第22話 終章
「万琴」
懐かしい声に呼ばれて目を開けた。編み笠を被り、錫杖を手にしたクロウが立っていた。
「クロウ!」
跳ね起きると、駆け寄った勢いのまま抱きついた。
「クロウ! 大好き!」
次々と思いが溢れ、言葉にならないまま涙になって零れた。心が子供に戻ったみたいに透き通ってゆく。伝えきれないほど大きな感謝を、クロウの身体に回した腕に込めた。
クロウが私の背を優しく擦る。
「私も万琴が大好きですよ」
墨染めの衣に顔を埋め、懐かしい香の薫りを吸い込んだ。
「行っちゃうの?」
顔を上げると、深く澄んだ目に私の顔がくっきりと映りこんでいた。
「万琴、ありがとう」
ようやく雨の止んだ空には、鮮やかな虹がかかっている。川面に立ったさざ波が、砂金を振りまいたように輝いている。
クロウはこれから長い旅に出る。終わりない、一瞬と一瞬が永遠に存在する世界へ。
「きっと、また会えるよね!」
大きく、手を振った。
編笠の縁に指先で触れると、クロウは胸に沁みるような笑みを浮かべ、消えた。
※
深く垂れた頭を上げると、本殿の奥から清涼な風が吹き抜けた。紙垂がさらさらと波打つ。ご神体の鏡が朝日を跳ね返し、まばゆい光が私の目をまともに射抜いた。
「あれ、おまえ、もしかして泣いてる?」
そこからは遥か遠くの山々までよく見渡せた。影が濃い。
「泣いてない! ちょっと眩しかっただけ」
あれから半月の間に、季節はすっかり夏になった。残っていた霊を祓い終え、夏休みに入った今、千姫の去った旧校舎の解体工事がようやく始まっていた。
「今日も暑くなりそうだね」
翳した指の隙間から差し込む光に目を細める。宇宙が透けて見えるような、紺碧の空が広がっていた。
「まあな」と気のない返事をして、確は先に階段を下りてゆく。もう一度本殿に向かって一礼し、その後を追った。
「……なんか、あっという間だったな」
振り向きもせず、確が呟く。
「私がいなくなるのが、そんなに寂しい?」
「んなこと、一言も言ってねーし」
「またまたー、素直じゃないんだから」
無防備なつむじが、なぜか無性に愛おしく見える。
「やめろって」
髪をかき混ぜる私の手を、煩そうに払いのけた。しつこく伸ばした手を躱して、最後の数段を飛び降りる。両手をハーフパンツのポケットに突っ込んで、私が階段を下りきるのを待っている。すでに熱を帯び始めた砂利を踏み、並んで歩いた。
「ね、確」
「ん?」
「進路のことだけど。確は頭でごちゃごちゃ考えすぎなんだよ」
咲希ちゃんだって、確の未来が希望に満ち溢れていることを願っている。
「心の赴くままに進めば、そこが確にとって最善の場所になる」
目の前の胸に、掌底を打ち込んだ。
「ここに神はいるって、クロウがよく言ってた」
「いてーよ」と言って、確が私の頭に拳骨を載せる。
「おまえはいいよな。なんも考えてなくて」
目を逸らし、口の端を片方だけ上げて笑う。
「追試にも本番と同じ問題が出ると思い込んでるような、お気楽人間だからな」
「また! 人の心の傷を抉って!」
湊は順調に回復している。病院に見舞うと、朱緒が付きっきりで世話を焼いていた。少しふっくらした頬には、穏やかな笑みが戻っていた。
確が真剣な顔で何か言ったが、蝉時雨がそれをかき消した。首を傾げると、声のトーンを上げる。
「……奏那。いい名前だな」
「神道のこと、神ながらの道っていうでしょ。そこから取って付けてくれたんだ」
「へえ」と呟き、暫く間をおいて言った。
「後悔、してないか」
問いのようでもあったし、断定のようにも聞こえた。
「言ったでしょ。クロウのためなら、私はなんだってしたいって」
私は巽の家から籍を抜き、お師匠さんと養子縁組をした。同時に改名し、正式に白川万琴になった。本当なら最低でも一カ月はかかる手続きが、お師匠さんの謎のコネクションのお陰で、たった三日で済んだ。
「へいへい、そうでした」
この世でのたった一つの持ち物である名前を、私は捨てた。クロウの無私の愛には及びもつかないけれど。形のあるものを、クロウに渡せたようで嬉しい。
「ま、名前が何だろうと、私は私。将大と兄妹になるという、面白くもないおまけもついてきたしね」
確がふっと笑う。
「違いない。どう転んでも、おまえはおまえだ」
確とはこれで最後の気がしない。
「なんか、馬鹿にしてない?」
「被害妄想だよ、バーカ」
お互いそう思っているから、私たちはこんな感じで丁度いい。
「万琴、タクシーが来たぞ」
神主が呼ぶ声がする。
「じゃあ、元気でね」
「おまえもな」
確の背中から顔をのぞかせた咲希ちゃんに笑って手を振り、二人に背を向けた。
「いつでも遊びに来なさい」
目を潤ませて微笑む神主と握手して別れ、参道の石段を駆け下りる。
「すいません、少し待っててください」
タクシーの運転手に謝ってから、鳥居のたもとに引き返した。紫陽花の時期は終わり、神主の手で剪定が済んでいた。今は代わりに、木槿の白い花が涼し気に満開を迎えている。
「オンマリシエイソワカ」
真言に応えて、白刃が姿を現す。
「息子さんが、待ってます」
静かに刀を振るうと、その人はゆっくりと瞼を持ち上げた。空を見上げ、被っていた手拭いを取った。導かれるように足を踏み出し、鳥居の前で頭を下げた。そして一段、また一段と、木漏れ日の揺れる石段を、踏みしめるように上ってゆく。
その背が透き通って消えるのを見届けると、私は足取りも軽く、待たせたタクシー目指して駆け出した。
ギフテッド 呼杜音和 @KY7089
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