第19話 異界の烏

 小野寺診療所で、初めて確の父親に傷の処置をしてもらった。手際よく傷口を縫いながら、きれいにさくっと切れているお陰で傷跡は残らないだろうと言われた。不愛想だが、銀縁の眼鏡の奥の目が優しそうだった。

 礼を言って待合室に戻ると、確が女の子と立ち話をしていた。幼馴染の四方繭だった。私を見ると小走りに駆け寄って来る。今度は何を言われるのかと緊張が走った。


「万琴先輩!」


 だが繭は私の両手を取って握り締めると、深く頭を下げた。


「確を守ってくださってありがとうございました!」


 ぴょんとポニーテールを弾ませ顔を上げると、笑顔を見せた。そのまま踵を返して、玄関から走り出してゆく。


「ねぇ、繭ちゃんに何て言ったの?」


「別に。教室で何があったのか聞かれて、適当に誤魔化しただけだ」


「すんごい勘違いしてたけど、いいの?」


 無理して私に笑いかけたように見えたのだが。


「あいつ、想像力が強いタイプなんだよ。放っておけばいいさ」


 私の見間違いでないとしたら、確こそとんだ朴念仁だ。複雑な思いで、鼻筋の通った横顔を見上げる。


 その後二人で神社に戻った。京都まで行った神主はまだ帰っていない。


 当然のことながら、学校は休校になった。生徒の間では、ガス管が破裂したとか、爆発物が仕掛けられたとか、眉唾物の噂でもちきりになっていた。


「おまえ頭痛は大丈夫なのか」


 冷蔵庫から麦茶を取り出して注ぎながら、確が思い出したように言った。


「そういえば」


 私が差し出したグラスにも麦茶を注ぐ。


「前ほどのダメージは無い」


 免疫がついたのだろうか? 頭をさすってみる。


「朱緒が教室に入って来た時と、女の子が現れたときは激痛だったけど」


「ふーん」


 なんとなく習慣で、居間のソファーに落ち着いた。グラスを傾けると、氷が涼やかに鳴った。


「音も前よりましだった。こうやると、まだ結構煩いけど」


 グラスをテーブルに置き、両手で耳を塞いでみせる。


「確もさっき聞いたでしょ。ワーンっていう不気味な低音の奥で、エーーとかミーーみたいな高音がするやつ」


 確は器用に片方の眉毛だけを持ち上げ、暫く私の顔を見た後で言った。


「いいや。俺が聞いたのは、単なる大量の羽音だ。それに今は何も聞こえない」


 腕を組むと、二人とも黙り込んだ。なぜ、私と確でこうも症状が違うのか。


「普通の人間には聞こえない低周波音なのかもな」


「私は普通じゃないとでも?」


「自覚がないのか」


 右肩の負傷さえなければ一発お見舞いするところだったが。横目で睨んで舌打ちするにとどめた。それを完璧に無視して確が首を傾げる。


「だが低周波音だったとしても、音であることに変わりはない。音源から遠ざかれば当然聞こえなくなるはずなんだが」


「単なる耳鳴りかな」


 耳に小指を突っ込んでぐるぐる回してみる。


「突発性難聴だったら、ほっとくと耳が聞こえなくなるぞ」


「え、嘘でしょ」


 怖いことを言わないで欲しい。


「ちゃんと病院で診てもらったほうがいい」


 だが確は生真面目に言って立ち上がった。変に知識を持っているだけに、一々過保護になりがちだ。いいやつだけど、そういう所、ちょっと面倒だ。これが耳鳴りなんかのはずがない。


「いいって。病気じゃない。あいつが音源に間違いないから」


 それにしても、なぜ私だけに聞こえるのか。


「しかしどうして逃がしたんだろう。手ごたえはあったのに」


 確が釈然としない顔で言った。


「私もやったと思ったんだけどな」


「あの結界から、どうやって逃げたんだ……」


 これ以上はないというほど眉根を寄せる。


「あれは完璧な結界だった。逃げる隙なんかどこにも無かったはずだ」


 さいでっか。少々あほらしくなり、うんと伸びをしてソファーの背もたれに倒れこんだ。


「結界を解いてから逃げたとしか考えられない」


「大した自信で」


 確は目を閉じ、頭を抱えたまま動かない。こうなるともう私の声は届かないと知りながらぼやいた。


「真っ二つにしたくらいじゃ足りないのかも。三枚におろして、刺身にでもすればよかったかな」


 最近刺身を食べてないなと考えていると、確が唐突に顔を上げ、針のように鋭い目つきで私を凝視した。


「なにさ、ちょっとふざけただけでしょ」


 思わず身構えた私に、確がぽつりと言った。


「刀では、斬れないんだよ」


 眼鏡の奥で、目が爛々と輝いている。


「刀では斬れないもの。それがやつの正体だ」


「どういうこと?」


 腕を伸ばすと、いきなり私の耳をぐいと掴んで引っぱった。


「分からないのか? 音だよ。今おまえに聞こえている、その音だ」


 テーブルにあった鉛筆とメモ用紙を引き寄せると『蠅聲す』と書きなぐった。


「見ろよ、声って字がちゃんと入ってる。くそ、なんで気が付かなかったんだ!」


 膝に拳を打ち付けると、おもむろに立ち上がった。


「長瀞村の人たちは知っていたんだ。音に憑りつかれたら、その人じゃなくなる。家族でも友人でも、名前を呼ぶだけで見境なく殺してしまう化物になる。名前を呼ばれないよう顔を隠してその人を殺す以外、どうしようもなかったんじゃないか」


 腰に手を当て、怒ったような顔で私を見下ろした。


「最後に見せた気色悪い姿も、俺たちを惑わすためだ。音そのものがあれの正体であり本質だったんだよ」


「それじゃまるで、音に知性があるみたいじゃない」


「みたいじゃなくて、あるんだよ」


 しばらくの間、あいた口が閉まらなかった。


「そっか……。音だから斬れなかったんだ……」


 だがすとんと腑に落ちたら、それ以外の答えはないという気がした。


「そういえば確が呪符に触れた時、クロウがその言葉、それ以上言わせるなって怖い顔して……」


 クロウは敏感に察知したのだ。音に潜んだ魔性を。


「何一人でぶつぶつ言ってるんだ」

「ううん、何でもない」


 本当のことを知れば、確の自尊心は丸潰れになるだろう。しかし……。


「ちょっと待ってよ! 斬れないものを、どうやって祓うっての!」


 思わず飛び上がった私を呆れ顔で見上げる。


「少しは自分の頭で考えたらどうだ。音には必ず音源があるだろ」


「……音源は、別のところに隠してあるのか」


 人血を餌に音源を太らせ、より強大な音になっていったのだ。奥歯をぎりぎりと嚙み締めた。


「そういうことだ。次に問題になるのは、どうやってその音源を見つけ出して祓うかだ」


 確の顔を正面から見据える。威厳を取り繕うため無理やり咳払いすると、変に芝居がかって聞こえた。


「次はない」

「はあ?」


 切れ気味に言って、渋面を向ける。


「はあ、じゃない! 次名前を呼ばれたら、湊の二の舞になるんだよ!」

「多分、呼ばれない」


 煩そうに顔を背けて言った。テーブルに拳を叩きつけると、今度はこちらが獅子舞のように噛みつく番だった。


「自分だけは特別だとでも思ってんの? 天から槍が降っても自分だけは当たらない的な? 甘い考えは今すぐ捨てな! 親にもらった命を軽々しく扱うんじゃないよ!」


「あの女の子、俺に首を据えてもらいたがっていた」


 私の額に人差し指を当て、ソファーに押し戻しながら言った。


「どういうこと」


 鼻息も荒く聞き返した。確は腕を組むと、考えながら訥々と話す。


「同情心を駆り立てるような感じで哀れっぽく頼むんだ。あれにとって重要なことに違いない。……俺が首を据えることで、バラバラだった体と一つになるだろ。それを強く望んでいるが、自分ではできないようだった。トカゲの尻尾みたいに、勝手に新しい頭が生えてくるわけじゃないんだ。修復には人の手が必要で、だから俺に頼んだ。勿論、術に嵌ってその通りやったら死んでいただろうけど」


 俯いて髪をかき混ぜながら、自問自答を繰り返す。


「あれは首を据えて元の姿に戻りたがっている。それには人の手が必要だが、誰でもいいわけじゃない。誰でもいいなら、とっくに望みをかなえている。多分、俺らみたいに強い霊力がないと駄目なんだ。そうでないと首すら触れないのかも……。俺には利用価値があるから、名前を呼んで始末しなかった」


 一気にしゃべってから、はっと息をのんだ。


「前、保健室で呪符に触れてしまったから。おまえより騙しやすいと思われてるのか」


 そこ、傷つくところ?


「世話焼きな性格を見込まれたんじゃないの?」


 私の呟きは耳に届かなかったようだ。


「首が胴と繋がってなければ声も出せない。だがこの場合、首は単なるメタファーとしてとらえた方がいいだろう。嘗て、誰かが首を斬るのに匹敵するくらいの大きなダメージを、あれに与えたんだ」


 暗澹とした表情になって低く呟いた。


「……その誰かは、あれに大きなダメージは与えたものの、祓うことはできなかった」


 そして、その勇気ある誰かは殺されたのだ。冷たい刃で首筋を撫でられた気がした。


「確、やっぱりだめ。次も無事とは限らない。それに朱緒が自分で落としてくれたおかげで、私たちにかけられた呪詛も解けた。深追いは止めて、ここで引くことを考えた方がいい」


 横目で私を見、確は軽蔑したように鼻から息を吐き出した。


「前にも言っただろ、勝手に俺を守ろうとするなって」


 食い下がろうとする私を制して立ち上がった。


「あれの正体が音なら、聞こえなきゃいいんだ」


 腰に手を当て、凝りをほぐすように首を右左に動かした。


「おまえは耳を塞いでも聞こえるようだから、対策が必要だけどな。さて、腹が減ったから何か作るぞ。おまえも食いたきゃ手伝え」


 そう言い捨てて、さっさと台所へ引っ込む。


「なるほど……。って何さ、人がせっかく心配してあげてるのに」


 口を尖らせた途端、猛烈に空腹を覚えた。考えると今日は昼食を食べ損ねている。


「確ちゃん、パパッと作れるやつにしてくれない?」


 もみ手をしながら台所へと向かった。


 野菜炒めと生姜焼きでご飯をお代わりし、すっかりくちくなった腹を抱え部屋に戻ると、制服を脱いで部屋着に着替えた。スカートを吊るすとき思い出して、ポケットから確の答案用紙を引っ張り出す。


「これがあればテストは楽勝」


 答案を丸暗記すれば、カンニングではない。ないはずだ。鼻歌を歌いながら答案を広げたとき、もう一枚紙きれが挟まっているのに気付いた。


「なんで?」


 手の中のお札を不思議な思いで眺める。朱緒の額に張り付けようとしてから、どうしたのか記憶にない。下に落ちていたのを答案と一緒に拾ったとしても、汚れ一つないのも妙だ。私は上靴で散らばった用紙をかき混ぜたのだし、現に確の答案には靴底の型がくっきりと付いている。


「もしかして……」


 玉置神社のご祭神が味方してくれた? それがゆえに、頭痛もましだったとか?


「ありがとうございます」


 両手に捧げ持ち整理ダンスの上に置くと、柏手を打って深々と頭を下げた。あの程度の痛みなら戦える。いや、むしろ本物を察知するのに役に立っていた。


 百人力を得た気分で机に向かう。ノートを広げると、確の答案を書き写し始めた。暗記物はこうやって何度も書いて覚えるのが自分に合っている。暗記力はあるほうだと思う。転校ばかり繰り返していなければ、こんなに勉強で苦労することもなかったはずだ。


 暫くシャーペンを走らせ、ふと気が付いた。あんな騒ぎのあった後だ。明日学校があるとは限らない。そういえば、追って連絡をするとかなんとか言っていたような。


「なーんだ」


 シャーペンを放り投げ、仰向けに寝転がった。途端に昼間の疲れが襲う。全身が重い。畳にめり込みそうだ。


 習慣とは恐ろしいものだ。どんなにクタクタでもその日の課題を始末しないと気持ち悪くて眠れない。小学生のころは宿題を終えてからでないと遊びにも行けなかった。別に母親が教育ママだったわけではない。クロウが許さなかったからだ。


 ランドセルを放り出して家を飛び出そうとする私の背中に、「万琴」とクロウが呼びかける。その降り積もる雪のように静かな声に、私の足はピタリと止まる。振り返ってただクロウと目を合わせただけで、だって恵美ちゃんと健ちゃんに遊ぼうって誘われたから、という言い訳は胸の奥に引っ込んでしまう。背筋を伸ばして、机に向かう。


 クロウが怖かったり、厳しかったわけではない。現にクロウは、「もっと勉強しなさい」とは一言も言わなかった。ただ約束事を守ることに、とても真摯だったのだ。

 私は、クロウをがっかりさせるのが心底嫌だった。宿題を終え、「遊びに行ってもいい?」と聞いたときにクロウが頷きながらほほ笑むと、ああよかったと至福の思いで駆け出してゆく。自分はクロウの言う通り、強くてよい子なのだと心から信じて。


 裏山には大きな神社があって、山全体が境内となっていた。麓近くには遊具を置いた児童公園もあって、近所の子供たちの格好の遊び場になっていた。私は女の友達より、やんちゃな兄の友達といる方が楽しくて、韋駄天のごとく山を駆け巡って遊んだ。しかし時には女だからと爪はじきにされることもあって、悔し涙を流していると必ずクロウが慰めてくれた。そして日が暮れるまで、参道の途方もなく長い階段で『グーチョキパー』をしたり、隠れ鬼をしたりと、遊びの相手をしてくれたのだった。


 よくあんな子供の遊びにまで、嫌な顔一つせず付き合ってくれたものだ。今思えば、申し訳なさでいたたまれなくなる。クロウは、いつでも優しかった。


 こめかみを伝い、熱い涙が次々と流れた。クロウが去ってから、こんな風に昔のことを思い出すのを、私はずっと意識的に避けていた。これ以上胸が痛むのを恐れて。


「クロウ、会いたいよ」


 言ってしまうと、後はもうとめどなく涙が零れた。この涙が枯れるころ、クロウのいない生活が日常になってしまうのだろうか。取り返しのつかない宝物のような日々を、いつまで心の中に鮮明に留めておくことができるだろうか。

泣きながら、いつの間にか眠りに落ち、そして夢をみた。


 私は真っ暗な山道を疾走していた。目を開けているのかも分からない暗闇をただ一人、獣のように研ぎ澄まされた本能でひたすら突き進む。恐れや孤独は感じなかった。空っぽの心で、冷たい風が幾千もの矢となって身体の中を通り過ぎてゆくのを感じた。


 やがて地面がじわじわと発光し始めた。ほの白く光る道が、曲がりくねりながら彼方へと伸びてゆく。私は両腕を広げると全身で風を切り、物凄いスピードで飛んだ。進むにつれ、眼下を流れるほのかな白い光が、闇を背景にびっしりと整列した文字の羅列だと知り、全身の血液がざあっと音を立てて流れた。これは、経典だ。この道は、クロウが辿った道だ。


 この先にクロウがいる。クロウが、私を呼んでいる。

 狂おしい歓喜が湧き出した。翼に力を込め、はやる心で光を追いかけた。鋭くなった聴覚が、はるか遠くの音を捉えた。聞き覚えのある音が、間隔を置いてもう一度。これは鼓の音だ。誰かが鼓を打っている。


 その時、経文が光り輝く曼荼羅のように立ち上がり、私の身体を取り囲んだ。それを突き抜けると、そこはビロードのような夜空だった。山影に松明の灯りが点々と瞬くのが見えた。斜面に沿って石の階段が伸び、その両脇に幟が立ち並んで風にたなびいている。頂上に朱色の鳥居が浮かび上がる。鼓の堅く乾いた音がした。


 音に導かれて降下すると、祠の前に敷いた筵の上で、年老いた神主が鼓を打っていた。感情のない機械的な動作が、ゼンマイ仕掛けの人形を思わせた。空にはオブラートのような月がかかり、木々の影が杜の底を一層暗くしている。ゆっくり旋回した後、人の気配がする方へ飛んだ。


 黒い木立に囲まれた井戸の底のような境内には、大勢の人が寄り集まっていた。社務所の軒先に大きな提灯がぶら下がって、橙色の鈍い光を放っていた。光に誘われ迷い込んだ蛾が、外へ出ようと何度も体当たりを繰り返えしている。


 祭りにしては静かだった。御神楽もなければ、陽気なお囃子もない。粗末な着物姿の人々は、皆揃って疲れ切り、むっつりと押し黙っている。そして時折ちらと盗み合うように視線を交わす。鼓の音が不穏な静けさを煽り、徐々に速度を増してゆく。奥の暗がりに注連縄を張り巡らせた大きな一枚岩があって、黒々とした瘴気を吐き出していた。


 境内にざわめきが広まった。男たちが鳥居をくぐってやって来た。そろいの白装束に身を包み、粗く削った面で顔を隠している。鼓の音が高くなる。山刀のような太刀を提げた者がいる。その後ろを、白い鈴掛をまとった、ほっそりとした青年がついて行く。髪も髭も伸びていたが、間違えようもなかった。


「クロウ!」


 だが私の口から出たのは「アァ」という物悲しい烏の鳴き声だった。クロウがちらと上を向いた。だがすぐに前方を見据えると、しっかりとした足取りで、真っすぐに注連縄を巡らした岩へ向かって歩いて行く。女たちがその背に向かって手を合わせた。


 クロウはさっと岩に上ると結跏趺坐を組んだ。静かに両の親指を合わせ、目を半眼に閉じる。男の一人が白い布で目隠ししようとするのを、首を振って拒否した。太刀を持った男がクロウの背後に回り、ゆっくりと鞘を払った。


 今や鼓はゼンマイが外れたように打ち鳴らされていた。音に合わせて心臓が早鐘を打った。私は醜い鳴き声を張り上げ、クロウの頭上をバタバタと飛び回った。太刀を構えた男に飛びかかり、目玉を抉ろうとした。だが誰にも私は見えなかったし、鳴声も届いてはいなかった。私は異界を飛ぶ烏で、この現世に何の影響力も持たなかった。


 クロウは低く静かな声で経を唱えていた。クロウの決意を思うと、胸が張り裂けそうだった。クロウは自分の命を犠牲にして、この穢れをあの世に祓い捨てようとしていた。神を祓うには、それしか方法がないのだった。


 男が太刀を上段にかざした。気が狂いそうになりながら、なおも私はクロウの頭上を飛び続けた。男がうんと背を逸らしたかと思うと、勢いよく太刀を振り下ろした。

その瞬間、私の翼は折れ、真っ逆さまに地に落ちた。クロウの身体がゆっくりと前に傾いで倒れた。首が転がり、私の目の前で止まった。その口がわずかに動き、まだ経を唱えているのだった。


 神主が現れ、クロウの首を奉書紙に包んだ。真っ白な紙がみるまに赤く染まる。木の陰に、小さな鳥居があった。神主はクロウの首を持ち、鳥居をくぐり階段を上ってゆく。私は折れた羽を引きずり、その後を追った。


「可愛そうに」


 汚れた裸足の足が立ち塞がった。伸びてきた手に捕まって、私は子供の胸に抱き上げられた。


「翼が折れている」


 痩せて、つぎはぎだらけの着物を着た男の子だった。私はクロウのところへ行きたい。降ろして。男の子を見上げ、アァアァと鳴いて訴えた。

 垢に汚れた顔に、黒曜石のような瞳が輝いて私を見下ろしていた。


「もう、飛べないんだね」


 その瞳から星のような涙が零れ落ちるのを見たとき、遠い記憶の中の、ぼやけた顔に突如焦点が合った。天井の隙間から差し込んだ光が、まともに目を貫いたように瞬きを繰り返えした。


 どうして。どうしてこの顔を忘れていたのだろう。


 男の子の流す涙が羽を濡らした。


「可愛そうに」


 もう一度呟くと、男の子は私を胸に抱いたまま、とぼとぼと歩き出した。


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