第21話 呪詛の御社
だが実際に行動に移せたのはそれから四日後のことだった。降ったり止んだりを繰り返していた雨が週末にかけて本降りになったのと、二三片付けなければならない用事があったためだ。もうこれ以上は待てない。そう言うと、確と神主は静かに頷いた。
私の貴重な最後の肉を焼き、ステーキランチで腹ごしらえをして、確とバイクに跨った。
神主も一緒に行こうと言ったが、それは丁重に断った。私と確が失敗した場合、村を守るために、神主だけでも生き残る必要があった。
蒸し暑い日だった。Tシャツの上に着こんだウインドブレーカーが、汗ばんだ肌に張り付く。雨は辛うじて小康状態を保っていた。だが重くたわんだ雲からは、いつ本気の雨が降り出すか分からない。横を流れる川は今にも溢れそうな濁流と化していた。
確は何も言わなかったが、私の決意を悟った目をしていた。確の肩越しに飛び去る濡れた路面は、夢の中で追いかけた光る道に似ていた。この先に、クロウがいる。私を待っている。胸の奥に熱いものがこみ上げる。
道中、何度か倒木や落石に遭い、その都度確の背中から緊張が伝わった。やがて民家が途絶え、破れたガードレールを通り過ぎ、灰色の堰が見えた辺りから霧が濃くなりだした。
「やっぱり来たな」
「まかせて」低く真言を呟く。「オンマリシエイソワカ」
左手で確の腰を掴み、右の手に気を集める。視界の隅で切っ先が白く光った。
「蠅聲す神を祓わない限り、この人たちは自由になれない」
霧の奥から、朧に蠢く式たちの影が迫る。
「悪いけど、通してもらう!」
伸びてきた腕をめがけ、刀を一閃させた。次々襲ってくる式を斬り伏せながら、バイクは突き進む。巨大な橋梁にまでたどり着いたが、そこにも式が群がり、行く手を塞いでいる。バイクを止め、片足をついて確が振り向く。
「お前、あれやれ。一気に橋梁を突破するぞ」
「わかった」
腰を浮かして立ち上がる。
「あなた達をきっと解放すると約束する!」
そう叫び、手刀を構える。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前!」
腹の底から放った気が、式たちの群れをかき乱す。私が腰に捕まるやいなや、すかさずバイクが発進し、風のように駆け抜ける。
橋脚の向こう側にはモルタルを吹き付けた山肌がそそり立っている。その手前は袋小路だ。猛スピードのまま走りこんだバイクは、塗れた落ち葉溜まりにタイヤを滑らせバランスを崩した。「くそっ」確が言い、バイクは横倒しにスリップする。放り出された体が、受け身を取りながら地面を転がり、止まった。跳ね起きた瞬間、右手が柄に飛ぶ。姿勢を低くし、左下に剣先を流して辺りを見回す。
「悪い、大丈夫か」
押し殺した声で確が聞いた。その右手にも棒が握られている。
「平気。こっちも無事よ」
身体の前に着けたボディバッグのベルトを締め直す。
「確こそ怪我は」
「こっちも問題ない」
すらりと棒を構え、油断のない目を周囲に配っていたが、ゆっくりと得物をしまった。
そこは駐車場と休憩スペースを兼ねたささやかな広場になっていた。隅に公衆トイレと自動販売機があり、ペンキの禿げたベンチがポツンと置いてある。コンクリートの隙間から背高く伸びた雑草が風に揺れていた。
あれだけいた式の姿は見えなかった。それどころか生き物の気配が全く感じられない。鳥の鳴き声すらしない。ただ、誰かに見られているという気配だけが濃厚に漂っていた。
「バイクも無事みたいだ」
バイクを起こすと、確は律儀に駐車スペースへ押していった。私はヘルメットを取り、ジーンズにはり付いた落ち葉を払ってから橋脚へと歩いた。
堰は目もくらむような高さで、その向こうを灰茶色の水が蛇行しながら木々の合間を縫ってゆく。橋の反対側はダム湖で、意外なほど水量が少なかった。底の土が露出している場所もある。
「水がないね」
「梅雨や台風に備えて貯水位を下げているんだ。今頃が一年の中で一番水位が低い」
後ろから確が言った。
「で? 呪詛の御社はどこだ」
「そんなこと聞かれても……」
私はぐるりと頭を巡らせ、夢で見た風景を探した。
「えーと、あっち? いや、違う。こっちかな?」
確がため息をついた。
「音はどうだ」
「それが、今は聞こえない」
まるで息をひそめているかのように、音はぴたりと止んでいた。確が舌打ちするのが聞こえた。
「何さ、私が夢で見たのは空からの景色なんだからね! それに工事ですっかり印象が変わってるし!」
「手分けして周辺を探すしかないか」
外国人のように肩をすくめてから、ぶらぶらと歩き去る。私も仕方なく後に続いた。ここまで来れば、自ずとクロウにたどり着くと思っていたから、肩透かしを食らったようでもあった。
確に対して申し訳ない気持ちがまたぞろ持ち上がって来る。本当にここまで連れてきてよかったのか、他に方法はなかったのかと、迷いが頭を持ち上げる。確が今私の心の内を知ったら、この期に及んで、といつもの皮肉めいた笑みを浮かべるに違いなかったが。
公衆トイレの裏に回ると、汚水の匂いが鼻を突いた。アスファルトで固めた地面のすぐ傍まで山の斜面が迫っている。匂いのせいで余計に湿度が増した気がしながら、適当な棒を拾い上げ伸び放題の雑草を無造作に掻き分けた。跳ね返って来た草から雨水をたっぷりと浴び、憮然として立ちすくむ。その時ふと、気になるものを見た気がした。
「確!」
駆け寄ってきた確に、邪魔な草を倒して斜面の上を指さす。雑木の隙間に、辛うじて丸太が敷きこんであるのが見えた。獣道かと見過ごしてしまいそうな細道だが、紛れもなく人の手が加わった跡だった。
「行ってみよう」
確が言って、草をかき分け、つま先で体を持ち上げるように斜面を登り始めた。後について進むうち、あっという間にシューズの中まで水が染みてきた。グジュグジュと、生温い水が足の指の間で泡立つ。
木立の隙間に橋脚が見下ろせる所まで上ると、下草が減ってごつごつと足場の悪い山道になった。急峻な斜面に刻み込むように普請された道は、片側がせり出した山肌、もう片方は渓までほぼ垂直に落ち込んでいる。長いこと放置された証拠に、倒木や崩れた土砂がそのままの状態で残っていた。
登山靴を買っておかなかったことを後悔した。張り出した木の根や石ころを踏む度、足裏に直接衝撃が伝わる。前を行く確は頑丈そうなバイクブーツを履いている。普段なら癇に障る所だが、今日は違った。確が私より賢くて用心深いのがありがたかった。
「ここ、滑るから気を付けろよ」
黙々と前を歩いていた確が振り向いて言った。落ち葉が張り付いた岩の上を、トンと踏んだ。
「分かった」
私が応えると、また黙って歩き出した。濡れた足は冷たいが、胸の底が温まった気がした。私たちのような関係を、同志と呼んでいいのだと思った。
道は崖の縁から森へ分け入ったかと思うと、両脇を斜面に挟まれた切通しへと変わる。
途中でいくつか、人が暮らした形跡を見つけた。石垣や瀬戸物の破片、竈の跡などだ。竈の中では蛇がとぐろを巻いていた。人の領域が自然に飲み込まれて久しいのだった。
確がいきなり立ち止まったので、頭から背中に突っ込んだ。
「おい、見ろ」
確が指さす方を見上げる。切通しを抜け、視界が急に開けていた。切り立った崖が、むき出しの岩肌を晒し、そそり立っていた。滲み出した雨水が、白く糸を引いて伝い落ちる。その側面に丸い横穴がいくつも口を開けている。
「坑道が崩れ落ちたんだね」
「中は蟻の巣みたいになってるんだろうな」
岩盤の麓には崩れ落ちた土砂が堆積し、立ち枯れた木の幹が黒く突き出している。そこだけ、まるではげ山だった。
「あんなになるまで……。資源が枯渇するまで、掘りつくしたんだね」
「業の深さを感じるな」
うすら寒い思いで、さらに山道を登る。疲れて口をきく気もしなくなったころ、突如として目の前に不揃いな石の階段が出現した。靄が立ち込める中、一直線に見上げた先に、色あせた鳥居が佇んでいた。
「音はするか?」
「今はまだしない。……でも、ここが呪詛の御社で間違いない」
確に目で合図すると、先に立って石段を上り始めた。石は割れたり崩れ落ちたりして、夢で見たものより確実に荒廃している。寒気が両腕から背中へ広がってゆく。一段上がるたび、視線が濃くなる。背中に張り付いたTシャツが冷たい。心臓が激しく打つのは、山を登り続けたせいだけじゃない。
蛇のように蔦が纏わりついた鳥居をくぐり、境内に出て息をのんだ。夢に見たのとはまるで違う、想像もできなかった光景が広がっていた。
「山崩れか」
確が呟いた。暗い井戸の底のようだった境内は、妙に白茶けた空間に変わっていた。苔に覆われた狛犬から、草に埋もれ残骸と化した社務所へと視線を移す。やはり、生物の気配は無く、境内は不気味な静けさに包まれていた。
大きく傾き、辛うじて立っている鳥居を見つけると、駆け寄った。朱色は剥げ落ち、骸骨のような木肌を晒している。その先で、境内は唐突に途切れていた。
鳥居の奥にあった杜は消えていた。神主がクロウの首を運んで行った杜だ。崖に突き出した岩から身を乗り出し、下を覗き込んだ。えぐり取られた斜面には、新たに生えた灌木が浅い緑の葉をつけていた。その先はダム湖へとつながっている。垂れ下がった雲の中、山々の尾根から白い煙が立ち上り、墨絵のように沈み込んでいた。
「ここから摂社へ続く階段が伸びていたの。奥には小さな祠があって、その前で神主が鼓を打っていた」
「土砂と一緒にダム湖に沈んだんだろうな」
「最初から本殿は無かった。あの摂社がこの神社の唯一の祭神、蠅聲す神を祀った社だった」
「ダム湖の底で、今なお悪い霊を引き寄せているということか」
確は隣に立って岩に片足をかけ、首を伸ばしてダム湖を覗いていたが、急に寒気がしたように足を引っ込めた。
「さて、どうする」
棒を出現させると、頭上でバトンのように振り回した。
「祠はダム湖の底。音は鳴りやんだまま。音で居場所がばれるってこと、どうやら敵も学んだようだな」
残っている境内の中央に引き返すと、周囲を見まわした。
「安心して。この神社はまだ機能している」
さっきまでいた岩を指さす。
「あそこに、ご神体の岩が残ってる」
半分近く土の中に隠れているが、位置からして間違いなかった。
「夢では注連縄が張り巡らしてあって」
岩から目を逸らして言った。
「そこでクロウが殺された」
「で、どうやって祓う?」
暫く岩を見つめた後、確が気持ちを切り替えたように言った。
「神を祓う方法はたった一つ」
真っすぐに確の目を見据えると言った。
「巫女自らが生贄となり、あの世にこの穢れを払い捨てる」
ボディバッグから短刀を取り出し、鞘を払うと首筋に押し当てた。
「おい!」
「近寄らないで!」
駆け寄ろうとした確を制す。
「馬鹿か! 坊さんにできなかったことが、おまえにできるわけがないだろう!」
「できる」
棒を地面に突き立てたまま、動けないでいる確に頷きかける。
「私は一人じゃない」
確の顔から表情が抜け落ちた。
「私の魂の往生際が悪かったら、確が祓ってくれるよね」
「無理だ。断る」
「願いを聞いて欲しい」
遠くの空で雷が鳴っている。
「まだクロウのためにできることが残されていた」
ぽつりと額に大粒の雨が落ちた。
「確なら分かってくれるよね? 私が今、どれだけ幸せなのか」
見る間に土砂降りの雨となる。
「私は、クロウのためなら何だってしたい」
確の、濡れて束になった髪の先から、ぽたぽたと雫が落ちる。
「……本当に、それしかないのか?」
「確、今までありがとう。確に出会えていなければ、私は……」
こめかみが脈打ち、足元がぐらりと揺れた。短刀をうなじにぴたりと押し付ける。
「やめろ!」
刃を挟むように首を傾けると、両腕で一気に引き抜いた。
―― 蠅聲す神が喉から手が出るほど欲しがっているのは、確だ。
三人で話し合った夜、私の言葉に、確は嫌悪感を露わにして頷いた。首を据えさせ、完全復活を遂げた後、確を依り代とすれば、蠅聲す神は呪術以外の強力な武器を得ることになる。
音であるが故に依り代を持たない今、邪魔な私を倒す唯一の手段は憑依だ。確に取り憑いて戦わせた場合、私が勝ってしまえば元も子もなくなる。最も安全で確実な方法。それは、私に憑依して自分自身を殺させること。
ならば、それを逆手に取る。
「悪かったね。血が出なくて」
地面に描いた五芒星から足を踏み出す。
「よくできてるけど、それ玩具だから」
確の結界に入るとき、皮膚の表面がチリチリと毛羽だった。
「目には目を、呪術には呪術を」
もう一人の私が目を見開く。
「おまえが憑りついたのは、私の息を吹きかけた偶人。木でできた人形だよ」
もう一人の私の目がみるみるうちに吊り上がり、さながら般若のような形相になる。瞼がなくなるほど見開いた眼が紅く光る。何千何万という蟲の羽音が湧き上がり、一気に気温が下がる。
「決着を付けに来た」
クロウ、見ていて欲しい。
「オンマリシエイソワカ」
視界の真ん中に、すらりと反った刀身が白く輝く。
「もう逃がさない」
抜けと目で合図する。もう一人の自分が右手で柄を握り、見えない鞘からゆっくりと剣を引き抜いた。切っ先を合わせると、にらみ合ったまま足を送る。一周したところで、突然辺りが暗闇に包まれた。
闇の中、風圧と共に襲ってきた剣を撥ね上げた。飛び散った火花に照らされ、悪鬼の形相をした自分の顔が浮かび上がった。すかさず八双から切り下ろす。打ち合った瞬間体をひねり、低く横薙ぎの剣を胴に送る。手ごたえがあった。だが相手は蜘蛛のように音もなく飛んで気配を隠した。その瞬間、一切の音が消えた。
青眼に構え、目を閉じる。
「隠れたって無駄」
殺気は背後に回った。
「おまえの動きは手に取るようにわかる」
上段にすり上げた刀が風を巻き起こす。今、こちらへ向かってくる。
身を翻すと剣先を後方に流し、白銀の残像を引いて走った。落ちてきた斬撃をすくい上げるなり間髪を入れず、鋭い気合と共に刀を振り下ろした。
凄まじい閃光が走り、境内を青白く照らし出した。肩から胸までざっくりと割れた邪神の、首から上が目まぐるしく入れ替わる。老若男女入り混じった顔が次々に通り過ぎてゆく。肌色の肉塊と化した顔に亀裂が入り、真っ黒な口を開けた。夥しい数の羽虫が噴煙のごとく湧き上がり、ざらついた声が言った。
「……たつみ……かんな」
雷鳴が轟き、足裏から振動が這い上ってきた。左半身になると鍔を右肩に引き寄せ、直立した刃先を相手に向けた。
「偽物が本物に勝てると思うな!」
地を蹴って走り、刀を一閃させた。すれ違った背中に、ガラガラと空気の漏れる音を聞いた。一撃のもとに切り落とした首が、地面を転がる。
残身を解くと同時に雨音が蘇り、風が唸りを上げて吹き抜けた。ぬかるみに散った残骸から、ぷすぷすと煙が立ち上っていたが、それも瞬く間に掻き消える。
「早く、音源を探すんだ!」
振り向くと結界を解いた確が棒に捕まり、両肩を上下して喘いでいた。
頷くと、再び目を閉じた。雷鳴が低く轟いている。風が渦巻き、雨が八方から身体に打ち付ける。微かだが、ワーンという低音に、引きつるような高音が混じった、あの音がする。音のする方へ目をやると、ご神体の岩に、白い光の玉が浮かんでいた。やがてそれは輝く輪郭を纏い、結跏趺坐を組む僧の姿になった。
「クロウ!」
叫びながら、泳ぐように走った。冷たくなった頬に、熱い涙が零れる。岩に駆け寄り、縋りつこう伸ばした腕を、確が掴んで止めた。
「何する、放して!」
振り向くと、確の顔が苦しそうに歪んでいた。泣くまいと、必死に引き結んだ唇が震えている。
「落ち着いて、よく見ろ」
その目を見た途端、胸の奥まで冷たいものが滑り落ちた。指先で涙を払い、眩しいほどに輝くクロウを見つめる。
クロウは静かな目を、半眼に開いていた。睫毛が目の縁に繊細な影を作っている。悲しくなるほどきれいな顔だった。だが耳の下から削いだような顎にかけ、何か黒いものが動くのを見て、私はその場に崩れ落ちた。
「クロウ……」
提灯に飛び込んだ羽虫が、いつまでも体当たりを繰り返していた光景が蘇る。
「ごめんなさい」
胸が潰れる。
「こんなになるまで、待たせて」
クロウの頭皮の内側一杯に、黒い羽虫が飛び交っていた。私が聞いたのは、クロウの頭蓋に響く、この忌まわしい音だったのだ。
「本当に、ごめんなさい……」
「坊さんは、……ずっと、おまえのことを、信じていたんだ」
確の指が肩に食い込む。
「おまえに巡り合うずっと前から、きっとここへおまえが来るって、信じて待っていたんだ」
涙に霞んだ視界の中で、クロウはやはり微笑んでいる。
「先に魂を切り離したのは、蠅聲す神よ。クロウはその後を追うために、自分も……」
静かに、喜びに照らし出されるかのように、輝いている。
「クロウは、一秒だって迷ったりしなかった!」
もったいなくて、感謝しなくてはいけないのに、私はそこまで物分かりよくなれない。どこまでも優しい、クロウの愛の深さが切ない。
「……昔、約束したの」
傷だらけで私の前に現れた男の子の姿が浮かぶ。
「クロウをいじめる奴は、私がゆるさない。いつか強い巫女になって、必ずやっつけるからって」
頼みましたよ。そう言ってほほ笑むと、クロウは優しく私の頭を撫でた。衣の袖から清々しい香の薫りがした。「うん。約束ね」クロウを見上げ、私は小指を差し出した。その時から、クロウは私の守護霊になった。
足に力を籠め、立ち上がった。空を仰ぐと、深く息を吸った。人肌にぬくもった雨が顎から喉元へ伝い落ちる。
「オンマリシエイソワカ」
息を吐き出すと、足をゆっくりと開き、刀を青眼に構えた。
「約束を果たすよ」
今まで一緒にいてくれてありがとう。
「さようなら、クロウ」
これで、自由だ。
刀を一閃させると、クロウの身体から一斉に羽虫が飛び立った。黒煙のごとく舞い登ったそれは、次の瞬間目を焦がすほどの光を発し、火の粉となって曇天を覆った。
「終わったのか……」
舞い落ちる火の粉を見上げ、確が呟いた。声を上げずに泣いている私の肩に手を置き、言葉が見つからないままそっと手を降ろした。数歩離れて立ち止まると、「雷か……?」と独り呟く。不気味な重低音が、天蓋から山々に反響している。腹の底がざわざわと波打つような振動が伝わる。
「雷なんかじゃない!」
突然確が大声で怒鳴った。私の手首を掴むと、痛いほどの力で引っ張り、猛烈な勢いで走り出した。
「どうしたのよ! 急に走って!」
泥を蹴散らして走る確の背中に怒鳴る。
「急げ! 山が崩れるぞ!」
確が言い終わらないうちに地面が大きく揺れた。
「岩が!」
クロウのいた岩の周りの土が、まるで軟体動物の背のように波打っている。
「振り向くな! 死にたくなかったら、全力で走れ!」
本殿がなかったのは、山全体が社だったからだ。そう気付いたとき、想像したこともない恐怖が襲った。崖に開いた無数の横穴が脳裏をよぎった。岩を削り、縦横無尽に掘り進んだ坑道が目に浮かんだ。
この山はいつ崩れてもおかしくなかった。蠅聲す神の呪力で、辛うじて崩れ落ちずにすんでいたのだ。
地の底から突き動かされるように揺れる石段を、半ば飛ぶように駆け下りた。大小の石が私たちを追い越して転がり落ちる。背後でゆっくりと石段が崩れ落ちる光景が頭に浮かんだ。恐怖に捕まったら死ぬ。生き物としての本能がそう告げていた。目に映る情報を直接足に届けるように、何も考えずに走った。心を空にして、走ることだけに集中した。
「くそっ!」
前を走っていた確が、いきなりたたらを踏んで立ち止まった。疾走してきた勢いのまま突っ込んだ私を、両腕で抱えるように押し止める。
「道が!」
崩れた土砂が私たちの行く手を塞いでいた。無残にも根こそぎ倒れた木々が谷底まで滑り落ち、折り重なっている。
「どうしよう。ここは越えられない」
「戻って、他の道を探すしかないな」
それ以外の選択肢はなかった。だが他に道なんてあっただろうか。不吉な考えを打ち消す。冷静さを無くしたら終わりだ。足元を視野に入れながら、枝道を探して走った。生き残るために神経を張り巡らせる。その時、視線の片隅で何か白いものが動いた。二人同時に足を止め、斜面を振り仰いだ。
「咲希ちゃん!」
「姉ちゃん!」
白いワンピースを着た女の子がふわりと浮いて、こちらを見下ろしていた。おいでおいでと手を振る。
顔を見合わせると、張り出した枝を掴み、斜面をよじ登った。すると落ち葉の降り積もった獣道が姿を現した。先導するように、咲希ちゃんは距離を保って先を行く。
盛り上がった根を飛び越え、枝を潜り、必死に後を追った。咲希ちゃんは苔むした岩盤の手前で立ち止まると、私たちを待ち構えた。そこで行き止まりかと思えば、肩幅がようやく通るくらいの横穴が開いている。咲希ちゃんはちらと私たちを振り返り、真っ暗な穴に消えた。
確が慌てて自分のボディバッグから懐中電灯を取り出す。穴の中を照らすと、緩やかな下りになっていた。雨水が透明な蛇のようにうねりながら流れ込んでゆく。咲希ちゃんの放つ淡い光がずっと先に見える。
「これも坑道だろうか」
「何でもいいから、急ごう」
「手」
ぶっきらぼうにそう言って、確が手を差し出した。ためらわずにその手を握る。確は腰を折って小走りに洞窟の奥へ進んだ。懐中電灯が照らし出す岩肌は、明らかに人の手が削り出したものだった。二人分の足音と、雫の垂れる音が反響する。冷たい闇に急き立てられるように、奥へ奥へと進んだ。
「出口だ」
曲がりくねった坑道を五十メートルほど進むと、前方から光が差し込むのが見えた。二畳ほどの空間に、天上に開いた隙間から雨が降りこんでいる。膝のすぐ下まで水につかりながら、岩のとっかかりを探す。何とかよじ登り穴から頭を出すと、目の前に、ピンクのスニーカーを履いた小さな足が、落ち葉から数センチ浮かんで立っていた。
地上に這い出てきた確が、顔をしかめながら腰を伸ばした。中腰を強いられていたせいで痛むようだった。
「姉貴は?」
さっきは姉ちゃんと言ったのに、恰好つけちゃって。そう思ったが顔には出さず、斜面の下にある窪地を指した。
「あそこ」
咲希ちゃんは私たちを振り仰ぐと、ひらひらと手招きした。そして斜面を滑り落ちてきた私たちに向かって、傍らに立っている、自分の腰回りほどもありそうな丸太を指し示した。
「これ、何?」
咲希ちゃんは私ににっこり笑いかけると、確の背後に隠れて姿を消した。
「え? ちょっと、咲希ちゃん! これ何!」
鳥居の形に組んだ櫓を見上げる。頭の中が疑問符で埋め尽くされている。天辺の横木の両端には太いワイヤーロープが渡され、渓に向かってまるで電線のように伸びている。鉄線に取り付けられたホイールから滑車がぶら下がり、そこに籠のようなものが取り付けられている。
「そうか! 野猿だ!」
確が叫び、ボディバッグを漁るとロープを引っ張り出した。
「ヤエン?」
確は向い合わせに立つと、私の背中にロープを回した。
「ロープウェイの原始的なやつだ! 考えてみろ! 長瀞村の連中が、どうやって重い銀を人目に触れず搬出したのか!」
そう言いながらロープをぐいと引き、自分の腰の後ろに渡した。
「何すんのさ!」
確の胸板で鼻をしたたかに打った。
「じっとしてろ!」
たちまち二人いっぺんにぐるぐるとロープを巻き付け、端を固結びにした。何が何だか分からないまま、鳥居の真下まで引っ張って行かれる。確が目の前の棒を外すとどうやらそれがストッパーになっていたらしく、籠が勢いよく降りてきた。もとは舟形の木箱が付いていたようだが、今は鉄製の枠組みだけが残っている。
「これに精製する前の銀を積んで降ろしたんだ。まだ俺らの体重ぐらい支えられるだろう」
「ま、まさか?」
確が搬器の中に乗り込むと、自動的にその膝の上に転がり込んだ。
「おまえ、足をこっちにやれ」
「は?」
「何を今さら恥じらってるんだ! いいから、早く俺に跨って座れ!」
首をひねって後ろを見ると、木立の隙間を潜り抜けた鉄線がダム湖の上空を渡り、向こうの山に消えている。
「昔のロープウェイ? って、どうやって動かすつもり?!」
なんで私が谷側?
「んなもん、重力で動かすに決まってんだろうが!」
まさかとは思ったけど、やっぱりそうか!
「嘘でしょ、ね、嘘だよね」
頼むから嘘だと言って!
「うるさい! 俺を木だと思ってしがみ付いてろ!」
もしや、私を盾に使う気では?
「俺もおまえを山猿だと思う!」
聞き捨てならない一言を吐いて、確はストッパーを倒した。滑車が軋みながら回りだす。
「ギャー! やめてー!」
私達が乗った搬器は何度かバウンドしながら加速する。見る間に地面が遠ざかってゆく。背中に枝が鞭のように打ち付ける。
「死ぬーっ!」
振動で歯が嚙み合わない。ガラガラヘビの大群が一斉に威嚇するような音が降り注ぐ。
「たしかの、あほー!」
次の瞬間、私たちは開けた空へ飛び出していた。錆びた鉄線から、火の粉が雨と一緒に降り注ぐ。ダム湖の表面が鉛色に光っている。雲の底が明るくなったと思ったら、稲妻がジグザグに折れ曲がって頭上を越えてゆく。
「ギャーッ!」
巨大な刃が、峯に叩きつけられたように見えた。同時に鼓膜が張りつめ、ぎりぎりと頭の内側に向かって圧迫された。音が遠ざかり、つかの間、不穏な静けさに包まれる。時間の隙間にはまり込み、全てが停止したようだった。
だが雷鳴が耳をつんざいた瞬間、世界は息を吹き返した。去り行く視界の中で、木立が生き物のようにうねった。始めはゆっくり、次第に怒涛の速さで、木々が川底に向かって突進してゆく。煙を巻き上げ、土砂がなだれ落ちる。尾根から渓に向かって、まるで百足の足のように赤黒い筋が刻み付けられてゆき、地鳴りがその後を追いかける。
「あかん……終わった……」
目を閉じると、両親や兄弟、御鈴や御典たちの顔が次々と瞼を横切っていった。もう一度会いたかったなと思った途端、首がもげそうな衝撃を受けた。一瞬のうちに体が空中に放り出される。
受け身を取ろうにも確が邪魔で動けなかった。どさりと落ちた瞬間、肺からいっぺんに空気が抜けた。確と、上に下になりながら斜面を転がり落ちた。体と一緒に、頭の中味もぐるりと回転した。
※
「おい、生きてるか」
頬を叩かれた。
「おい、万琴! おい!」
目を覚ますと、血にまみれた確の顔が私を覗き込んでいた。
「うわっ、だ、大丈夫?!」
慌てて身を起こそうとしたが、ロープに引っ張られて上手くいかなかった。気付けば、密着するようにくっ付いて倒れている。急いで絡み合っていた足を引っ込めた。
「心配ない。ただの鼻血だ」
確は手の甲で滴り落ちる血を拭ってから、恨めしそうに付け加えた。
「おまえの石頭にやられた」
「……ごめん」
色々と出かかった文句は、確の酷いありさまを見て引っ込んだ。袖が肩から破れてぶら下がっている。剥き出しの肩や肘からも血が滲んでいる。どこへ飛んで行ったのか、眼鏡もない。
「落ちたところが草地だったから、これくらいで助かった」
確は一息つくように仰向けに転がった。そうすると私の腰がぐいと引っ張られて、横向きにならざるを得ない。まるで添い寝だ。一体いつまでべったりくっついている気だろう。ロープの結び目を見つけると、指で解こうとしたが、がっちりと食い込んでいてとてもじゃないが歯が立たない。
「確、ナイフを貸して」
早くロープを切ってしまわないと、居心地が悪い。
「ない」
だが確からはにべもない返事が返って来た。
「は?」
「だから、ナイフはない」
「嘘でしょ!」
肘をついて上半身を起こすと、脇腹にロープが食い込んだ。
「懐中電灯やロープまで持っていて、ナイフは持ってないなんてことある?!」
「……面目ない」
そう言うと確は、何がおかしいのか吹き出した。
「笑いごとじゃない!」
頬が自然とにやける。私も確に半分重なって、無理やり仰向けになった。並んで空を見上げた。雨はまだ止まない。
「バイクがこけたときはヒヤッとしたね」
くつくつと笑いがこみ上げる。
「もう、必死でボディバッグ守ったわ」
背中の下で確の胸が上下する。
「あれで偶人の首がもげてたら、目も当てられなかったよね」
「呪術に手を染めるなんてって文句言いながら、神主さん、嬉しそうに作ってたもんな」
アハハと聞いたこともないほど無邪気に笑って、目を拭った。
「俺もしゃもじみたいなヤツに向かってシリアスな演技すんの大変だったー」
「練習したもんね」
思い出すだけで笑いが止まらない。
「でも何も聞こえてないとは思えないほど、ばっちりだったよ!」
瞬きすると、目に溜まった雨水が流れ落ちた。
「奮発したからな。あのワイヤレスイヤホン、まじ最強」
重なり合った部分が温かい。
「野猿まで連れて行った時の咲希ちゃんの顔、ちょっとだけ得意げだったよね」
ふわふわとした喜びが腹の底をくすぐる。
「あーあ、俺のバイク。無事でいてくれー」
空からは尽きてなくならないのが不思議なほど水が降って来る。涙が溢れるままに、身を捩って笑った。
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