔が酷いことになっていた。
桜色を通り越して真っ赤になった顔で、まるで悲鳴を抑えるかのように両手を口に押し当てて震えており、ふーっ、ふーっ、という荒い呼吸がベルフェゴールの耳にも聞こえた。
黒くて長い睫毛に縁取られた目は何ゆえなのか潤んでおり、今にも泣き出しそうにすら見える。
「どうした? 熱でもあるのか?」
「うぐっ……! ふっ……! う……!」
「まぁ、さっきまではあんなに健康体だったのだからその可能性はないか。作業を続けるぞ」
無視して構わんと判断して作業に戻り、指に塗料を塗りながら、ベルフェゴールはふと、心に浮かんだことを何の気なしに口にした。
「しかし……こんな見えない部分まで着飾る必要があるのか?」
「へ?」
「お前は優しい。魔族の頂点である俺にすら分け隔てなく優しくしてくれる女ではないか」
ベルフェゴールは首を傾げながらボヤいた。
「お前という女はその優しさと愛嬌があるだけで十分素敵だというのに……これ以上着飾って誰に好かれようというのだ。少なくともこんなことをせずとも、俺はお前のことを好ましい人間だと思っておるのだがな。人間の女の考えておることはわからぬものだな……」
その一言に――のえるの羞恥心が限界を突破した。
思わず、傍らに転がっていたクッションでベルフェゴールの頭を叩き、そのまま力任せに押さえつけた。
ぶぇ!? と突然の挙動に悲鳴を上げるのも構わず、のえるは真っ赤な顔のままぐいぐいとクッションを押し付けた。
「んな――!? 何をしておる!? 小指がまだであろう!?」
「うるさいうるさい! なんでそういうハズいことポンポンポンポン口に出来んの!? 今日のベルベルの思考ってどうなってんだよ! ちょっと今ウチの顔見るなハズいから!」
「何をわけわからんことを言っておる!? ただの感想ではないか! それに小指にまだ塗料を塗っておらん! やらせろ早く! 執務が溜まっておるのだ!」
「だからこの状況でヤラせろだの溜まってるだの言うな! なんだか物凄く如何わしい感じなんだよ! いいからちょっとタンマタンマ! ウチの神経が持たないから……!」
「ちょ、あまりクッションを押し付けるな! ……うわわわ……!!」
「え――!? ちょ、ベルベ――!」
のえるがあまりにクッションを押し付けたせいで、足首を掴んだままのベルフェゴールが遂に仰向けに倒れた。
それと同時にのえるの細い体までベッドからずり落ち――畢竟、二人の身体は折り重なるようにして床に倒れ込んだ。
ゴツッ! という後頭部への重い衝撃に、視界に火花が散った。
痛みに呻き、ようよう目を開けると――のえるの顔が信じられないほど近くにあった。
「な――!?」
ベルフェゴールは慌てたが――のえるの目が自分の顔を見ていないことに、やがて気がついた。
鼻先が触れ合いそうなほど近くにあるのえるの目が、自分の首から肩口を、信じられないものを見るように凝視していた。
「ベルベル、これって――」
なんだ、何を驚いている?
ベルフェゴールが目を瞬くと、のえるの手が動き、自分の首筋におっかなびっくりという感じで触れる。
「これ、これって、火傷の痕? 酷い、凄く酷い傷……!」
火傷。そののえるの言葉に、ようやくベルフェゴールは事態を察した。
言われるまで自分でも忘れていた。自分の全身を醜く覆った、この古傷のことを。
「ああ、これか? これは子供の頃、人間どもに灼かれた傷だ。背中一面をな」
あっけらかんと答えると、のえるが息を呑んだ。
おや、あまりに簡単に答えすぎて驚かせてしまったようだ。
ベルフェゴールは安心させる一言を続けた。
「大丈夫だ、今は完治している。痛みもない」
「いっ、痛くないって――! だってこんな――!」
「何を慌てておる。平気だ、今はな。この魔王城におるものなら程度の差はあれ、どこかしらに人間に殺されかけたときの傷がある。俺など生命があるだけで儲けものだ。心配はない」
その言葉に、のえるの顔がますます変化してしまった。
おや、なんであろう、この哀れなものを見るような、酷く悲しそうな表情は。
ベルフェゴールがその悲しみの深さに少し驚いていた、その時。
「魔王陛下、ちょっと急ぎで確認していただきたい書類がありま……して、な――!?」
その青年の声に、のえるとベルフェゴールは同時に目線を上げた。
横になった視界に――折り重なって床に倒れ込んでいる自分たちを、凍りついたような表情で見下ろしているアヴォスの顔があった。
◆◆◆
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