【KAC20244】ささくれ、じくじく、ジクジクと
尾岡れき@猫部
妻がいなくなった家は、なんだかやけに広く感じる。
「痛っ」
そりゃ痛いはずだ。ササクレを無理やり、剥がそうとしたんだから。ほんの少しだけ、血が滲んで。それから、ジクジク指先に痛みを残す。
一歳になったばかりの恵夢が、俺を心配そうに見上げていた。
心配させまいと、なんとか微笑んでみせる。
妻がいなくなった家は、なんだかやけに広く感じる。
ササクレができる原因は、乾燥によるものだという。
(そういえば……)
この季節、よくアイツは手荒れをしていたことを思い出す。
――放っておくとね、ササクレになっちゃうから。ちゃんと、スキンケアしないとね。
彼女はそう笑う。
痛かったんだろうな、と漫然と思う。それなのに、鮮やかな手つきで、家事をこなしていく。
もっと早く、気遣ってあげられたら。そう思ってしまう。
(痛かったよな……)
ジクジク、指先の痛みを感じながら。
自嘲気味な笑みが、俺の唇の端から、漏れていく。
恵夢が心配そうに、俺のことを見上げている。
――ママ、ママのところにいく! 恵夢、ママのところに行くもんっ!
二歳の子の大絶叫。
ママがいないという現実――二歳の子にはこんなにも重い。
そんな彼女が、今や必死に泣くのを耐えるように、俺を見ている。
「……恵夢?」
「な、泣きゃないよ。良い子にしていたら、ママ、帰って――」
言葉がたどたどしい。
そっと手をのばして、恵夢の髪を撫でた。
いくら恵夢が「良い子」にしてもママは帰ってきてくれない。
でも、そんな現実を言葉にしても、娘を悲しみのどん底に突き落とすだけ。じゃあ、どんな言葉を娘にかけたら良いのか。皆目、俺は検討がつかない。
(どうしよう――?)
どうしたら良い?
思考を放棄している場合じゃない。
(動かなくちゃ)
夕飯を作って。
食べさせて。
恵夢をお風呂に入れる。それから、寝かせつけて。洗い物、洗濯はその後だ。指先がじくじく痛い。でも、構ってなんかいられない。時間は有限で。ワンオペでこなさないといけない。
世の主婦は――そして君も、ずっとワンオペでこなしていたるんだ。本当に頭が下がる。欠伸を噛み殺しながら、ズブズブの思考を維持する。ジクジクした指先が、今はかえって好都合だ。おかげで、なんとか意識を保っていられる。
と――恵夢に、俺は髪を撫でられた。
「え、恵夢……?」
「パパがさびしちょう」
辿々しい言葉で。そう囁かれた。
「へ?」
目をぱちくりさせた。
「恵夢ね、ママの代わりな、がんばりゅって。そう……やくそく、したから」
昨日の大泣きがウソのようで。
親の背中を見て、子は育つ。
あれはウソだって思う。
少なくとも、俺は完璧な親じゃないから。こうやって、恵夢に「父親」っていうものを、こういうタイミングで教えられている。そんな感覚に囚われて――もう、無意識に恵夢を抱きしめた。
「パパ?」
そう言いながらクスクス、恵夢が笑う。
そんな弾けるような笑顔に救われる。
(がんばろう……)
そう心の中で呟く。
恵夢の小さな体を抱きしめていると。
いつの間にか、ササクレの痛みはどこかに消えてしまっていた。
■■■
「あぁ、啓ちゃん! ササクレ、無理やり引っ張ったんでしょ? 化膿しているじゃない!」
病室内に、そんな亜衣の言葉が響く。
「いや、こんなの。本当に、たいしたことないし――」
「血がたくさん出て、痛そうだったのよ」
「恵夢、報告ありがとうね」
「恵夢、それは内緒って――」
「パパの『ナイショ』とママの『オシエテ』をくらべたら、ママの『オシエテ』が勝ちました!」
えっへんと胸を張る、恵夢。ウチの夫婦の力関係を公言された気分だ。まぁ、間違ってないけれど。
――仲良しよね。
――うちの旦那も、これぐらい面会に来る甲斐性、欲しいわ。
――尻に敷くぐらいが丁度良いのよね。
この病棟は産婦人科。出産を控えた妊婦さんばかり。メンツは入れ替わるが、言ってみれば毎日が女子会。そのパワーに、俺もタジタジだった。他のパパさん達の心中たるや、共感しかない。
そして聞こえているよ、皆さんの呟き。しっかり、聞こえているからね!
そんな
「……相変わらず、なんでも持ってるよね」
「なんでもは持ってないよ。有るだけだからね? ほら、私って手荒れしやすいからさ」
はにかんで。そう言いながら、俺の手を取る。その指先に――ちゅっと、と。
小さな唇が触れて――それから、パクリと咥えられてしまった。
へ……?
「ちょ、ちょ、ちょ!?なに、にゃに、にゃにを?」
「あぁ! ママのずるーっ。パパにちゅーしてる!」
「恵夢、ちょっと君は黙って!」
「ちょっと咥えただけじゃん。啓ちゃんったら、恥ずかしがり屋さんなんだから」
「恥ずかしい以前の問題! 亜衣はして良いこととダメなことぐらい分かるでしょ? こういう所で、咥えたらダメ! 恵夢の教育を考えたら――」
――なぬ? ナニを咥えただって?
――教育を考えたら?
――いけないことしちゃったの?
違う!
カーテンの向こう側で、明らかに誤解を招いている気がしてならない。
そうは言っても、亜依が妊娠高血圧症候群になって、ずっとヒヤヒヤしていたから。思いのほか元気そうで、ほっと胸を撫で下ろす。
今回の入院は、料理音痴な俺が作った、濃すぎる味噌汁が原因だった。
『啓ちゃんが作ってくれた味噌汁なら、
そう言って亜衣は飲み干してくれた。でも、それがいけなかったんだ。
反省した俺は、レシピ通りに作るように心がけることにした。やはり何事も基本が大事と思い知る。
今や恵夢からも太鼓判をもらう出来栄え。ブラッシュアップされた味噌汁が飲めないと、今もご立腹な亜依はさておいて――。
「パパは恥ずかしがり屋さんだね?」
胎教にワルそうな呟き、止めて。
「……ママの暴走、お前が止めてくれよ」
まだ見ぬ第二子に、すがりつくパパを許しておくれ。
「あ、お腹の中で動いたよー? 啓ちゃんも触ってみて」
「……本当だ――」
俺の手、亜衣の手、恵夢の手が重なる。
もう少しで、一度退院。けれども、出産予定日まであと2週間。気が抜けないと思ってしまう。一番、体を張っているのは亜衣なのに、未だに俺は何も――。
亜衣の唇が、俺の唇に触れる。
恵夢が、お腹の胎児の反応を探ろうと耳を当てている、その瞬間に。
目をパチクリさせて、俺は亜衣を見る。
「啓ちゃんが居てくれるから、私は頑張れるんだからね?」
「うん……?」
亜衣を見る。俺の陳腐な感情なんてお見通しと言わんばかりに、亜衣は笑む。
母は、どうしてこんなに逞しいのか。前向きな彼女が、本当に逞しいと思ってしまう。一方の俺は、いまだ理想の父親になれなくて――。
「啓ちゃんが、恵夢のことを守ってくれるから、私はお腹の子に全力で向き合えるんだからね」
お腹を撫でながら、呟く。
「早く、出ておいで。パパ、最高に格好良いんだから」
「ね!」
恵夢まで、亜衣に合わせてそんなことを言うものだから、照れくさくて――湧き上がる感情が溢れそうになって。
視線を逸らそうと、お腹をさすれば――トクンと跳ねる、そんな反応を感じた。
指先の、パンダ印の保護テープを見やりながら。
もう一度、撫でる。
ささくれの痛みも、仕事や家事の疲れも。それも、どうでも良いと思えるくらいに、俺は満たされていた。
最高に素敵なママと、可愛いお姉ちゃんもが、君のこと待っている。
だから……産まれたら、ね。
みんなで、一緒に遊ぼう?
君が愛おしくてさ。
今から、もう待ちきれないから――。
「やっぱり、啓ちゃんが格好良すぎるっ!」
「パパ、大好きっ」
なぜか病室のベッドで、妊婦と――2歳の娘に、押し倒される俺だった。
【KAC20244】ささくれ、じくじく、ジクジクと 尾岡れき@猫部 @okazakireo
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