唇の中の男

石田くん

第1話 唇の中の男

 車の後部座席で横になって、買い物に行った母親が返ってくるのを待っている間、高校三年生の俺はこれからのことについて考えていた。

 あと一か月後に大学の哲学科に入学する俺は、ここ三日、第二外国語の選択に悩んでいた。哲学をやるのであればドイツ語かフランス語が定番なので、その二つまでは容易に絞れたが、その二つのどちらかしか選べないとなると非常に悩ましい。

 俺の通う大学の哲学科では、二年になる時に専攻を選ばなければならない。定番は、ドイツ哲学、フランス哲学、英米哲学の三つだ。俺も多分に漏れずそのいずれかを選択しようと思っているが、もしドイツ哲学専攻に進みたくなった場合に、一年次に学んでいた第二外国語がフランス語であれば、ハードルが高くなってしまう。なので専攻するであろう分野と一致する第二外国語を選びたいところだが、考えれば考えるほど自分はどの分野、もっと第二外国語に関連付けて言うと、ドイツ哲学とフランス哲学のどちらの分野、に興味があるのかわからないのだ。

 そしてこのことを考えていると、ドイツ哲学とフランス哲学のどちらに興味があるかを決められるほどの具体性をもった意欲と、どの国でどの哲学者が育ったかも知らないような知識のない状態で、ただ興味のままに哲学科を選んでしまった自分の、未来への怠惰な向き合い方がただ明らかになってくるのだった。


 今日の夜の十二時までに、どちらの言語をやるか決めなければならない。今は少しだけ、フランス語に傾いている。何かをリサーチしたわけでもないが、高校の授業で学んだサルトルが、少し気になっているからだ。今は夕方の四時だ。今から高校の先生にメールしても夜までにはかえってこないだろうし、かといって自分で何か調べる気力も起きない。何度見たかわからない、第二外国語についてのアンケートの画面を表示したスマートフォンをまた見て、意を決して、第一希望選択画面で「フランス語」を押した。第二希望では「ドイツ語」を押して、第三希望では「ロシア語」を押した。哲学とはあまり関係なく、ロシア文学が少し面白そうだったから、と言う理由でなんとなく選んだ。それでアンケートは終わりかと思っていたが、とんでもない画面が出てきた。「a.第一希望の言語の履修を強く希望する」「b.第一希望と第二希望のどちらでもいい」「c.三つの内どれでも構わない」のいずれかを選ぶ必要があった。一瞬戸惑ったが、ふっと、すぐにaを押して、回答は終了した。内容の修正も今日の夜までならできますよ、と書かれていたが、恐らくしないだろう。一度決めたのだ。と、覚悟を決めた風に考えていたが、それは今以上に自分の未来を見つめ続ける度胸のなさの表れに過ぎないかもしれなかった。

 回答し終わると、清々しさにも似た、肩の荷が下りた感じがした。いつの間にか体を起こしていた俺は、口を少し開けて息を吸って、大きく息を吐いて肩を落とした。そして上下の唇が再度くっついた瞬間、その唇の乾いた感じが気になった。花粉症の季節は、よく唇が乾く気がする。個人的な体質なのだろうか。堅くなった唇の皮は少し隙間を開けて何か所もめくれていて、舌で触れるとささくれに触れているような感触がした。

 後部座席から少し身を乗り出して、車のサイドミラーで唇の見た目を確かめようと思ったが、サイドミラーに自分の顔を写せなかったので、ルームミラーを覗き込んだ。あまりきれいに映るわけではないその鏡でも、やはり唇がめくれているのはわかる。鏡を見たまま、指で触って感触を確かめてみたり、舌で舐めたりしていると、その鏡の中の自分の唇のささくれが、いきなり、少し広がった。そしてその奥に、黒い、暗い、空間が見えて、その空間の枠に、人の両手がかかった。その両手は少しその枠を押し広げるようにしながら、何とかそこから出ようとしていた。その人間の頭が出てきた。その人間は俺にそっくりだった。頭の次は、肩がひっかかっているが、それも少しするとその空間から出てきた。そこまでいってしまった後はもうするするとその空間を抜け出した。俺はその様子を、鏡越しにずうっと見ていた。そいつは、その空間から完全に出た瞬間、運転席と助手席にわたってどさりとその体を投げ出した。というより、投げ出されたように見えた。その男は「いってェー!」と言いながら、体を起こして、後部座席に入ってきて、俺の隣の、空いている席、後部座席の右側、に座った。

 俺はそいつが出てきた後も、呆然として鏡を見つめていたが、急に我を取り戻して、後部座席の左側に座りなおした。

 少しして、買い物に行っていた母親が帰ってきた。母親は俺の隣の男、俺にそっくりな男、を見ても何も動揺する様子なく、それが当然であると思っているかのように見えた。というか、そうとしか見えなかった。かといって、不思議なことに、俺が何かこの状況を特段変だと思っているわけでもなかった。もうこの瞬間には、この男、俺の唇の中から出てきたこの男を、まるで何年も共に過ごした兄弟であるかのように受け入れ始めていたのだ。母親は、後部座席の右側から持って行った買い物かごを助手席に乗せて、車のエンジンをかけた。


 その後、俺は予定通り大学に入学して、一人暮らしを始めた。俺にそっくりな男は、別段何も言わずに、俺についてきた。なので、一人暮らしではないのかもしれない。その男は大体俺と一緒に行動していた。四月の半ばになって、授業が始まった。授業が始まった日は、大学に行くまでは一緒にいたのだが、フランス語の授業の時だけ、そいつは気付いたらどこかに姿を消していた。フランス語の授業が終わって、空き時間に昼ご飯を食べ、次の授業の行われる教室につくと、そいつは右の前側の席に座っていた。俺はなんとなく、その隣に座った。別に挨拶を交わすわけでもなかった。今思い返せば、俺はその男と一度も喋っていないかもしれない。しかし別にそれが不思議だとも思わなかった。


 そんな生活が続いた。食事は各々でつくって、別々で食べた。そいつは俺の家の冷蔵庫から食材を取って料理しているようにしか見えなかったが、食費はなぜか一人分しかかかっていなかった。俺は、別にそれをその俺にそっくりな男に聞きとがめるわけでもなかった。

 七月のはじめのある日、最後の授業がフランス語だったある日、俺は大学から家に着くまで一人だった。いつもは、その男と帰路の途中で会って、ほぼ同じタイミングで家に着いていたのでそれは初めての事だった。俺がぼんやりテレビを見ていると、その男が、同年代くらいの女の子を家に連れてきた。その男と、女の子は少し談笑して、夏なのに鍋を食べて、二人が家にきて三時間ぐらいが経った頃、キスをして、二人は家から出ていった。俺は二人が出ていったあと、夕飯を作って食べた。それから少しすると、男が一人で帰ってきた。


 そんなことが、それからも何度かあった。冬になると、二人はベッドの中で、辞書を片手にカントの本を読み始めた。俺は別にそれを見て何を思うでもなく、その二人と同じベッドに入って寝た。ベッドが軋むので、夜中に何度か目を覚ました。


 年明けの最初の授業で、アメリカの哲学の概要を聞いた。何となく興味が惹かれて、授業が終わった後に教授に話を聞きに行った。入学して以来知らなかったが、もう何度も授業を受け持っていたその教授はアメリカ哲学が専門だったらしく、とても嬉しそうに話をしてくれた。しっかり話すのは初めてだったが、やけに波長が合った。放課後に教授の研究室まで行って、一冊本を借りた。


 帰り道を歩きながら、すぐそこまで迫っている専攻分野の選択について考えた。いっそのことアメリカ哲学を専攻してもいいな、と思った。

そんなことを考えていると、いつものように俺に似た、俺から出てきた男と合流した。その男の背負う黒いリュックサックが、いつもより少し膨れていたような気がした。当然一言も交わさずに、家まで着いた。


 玄関を開けて、家に入って、洗面台と向かい合った。手を洗って、うがいをして、一瞬鏡を見た。乾燥した冬の空気によって、一か所むけかけている唇が気になった。

 その瞬間、いつの間にか横にいた、俺によく似た男が、唇の皮のむけた場所に向かって手を伸ばして、片方の手でむけた皮を、もう片方の手で唇をつかんだ。俺はそれを呆気にとられたまま、何もせず見ていた。唇をつかんだ男は、つかんだまま両手をかき分けるように広げて、そこに大きな、黒い、暗い空間を産んだ。そしてそこに頭を突っ込んで、肩を通して、俺の唇にずるずると入っていった。他人を見るような、しかし自分を見るような心持もしながら、俺はそれをまたしてもただ見ていた。

その男が唇に入り終わると、気のせいかもしれないが暗闇の中から少しこちらを見て、その空間はふっと閉じた。


 俺は上着を脱ぎながら、教授に借りた本を読むためダイニングに向かった。





 

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