第20話 千姫の罪
「万琴!」
頬を叩かれ、目を覚ました。確の怯えた顔がすぐ目の前にあった。
「大丈夫か!」
神主が私の背を支えるように抱きかかえ、顔を覗き込んだ。
「よしよし、もう大丈夫だからな」
やっと私は、自分が悲鳴を上げ続けていることに気が付いた。全力で走った後のように心臓が激しく打ち、冷たくなった手がわなわなと震えていた。
「クロウが」
声を絞り出そうともがくが、堅い塊がこみ上げて喉を塞いた。
「無理して話さなくていいから」
「水、飲めるか」
胸が焼け付くように痛かった。確からグラスを受け取り、溢しながら飲み干した。濡れた畳を確がタオルで拭いた。
私は布団も敷かずに寝ていた。勉強の途中で、気を失うように眠ってしまったのだった。声が出せるようになると、何度も言葉に詰まりながら、見た夢を二人に話して聞かせた。
「繋がりは、切れてなかった」
沈黙の後、確がぽつりと呟いた。
「光る道は、万琴を導くためにクロウ殿が見せたのだろう。よく頑張ったな」
神主が、小さい子にするように私の頭を撫ぜた。そして改まった顔で言った。
「私からも報告がある。居間に移ろうか」
冷たい水で顔を洗ってから居間に入ると、確が熱い紅茶の入ったカップを配り終えたところだった。
「新聞のコピーですか」
神主の手元を覗き込んで言った。
「ああ。千姫の事件について調べた結果だ」
茶封筒からA4用紙の束を取り出し、テーブルに置く。
「蓮暁教本部で一家五人惨殺」
確がその一枚を取り、「句読点が無くて読みにくいな」と眉を寄せながら読み上げる。
「明治二十一年六月五日。神田区東松永町蓮暁教本部にて昨日午後四時ごろ奈良県吉野郡長瀞村の郷長中田宗兵衛(六十三)長男喜一郎(三十八)妻ウメ(三十二)、娘サヨ(十)、及び下男は何者かに襲われことごとく惨死せり。何れも散々に切断されて血濡れになり惨たらしき死体にて、その一室は鮮血をもって充たされ敷居より流れたる血潮は戸袋に満ち、四壁朱に染まりて実に物凄き程なりし故。所轄駐在所より巡査医師出張して検死したるが、何者がかかる凶行を加えたるや分明ならざれど、少しも抵抗した模様もなく、被害者の創口より察するに凶器は鋭利なる刃物とのこと。教祖千姫は重傷を負い現在も意識を失いたるが幸いに命は無事という。凶行者は意恨ありしものの所為なるか。かくの如き残酷なる所為に及びしものなるや未だ判然とせざるにつき、目下神田警察署にて厳重に探偵中なり。……本当だったんだ……」
読み終わるとため息と一緒に呟いた。御鈴と御典のことをよく知らない確は、気持ちの底にどこか信じきれないものがあったのだろう。
続いて記事をめくると『怪事件蓮暁教一家皆殺し』『蓮暁教の五人斬殺、一家全滅の惨劇』と、中身を読む気力を無くして見出しだけを読み上げてから「えげつない週刊誌みたいだな」と言った。
「当時の新聞は部数を伸ばすため、大衆の目を引くのに躍起になっていたからな。捜査は長引き、事件は結局未解決のまま終わった。しかしこんな騒ぎがあって、世間がそっとしておいてくれるはずもなく千姫は内務省に召喚される」
腕を伸ばして精一杯遠ざけた記事を、目を眇めて読み上げる。
「『昨日内務省社寺局より召喚されしに付き代理として同人養子何某出頭せしに更に本人千姫に出頭すべき旨達せられたる由』。理由は知らんが代理を行かせたことで、更に疑惑を呼ぶことになる。遂には淫祀、邪教のレッテルを貼られ書き立てられて、信徒も黙ってはいなかった。『萬報の淫祀云々の記事は端なく信者の感情を傷つけ、教主に面会して談判すべしと押し寄せる徒も少なからざるが之について同教会非常に苦慮し教主の側には屈強の若者を侍せしめ十分警戒し居れる由』。とまあ四面楚歌になった結果がこれだ」
神主が見せたのは『破れた観音力ついに教団解散』と大見出しの付いた記事だった。
「これが蓮暁教と千姫に関する最後の記事だ。事件からちょうど三年経過している。政界にも信者がいたというのは本当だろう。教団は解散したが、千姫は罪に問われなかった。大本教の事件と比べれば、破格の取り扱いだ。梁瀬村に移り住んだのは、解散のほとぼりが冷めてからだろう。七村合併が洪水の翌年で明治二十三年、製糸工場の設立が明治二十六年。年代的にも合っている」
「千姫は自分が犯した過ちを償うために教団を解散したって、御典・御鈴ペアは言ってましたよね」
神主から記事を受け取り、読み終えてから確が言った。
「だけど事実は邪教と後ろ指をさされ、信者も離れて解散に追い込まれている。何でそんな嘘をつくんだ?」
「プライドが高い女だって話じゃない。解散に追い込まれたなんて恰好がつかない」
「千姫は被害者だ。そうだろう? やったのは蠅聲す神だ。勿論誰にも立証はできないが」
私の言ったことなど耳に入っていないようだ。
「東京にいれば、また教団を再興できたかもしれない。だけどそうはしなかった。生活の基盤を捨て、この村まで来て償わなくちゃならない過ちって何だ?」
宙の一点を見据えて立ち上がると、確はうろうろと歩きだした。神主は黙ったまま確を見ている。
「そんなことどうだっていい!」
我慢しきれずに言った。腹の底が沸々と煮えている。
「どのみち、一日かけて御鈴と御典が聞き出した話の裏付けを取って来ただけじゃない」
こんな会話に付き合っている余裕なんてない。今すぐ行動を起こさなくては。クロウのために。
「いや、違うぞ。万琴」
珍しく神主が厳しい声で言った。
「暗闇を手探りで進み、掴んだものがまがい物か本物かも分からない中で、事実という寄る辺を失ってはならんのだ。真実は、進むべき方向を照らす光となるからだ」
そしてすぐ優しい目になって「万琴がじれったく思うのも分かるが」と付け加えた。
クロウと千姫の繋がりだって分からないままだ。そう口答えしそうになるのを堪える。その時、確がふと足を止めた。そしていきなりテーブルに飛びつくと、記事の束を掴み取った。
「一家五人皆殺し!」
目を見開いて、吠えるように叫んだ。
「何急に、びっくりするでしょ」
「そうだよ。皆殺しなんておかしいだろ」
夢から覚めたように呟く。
「どこがおかしいの?」
確には届いていないのを承知で聞いてみる。
「依り代にしていた娘まで?」
慌ただしく記事をめくり、やっと私を見た。顎のあたりが堅くこわばっている。喉仏を上下させ、ようやく声を絞り出すようにして言った。
「娘のサヨを殺したのは、千姫だ」
確の目を見返しながら、体の芯が冷えてゆくのを覚えた。
「蠅聲す神は、千姫を利用した。今日、俺を使って首を据えさせようとしたように。まんまと罠に嵌った上深手を負った千姫は自分の過ちを知り、魔物を祓うため、サヨを殺した」
その場面がありありと瞼に浮かんだ。
「でも祓えなかった。何故ならその魔物は祀ろわれた、れっきとした神だったら」
朱緒を斬ろうとした瞬間が蘇る。
「それが千姫の犯した過ちだ」
冷たい指先を握り締め、声が震えていないことを祈った。
「私は、千姫と同じ過ちを犯すところだった。……クロウの声が聞こえなかったら、私は人殺しになっていた……」
そして命尽き肉体が滅びた後も、後悔と罪の意識に縛られてこの世に留まり続けることになった。千姫のように。
「万琴はクロウ殿の声を聞いた。そこが、千姫とは大きく違う所だ」
神主が腕を伸ばし、私の頭に手を置いた。よしよしと呟きながら撫でる。どうやらこれ以外に若い女の慰め方を知らないらしい。でも大きくて、暖かな手だった。それがどんな言葉よりも有効に、騒ぐ心を落ち着かせてくれた。
「蠅聲す神に、胴と首が分断するくらいの大きなダメージを負わせたのはクロウよ。弱体化した蠅聲す神は、サヨに憑いて復活の機会を狙っていた。そこへ現れた千姫を騙して呪力を取り戻し、次々と家族を殺害。きっとその時、クロウの姿で千姫を欺いたんだわ」
唇を嚙んで続ける。
「だけどすぐに千姫に反撃される。依り代としていたサヨを失ってからは、そこらをさ迷っていた。そういうことだったんだ」
私が言うと、「うーん」とやけに大きな声で確が唸った。
「何さ、違うっていうの?」
「いや、すまん。さっき何か引っかかったことがあって、何か……」
ソファーに反り返って髪をかき混ぜ、また「んー」と唸って顔を顰めた。
「とにかく、クロウ殿と千姫が繋がったようだな」
神主が新聞のコピーをかき集め、封筒にしまいながら言った。
「実は今日、国会図書館には響子さんに行ってもらい、私は別の場所へ行って来たんだ」
そして私に身体ごと向かい合うと、改まった口調になり言った。
「私は今日、高野山へ行って来た」
紅葉にはまだ早すぎるなと、一瞬思った。
「高野山って、真言宗総本山の?」
だがすぐに神主が言わんとすることに気付き、緊張が走った。神主が力のこもった目で、大きく頷いた。急に鼓動が早くなる。
「私、ずっとクロウは禅宗の僧だと思ってた。いつも暇さえあれば座禅を組んでいたから。でもあの時、真言をすらすら唱えるのを聞いて、もしかしてって」
「真言宗では座禅ではなく、阿字観というんだ。実は、クロウ殿が旧校舎の校庭でお前たちを助けたとき、山伏みたいに白い鈴掛を着ていただろう。あれを見た時ふと思った。大峰山の千日回峰行でも、あんな恰好をするってな」
クロウは夢の中でも同じ恰好をしていた。
「大峰奥駈道を千日間歩く修業ですね」
確が言った。
「そうだ。金峯山寺蔵王堂から大峰山寺本堂まで、往復四十八キロの山道を千往復する。山に入れるのは五月から九月までだから、足掛け九年にもわたる厳しい修行だ。深夜に出立し、百カ所以上もある祠で般若心経を称え、山を駆ける。一度始めたら、途中でやめることは許されない。もし挫折するならば、その場で帯刀した剣で切腹しなければならない。長い歴史の中で成功したのは昭和に入ってから、たった二人だけ。決死の覚悟だからこそ、紐の一本まで全て白を纏う。あれは、死出装束なのだよ」
「クロウは、その修業をしていた?」
私は縋りつくような目をしているに違いない。
「私はそうに違いないと思うよ」
神主はいたわるように目を細め、私を見返した。
「成功したのは今までたった二人ですか。それじゃあ……」
確が私を見、言葉を飲み込むのが分かった。神主がしんみりとした声で言った。
「私も散々資料を探してみたが、何人の僧が途中で命を落としたのか、または自害したのか、記録は残っていないのだよ。だが私も、今日はクロウ殿に導かれた気がする」
資料館を出て、神主が次に考えたのは、墓を探すことだった。高野山奥の院は巨大な墓所でもある。二キロにわたる参道に沿って、二十万基以上ともいわれる墓石が立ち並んでいる。有名な戦国武将大の墓も、鬱蒼とした老杉の木立に守られ静かに苔むしている。
クロウの墓という想像は、私に少なからず衝撃を与えた。私にとってクロウはずっと、生者と変わりない存在だった。やはりクロウは過ぎ去った人だったと、思い知らされた気がした。
僧侶の墓は一見して形が他とは違っているし、数も絞られる。大峰奥駈道のルートは明治になるまで整備されていなかった。となれば明治時代に、二十代半ばで早世した僧侶の墓。そんな僅かな手掛かりをもとに、神主は広大な敷地の中を汗だくになって探し回った。
「それで、見つかったんですか?」
恐る恐る確が聞くと、神主は首を横に振った。
「無理だった。摩耗したり欠けたりして、墓碑銘を確認することすらできないものも沢山あった。よほど困っているように見えたんだろう。一人の老人が声をかけてくれた」
その老人は、生まれも育ちも高野山だと言った。代々お山で土産物屋を営んでいるという。人のよさそうな風貌を見て、神主は変に思われるのを承知で探している墓のことを話した。
「老人は気の毒そうに私を見て、そんな墓は知らないと言った。一体どういう関係のある人なのかと尋ねられて、私も説明に困った。千日回峰行の研究をしていて、修行の途中で命を落とした僧について調べたいのだと取り繕った。すると老人は、作り話かも分からんがと断ってから、子供の頃に聞いたという話をしてくれたんだ。千日回峰行に挑み、あと一日で満行という日に神隠しにあった僧がいると」
全身に鳥肌が立つのが分かった。頭が真っ白になり、私はただ神主の口が動くのを見ていた。
「心配した寺の者たちが、山中を何日も探し回った。だが何一つ見つけることはできなかった。僧が祠に供えた、白い花以外は。千日行を納めると神通力が備わると言われている。きっとその僧は神通力を得て、天狗になったのだと言われるようになった」
神主はかがみこむと、そっと包み込むように手を重ね、私の目を真っすぐに覗き込んだ。
「その僧の名は愚道。愚かなる道と書く」
「愚道……、クロウ……」
唇が勝手に動く。神主が小刻みに頷き、充血した目を瞬いた。
「幼かった万琴は『ぐどう』と発音できず、クロウと呼ぶうちにそれが本当だと思い込んだのだろう」
慟哭が押し寄せ、私は両手に顔を埋めて泣いた。息もつけないほど泣きじゃくった。
仏弟子の証である名前を、クロウがどれだけ深く胸に刻み込んでいたのか。ほかの記憶を失っても、それだけは守り抜いたというのに。
「たった一つ残った、大切な記憶なのに、私は……」
クロウの優しさが、こんなにも切ない。
「坊さんにとって名前なんて、大したことじゃなかったんだよ。おまえが呼びやすいなら、それでよかったんだ」
確が真っ赤な目をして言った。
やっと本当のクロウに出会えたのに。押し寄せる喪失感に打ちのめされる。
クロウは思い出したのだ。自分が、やり残したことを。
「これは私の想像でしかないのだが」
神主の声に辛そうな色が滲んだ。
「クロウ殿は最後の最後に、あと一日で満行だったはずの修業のことを考えたのではないだろうか。ほんの一瞬惜しむ気持ちが生まれ、このままではあの世に穢れを持ってゆくことができないと悟ったのではないだろうか」
「そんな……、じゃあ、クロウは」
「蠅聲す神を祓うかわりに、封じることにしたのだと思う」
両手で顔を覆い隠していた確が、ゆっくりと指を解いた。
「そうか……」
瞳の表面に涙が揺れている。神主が頷いた。
「咄嗟の判断で、クロウ殿は魂の一部を切り離したのだ。己の迷いと共に。その際、蠅聲す神も同じことをしたのだと思う」
「どういうことなのか、説明して」
辛くて、痛い。内臓を刀で抉られるようだ。いったい何がクロウを引き寄せ、そしてクロウがどんな覚悟で命を捨てる決意をしたのか、どんな思いで運命を受け入れたのか想像もつかない。
「いつか坊さんが話してた四魂のこと、覚えてるか」
「覚えてる」
確の部屋で、三人で話をしたのがずっと昔のことに思える。あの時クロウは言っていた。人の魂には、荒魂、和魂、幸魂、奇魂の四つがあり、修行を積んだ者ならばその内の一つを切り離すことができると。その時ある考えが浮かび、衝撃が身体を貫いた。
「まさか、そんな」
確がこっくりと頷くと、大粒の涙が零れ落ちた。
「坊さんは、愚道の切り離した魂、……外魂だったんだよ」
瞬きを忘れたその目から、次々涙が零れ落ちる。
「あまりにも咄嗟のことで、切り離すとき、坊さんの魂は傷を負ってしまったんだ。記憶を保てないほどに」
涙を拭おうともせずに、私を見つめる。
「そして、愚道は今も、蠅聲す神を封印し続けている」
「クロウが、外魂だった……」
そんな馬鹿なとすぐさま否定したいのに、喉が詰まったみたいに声が出ない。黒曜石のような瞳を持った男の子の顔が瞼に焼き付いている。
「クロウは最初、小さな男の子の姿をしていた」
唇が震えて、うまく喋れない。
「痩せて、ボロボロの着物を着て、体中傷だらけで」
涙で二人の顔が滲む。
「青龍庵の庭で、私はクロウと出会って友達になった」
そうだ。クロウは、紫陽花の葉の陰に隠れるようにして蹲っていた。御鈴と御典は怖がって、近寄ろうともしなかった。でも私は、迷子みたいに寂しそうな目をした男の子を放っておくことができなかった。
「怪我、痛い?」
「痛くない。けど悲しいんだ」
「何が悲しいの?」
「何が悲しいのか分からないから、悲しいんだ」
それが最初に交わした言葉だ。慰めになるとも思わずに、でも何かせずにはいられなくて、クロウの傷にふうふうと息を吹きかけた。
クロウを見て、「おや、厄介なものが迷い込んできたようだ」と、お師匠さんは言った。次にお師匠さんが何をするのか、私には分かった。
「私の友達に何をする!」そう言って私は、拳を振りかざしてお師匠さんに向かって行った。押さえつけようとする母親を振り切って、泣き喚きながら、お師匠さんにあられのように拳を打ち付けた。その日から私たちは親友になった。小さな恋人同士のように、片時も離れずに過ごした。いつ、男の子が僧の姿に変わったのかは覚えていない。幼かった私にとって何の不思議もなく、昨日の続きのように受け入れたのだろう。
涙を拭うと立ち上がった。
「行かないと、クロウのところへ」
拳一つで立ち向かっていったあの日から、何一つ変わっていない。
「クロウは、呪詛の御社にいる」
私はクロウのためなら何でもする。お師匠さんの庭で出会った瞬間に、私たちの運命は定められたのだ。
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