折れた杖

黒中光

第1話

 高崎巡査は自転車を止めてスマホを確認した。サボっているわけではない。目的地があるのだが、初めて行く場所なので確認しているだけだ。むしろ、自転車であっても絶対に「ながら運転」はやらない模範的な巡査である。

 画面では目的地は目の前となっている。

「ここ、住んでるのか?」

 親切な対応で近隣住民の評判も高い高崎巡査が、こんな失礼な台詞を吐くのも無理からぬことであった。平屋の一軒家は、庭の雑草が威勢良く伸びて地面が見えないくらい。いつから落ちているのか、ウサギのぬいぐるみは、腹が割けて黄ばんだ綿がはみ出していた。薄汚れた壁についた窓には、古ぼけた蜘蛛の巣。知らない人間が見れば、十人が十人「ここは廃墟だ」と答えるレベル。

 ちょうど坂の上から買い物袋を下げたお婆ちゃんが降りてきたので、彼は自転車を押して近付く。

「すみません。宮岡さんの家はここで間違いないでしょうか」

 警察官が道を聞くのは、あまり格好がつかない、と高崎巡査は後悔したが、幸いお婆ちゃんは気にもせずに答えてくれた。

「ええ、そうよ。でも、どうして? あそこのお爺さん、ついに何かしたの?」

「何か、とは?」

 尋ねると、お婆ちゃんは大げさに周囲を確認した後で、高崎巡査に「ちょっと耳貸して」と、どこか興奮した声をあげた。

「あそこのお爺ちゃんね。乱暴な人だったのよ。昔っから、気に入らないことがあったらすぐ人に大声で食ってかかる人だったんだけど、足を悪くしてからは特に偏屈になって。

 近所の子供が騒いでいたら、石を投げつけたこともあったのよ。当たりはしなかったけど」

 とにかく騒げばどうにかなると、子供みたいに信じていたに違いない。そうお婆ちゃんは評したが、その行動が事実であるとすれば危険人物だ。いつまでも考えが子供であってはいけないのだ。

「ご家族も苦労されてたと思うわよ、なにせ……あら、帰ってこられたわ」

 お婆ちゃんが視線で示した先には、ランドセルを背負った少女と、その母親が畳んだ傘を手にこちらに向かって登ってくるところだった。よく似た、落ち着いた雰囲気の親子だ。

 しかし、近付いてくるにつれて母親の方に元気がないのが分かった。まだ三十代半ばにしか見えないのに、肌はくすんで表情にも生気が無い。

「失礼ですが、宮岡源治さんのご家族の方でしょうか」

「はい。私の義父ですけれど。義父が何かご迷惑をおかけしましたか」

 怯えた目でこちらを見上げる。無意識の行動だろうか、彼女が左腕を擦るような動きをしたので、袖が持ち上がって腕が少し見えた。

 丸い痣がついていた。杖で殴られたのだと、高崎巡査にはすぐに分かった。宮岡源治の仕業だ。見ず知らずの人間に暴力を振るような人間だ。同じ家で生活してきて、その被害から逃れられたとは思えない。先ほどのお婆ちゃんが匂わせたのは、このことだったのだろう。

 もっと早く知ることができれば、警察も力になれただろうに。そんな悔しい思いを噛みしめながら、高崎巡査は用件を話した。

「先ほど、宮岡源治さんが亡くなられました」

 母娘が互いの顔を見合わせる。突然のことに頭がついていかない様子ではあるが、できるだけ噛み砕いて説明する。

 この家の前にある坂道を下っていくと、歩道橋の架かった大通りがある。通行人の話によると、杖をついて歩いていた宮岡源治は、急にバランスを崩して階段を転げ落ちたそうだ。すぐに救急車が呼ばれたが、落下の際に頭を強く打ったらしく、病院に着く前に息を引き取った。

「警察としましては、事故と言うことで手続きをさせていただきます。事件性はありませんので、解剖などもありません。病院の方から遺体の引き取り手続きをお願いします」

 動揺する母親に、これからの注意事項を述べる。これが高崎巡査の仕事だった。本来電話で済ませることも多いのだが、現場と住所が近いため、直接足を運んだ。警察は仕事柄遺体を見慣れているが、一般の人々にとっては大事だ。そう言うときには、できるだけ寄り添いたいというのが、高崎巡査のポリシーであった。

 連絡事項を全て伝えた後、高崎巡査は一つだけ質問をした。

「実は、現場で気になったことがありまして。源治さんが持っていた、竹の杖なのですが」

「珍しいですよね。義父が自分で作ったもので気に入っていたんです」

「実は先が折れていたんです。ぐにゃりと」

 通行人が言っていた「バランスを崩した」瞬間が、おそらく杖が折れた事による物だと思われる。事故の原因だ。

「その折れた部分がですね。べっとり接着剤がついていて……」

「――舞がやったんだよ」

 突然女の子が、声を張り上げた。

「お爺ちゃんの杖の先がささくれていたから、舞が接着剤でくっつけたんだ」

 場違いなほどに明るく誇らしげな顔に、高崎巡査は背中に冷たい物が走るのを感じた。

 一見無垢な態度に見える。純真で何も考えていない子供にしか見えない。

 だが、本当にそうだろうか。ランドセルを背負っているならば、小学生だ。それだけの年齢になって、自分のしたことで祖父が死んだことに気付かないなんて。そんなことがあり得るだろうか。

「君は、まさか――」

「お母さん。早く帰ろう。これから大変なんでしょう?」

「そうね。すみません、そろそろ」

「……分かりました」

 へりくだった態度の母親とは対照的に、上機嫌でランドセルについたウサギのぬいぐるみを弄ぶ少女。その対比が強烈な違和感になって、高崎巡査の頭にこびりついた。

 宮岡家に背を向けながら、坂を下りる。

 目の前には、事故現場となった歩道橋。その先には、源治が向かったと思われる和菓子屋がある。菓子屋の前は道が狭くなっており、そのくせ車の通りが多く、今も自転車がぶつかりそうになっている。

 改めて見渡してみると、随分と危険な道だと高崎巡査は感じた。

 坂道や歩道橋で転倒すれば、老人ならば大怪我に繋がる。車の往来が激しい道でならば、そのまま轢かれかねない。

 足が水たまりに踏み込み、飛沫が制服の裾を濡らす。

 杖に使われていた接着剤にわざと水溶性の物を使われていたとしたら。今日のように雨が降った日には、強度が弱まっていく。いつ折れるかは分からない。細工から一日か、一週間か、あるいは一ヶ月か。だが、それでもいつかは確実に折れる。

 折れた結果、怪我をするかも分からない。あまりにも、行き当たりばったりの手口だ。

 それでも、あの子はやったのではないか。

 庭に転がっていた、引き裂かれたウサギの人形。舞という少女のランドセルにあった物と同じだ。

 母親は殴られ、自分にも手を上げる祖父。あの子は、そんな恐ろしい存在を排除したのではないか。証拠はないが、どうしても彼女の笑顔が不気味に脳裏から離れなかった。

 彼女の犯罪は正義だろうか。高崎巡査は自問する。

 身を守ろうとしたその行動に、同情する人間は多いだろう。宮岡源治は明白な悪だ。

 けれど、だからといって、自分一人の判断で人を殺して良いことにはならない。そもそも、それ以外に逃れる方法なんていくらでもあっただろう。学校に相談しても良い、交番に駆け込んだって良い。暴力的に排除することは、赦してはならない。法律がどうこう、じゃない。人間としての在り方の問題だ。

 交番に戻った高崎巡査は、巡回ルートの追加を提案した。それは、宮岡家の前を通るルートだった。

 もしも、宮岡舞が本当に祖父を殺したとしたら。味を占めかねない。自分の「正義」を理由に、人を殺して罰を受けないと学んでしまっている可能性もある。そうなっていた時、新たな犯行が起こるのを阻止するためだ。

 これが今の彼にできる精一杯。それでも、何かをせずにはいられなかった。

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