第18話 鬼襲

 英語の試験開始から五分で、私はすでに絶望していた。何度読んでも、全く英文の意味が頭に入ってこない。分からない単語はとばして読み、前後から推測しろと言うが、分かる単語の方が少ない場合どうすればいいのか。どれだけ豊かに想像力を働かせても、話の筋が見えてこない。模試の翌日が期末試験だなんて、この世をはかなんで消え入りたい気持ちにさせてくれる。


 今日も窓の外は雨だった。紙をめくる音やペンを走らせる音に被さるように、増水した川音が響いてくる。湿気のせいでふやけた答案用紙が手首に張り付く。


 潔く試験は諦め、昨夜見た夢のことを考えた。

 私はまた、完全な暗闇の中、険しい山道を走り抜けていた。見えない草木のざわめきを両脇に聞き、見えない眼を見開いて、風のようにただ駆ける。そのうち身体の重さが消え、魂だけで飛んでいるかのようになる。眼下にぼんやりと浮かび上がるものがあった。しかし目の焦点を合わせようとすると、頼りなくぼやけてしまう。


 そこで目覚ましの音に起こされた。同じ夢を連続して見ていると気づいたとき、とんでもない胸騒ぎを覚えた。あの道の先に一体何があるのだろう。決して愉快なものでないことは、あの不穏な暗闇から感じている。だが、行かねばならないことだけははっきりとしていた。


 今すぐにでも夢の続きが知りたい。そうかテスト中に眠ればいいのだ。そう閃いた時、突然建物が軋み、ぐらりと地面が揺れた。


「地震だ!」


 誰かが叫び、教室内が騒然となる。


「静かに! 落ち着いて!」


 担任が呼びかけた瞬間、弾けるような音と共に頭上で蛍光灯が割れ、砕け散った。担任の額や頬から血が幾筋も流れ、女子の悲鳴が甲高く響いた。振り向くと、確は鋭い目をしてすでに身構えている。


「来る!」


 ワーンと咽び蠢く音がする。気温が急速に下がってゆく。


「皆、早く外に避難して!」


 それが来る前に、皆を避難させなくてはならない。


「ここは危ない! 運動場に避難!」


 声を限りに怒鳴った瞬間、残りの蛍光灯が全て割れ、窓ガラスが吹き飛んだ。凍り付いた沈黙の後、生徒たちが一斉に出口に殺到した。机や椅子の倒れる音、怒号、悲鳴が飛び交い、破片を浴びて傷ついた者の泣き声と重なる。


「大丈夫?」


 確を振り返る。


「ああ、何ともない」


 頬から一筋血が流れていたが、他は無事なようだ。我先に逃げてゆく者たちを横目に、椅子や机を手早く教室の端に寄せた。日蝕のように視界が闇に沈んでゆく。


「気を抜くなよ」

「確こそ」


 迎え撃つ準備はできた。誰もいなくなった薄暗い教室の真ん中に、並んで立つ。緩く足を広げると、確は棒を脇で構えた。


「オンマリシエイソワカ」


 左手の中に現れた柄に右手を添える。緩やかに反った刀身が冷たく光った。

 ひたひたと廊下を歩く音が近づき、教室の前で止まった。入り口を塞ぐように、漆黒の靄を纏った女が立つ。長い髪を垂らし、黒い着物の裾を引きずり、同じく黒の帯をだらりと前で結んでいる。濡れたような髪の隙間から、鼻の先と、口元がわずかに覗いていた。


「朱緒、なの?」


 言った途端、頭に痺れるような痛みが走った。堪えきれず細めた目に、やせ細った裸足が映る。飛び散った破片の上に、朱緒はためらうことなく足を踏み出した。裸足の裏で、薄いガラス片が砕ける。


「危ない、怪我する! 止まって!」


 その声も届かないように、朱緒は重い衣擦れとともに足を進める。破片が突き刺さったまま、散らばった答案用紙に真っ赤な足跡を残して、ゆっくりと機械的に歩く。

 生臭い体臭に、血の匂いが混じった。黒髪の隙間から覗く鼻が陶器のように白い。ぐらりと身体が傾いで、探るように右手を上げる。爪の伸びたその手には、何日も洗っていないように垢がこびりついていた。


 胸がむかむかする。


「朱緒の身体を返せ!」 


 何もかも、気に食わない。


「こんな仰々しい恰好までさせて、ふざけるな! 神だが何だか知らないけど、おまえの葬式にしてやるから覚悟しな!」


 猛烈に腹が立っていた。しかし啖呵を切ったはいいが、邪神を朱緒の身体から落とさない限り、刀を振るうこともできない。胸のポケットから玉置神社の護符を取り出す。


「これでどうだ!」


 キョンシーのように額に張り付けてやろうと腕を伸ばした時、つと朱緒が顎を上げた。髪が割れ、血の気のない顔が露わになり、衝撃で動きが止まった。


 骸骨を見ているようだった。削ぎ落ちた頬に落ち窪んだ眼。美少女の面影はどこにもない。水晶体に白い霧を流し込んだような目玉が、死んだ動物を思わせた。たとえ落とせたとしても、朱緒は助からないかもしれない。予感が重く胸を締め付けた。


 朱緒の口が、からくり仕掛けのようにゆっくりと開いた。そこから小さな羽虫が一匹二匹と飛び立ち、次の瞬間には黒煙のように沸き立った。ワーンという音が部屋を満たす。


「しらかわ、まこと」


 唇を動かすことなしに言った次の瞬間、生臭い風が駆け抜け、右肩に鋭い痛みが走った。


「大丈夫か!」


 よろめいた私を確が支える。見ると制服のブラウスが刃物で切ったように破れ、ぱっくりと開いた傷口から血が流れ出していた。まるで名前を呼ぶ行為そのものが凶器となり、襲い掛かってきたようだった。


「大したことない」


 だが次の瞬間戦慄が走った。次、確が名前を呼ばれたら。


「逃げて!」


 刀を構え朱緒を睨みつける。


「馬鹿言うな。逃げるわけないだろ」


「頼むから、今すぐ逃げて!」


 朱緒もろとも斬るしかないのか。斬れば朱緒は生きた屍になる。だが一旦壊れた魂が、元に戻ることはないかもしれない。それなら今とどんな違いがあるというのか。確の命を守る方が先決だ。腹を決めた時だった。


「お前ら何やってんだ! 早く非難しろ!」


 教室の入り口に現れた男を見て、頭が真っ白になった。


「湊! なんで戻って来た!」


 確が舌打ちして怒鳴る。


「お前ら二人がいないから」


「馬鹿! 俺たちはいいから早く教室から出ろ!」


 正義感が強すぎるのも厄介だが、馬鹿は言い過ぎだ。焦る気持ちの片隅でちらりと思う。

 湊は飛び交う羽虫に顔をしかめながら、ずかずかと教室に踏み込んできた。朱緒がゆっくりと、まるでしなを作るように腰から上だけを動かした。湊は信じられないといった顔で、目の前に立つ黒衣の女を見つめた。


「……朱緒?」


 眉を寄せ、確かめるように足を一歩踏み出す。


「どうして」


 湊が呟くと同時だった。


「やじま、みなと」


 湊の身体がたわみ、凄まじい音とともに、窓際に積み上げた机の上に打ち付けられた。のけぞったシャツの胸が大きく裂け、血しぶきが辺りに飛び散った。湊を全身で庇ったお婆さんの霊がすっと消える。


「湊!」


 血相を変え、確が駆け寄った。


「しっかりしろ!」


 制服のシャツを引きちぎるように脱ぎ、湊の真っ赤に濡れた傷口に押し当てる。


「救急車! 誰でもいいから救急車を呼んでくれ!」


 両手で止血しながら、窓の外に向かって声を限りに怒鳴った。その間にもシャツがみるみる血に染まってゆく。


「お前の敵は私だ!」


 食いしばった歯の奥から、声を絞り出す。振り下ろした切っ先がうなりを上げ朱緒の眉間を打ち抜こうとした時、ふとクロウの声を聴いた気がした。


 止めなさい、万琴。その方は悪くありません。


「だったら、どうすればいい!」


 寸止めにした刀を持つ手が震えている。怒りなのか、悲しみなのか、暴れ狂う感情を制御しきれない。


「湊、俺の目を見ろ」


 救急車を呼び続けていた確が、突然上ずった声で言った。確のそんな声を聞くのは初めてで、恐怖が全身を貫いた。

 朱緒の胸倉を掴むとぐいと引き寄せ、白濁した目を覗き込んだ。


「朱緒、聞いて! このままだと湊が死ぬ! 自分で招き入れたものは、自分で追い出すのよ!」


 部屋中に飛び交う羽虫が目や口に飛び込む。


「湊のことが、好きなんでしょ!」


 細い首が折れそうなくらい揺さぶる。


「朱緒の赤い糸の先には、湊にいて欲しいんじゃないの!」


 白く乾いた唇に羽虫が這っている。死体を相手にしている気がして、嫌悪感に駆られた。手を離すと、朱緒は人形のように力なくその場に頽れた。


「湊! 死んじゃだめ!」


 たまらず二人のもとへ駆け寄る。湊はうっすら瞼を開いていた。その目尻から涙が一筋零れ落ちた。


「湊、頑張って! 湊!」


 祖父の死に目に立ち会った時、息を引き取り際に、こんな風に一筋の涙が流れたのを思い出した。


「死なせてたまるか」


 確が自分に言い聞かせるように呟く。


「救急車はまだ来ないの」


 スカートのポケットをまさぐり、スマートフォンを引っ張り出す。焦る指で操作するが、見ると電波が通じていない。


 悪態をついてスマートフォンを放り投げたとき、背後に気配を感じた。とっさに身体を反転し刀を突きつける。


 朱緒が立っていた。だがそこにいるのは、さっきまでとは違う朱緒だった。澄んだ瞳に空が映りこんでいる。


「そんな……、湊……」


 目に涙があふれ、次々と零れ落ちる。


「いやあぁ!」


 身を投げ出し、湊に縋りつくと肩を震わせ悲痛な叫びをあげた。


「朱緒が、自分で落とした」


 確と目を合わせた瞬間、校舎が大きく軋み壁に亀裂が走った。気温がぐんぐん下がる。吐く息が白い。腐臭が漂い、気配が濃密になる。闇が一段と深くなった。


「式が、大勢くる」


 湊を庇って立つと刀を青眼に構えた。黒い霧の中から、泥のこびりついた足が浮かび上がる。肩から上には、首がない。背後で朱緒の細くかすれた悲鳴がした。


「おい、俺の代わりに傷口を押さえるんだ。もっとぐっと力を込めて!」


 確が苛立ちを隠そうともせず怒鳴る。


「何があっても手を離すなよ」


 立ち上がり、腕を伸ばすとそこにはすでに棒が握られている。


「気に食わねえ。蠅聲す神だかなんだが知らないが、やることが汚すぎる」

「生贄になった人たちをこんな風に使役するなんて。許せない」


 怒りで頬が燃えるように熱い。


「なら、さっさと解放してやろうぜ」


 確の足が床を蹴った。振りかぶった棒を恐ろしいような風音と共に振り下ろす。取り囲んだ式を一気に薙ぎ払った次の瞬間には素早く左半身になり、二人をまとめて一突きにする。


 だが式は後から後から現れる。私も手の中の握りを確かめると足を滑らせた。目の前の男に刃先を向け斜めに斬り下ろすと、他愛無いほどあっけなく消える。その途端、言いようのない悲しみが込み上げた。痛烈な後悔が押し寄せて、舌を苦くした。


 だが迷ったり、憐れんだりしている暇はない。早く湊を助けなければ。次のつま先がこちらを向くのを見るなり、刀を水平に構え、流れるように駆け抜ける。


 丸腰で、逃げもしない式を斬り伏せるのは造作なかった。どの式もみすぼらしい着物姿で、やせ細っている。女子供も大勢いた。刀を振るいながら、白羽の矢が立つという言葉を思い出した。ランダムに放った矢が突き刺さった家から、次の生贄を出す。そんな風にして選ばれた人たちだったかもしれない。それぞれに名前を持った大切なわたしで、誰かの子供で誰かの親だったかも知れない。一人斬るたびに湧き上がる悲しみは、自分だけの感情でない気がした。私の中の何かが、斬った式の記憶と共鳴するのかもしれなかった。怯みそうになる気持ちを奮い立たせる。


「変だな。数が減らない」

「どこかに本体がいるはず」


 背中合わせに言葉を交わす。確も焦っているのが分かる。そう、この人たちは悪くない。悪いのは蠅聲す神だ。弾かれたように別れ、次々と襲ってくる式を斬り倒す。

 いったい何人が生贄になった。この人たちは、ただ時間稼ぎに捨て駒として操られているのだろうか。考える暇もなく次の式が目の前に現れる。反射的に体が動いて斬り伏せる。それが際限なく繰り返される。黒い霧を切り裂いているような感覚だった。この式たちも幻覚かもしれないという思いが脳裏をかすめる。こうして時間を費やしているうちに、湊の命が尽きてしまうかもしれない。焦燥が胸を焦がす。


 突然、頭に錐を突きこまれたかのような痛みが走った。一瞬息が止まる。目もくらむようなこの痛みに覚えがあった。


「確!」


 近くにいる。そう叫ぼうとしてたたらを踏んだ。いつの間にか、二メートル近い大男の式が私を取り囲んでいた。その隙間から確の背中が見える。不思議なことに、棒を構えたまま動きを止めている。確の向かいには、赤い振袖を着た女の子が立っている。


 他の式と違い、それは自分の頭を胸の前に捧げ持っていた。目は閉じ、口元は「あ」と言うように小さく開いている。真っすぐ切りそろえたおかっばの髪に、色白の顔が何処となく咲希ちゃんに似ていた。


「確!」


 式の合間をすり抜け、駆け寄ろうとしたが阻まれた。切っ先を目の前に立ち塞がる式の胸に突き立て叫んだ。


「その子が本体よ!」


 女の子が、確に向かって首を差し出すように腕を上げた。


「確! 女の子!」


 前を塞ぐ式が消えるなり突き進もうとしたとき、背後から両腕を掴まれ、ねじり上げられた。振りほどこうとするが、万力に捕まったようにびくともしない。右肩に受けた傷が痛み、背中の冷たく濡れた感触に悪寒が走る。


「女の子を祓って!」


 苦痛をこらえ、必死にもがく。だが確は女の子の首に魅入られたように立ち尽くしている。確の手から棒が消えた。その両方の手が、ゆっくりと持ち上がり、女の子へと伸びてゆく。


「確、しっかり!」


 女の子の首に向け、確は手を差し伸べる。まるで、首を受け取ろうとするかのように。


「ダメ!」


 指先に気を集中させ、それを矢のように射ようとした瞬間、別の腕に首を掴まれた。


「確!」


 叫んだつもりが、声にならなかった。式の指が首に食い込む。

 女の子の目が、うっすらと開いた。確に何かを訴えかけているようだった。もうすぐ、確の指は女の子の頬に触れる。首が絞めつけられ、つま先が宙に浮いた。


 確は術に嵌った。もうお終いだ。湊は助からない。みんな死ぬ。絶望が目の前を暗くした。溺れた魚みたいに息ができない。


「オンキリキリバサラバジリホラマンダマンダウンハッタ!」


 途切れそうになる意識の底で、クロウが助けに来てくれたのだと思った。 


「オンシュチリキャラロハウンケンソワカ」


 低く通る声が、流れるように真言を唱える。胸の奥で燃え上がるものがある。最後に残った気をかき集めると、当てずっぽうに撃ち放った。


「オンコロコロセンダルシャンマカルシャナン」


 首を絞めていた式が消えたと同時に、体のばねを解き放つ。上体をひねりながら飛び降りると、すかさず刀で式の足を薙ぎ払った。


「ナウマクサンマンダバサラダンカン!」


 確が気合を発して棒を床に突き立てた。鼓膜が圧迫され、空間が見えない何かによって内と外に分断されたのが分かった。女の子が、寒天の中に閉じ込められたみたいに宙に浮いている。捧げ持った白い顔は目尻が吊り上がり、絶叫するかのように口を大きく開けている。皮膚の表面がチリチリと熱い。確が鋭い目で振り返った。全身の気が激流となって溢れ出す。


「やぁっ!」


 気合を放つと床を蹴って跳び、上段に振りかぶった斬撃を打ち込んだ。

 女の子は中心から真二つに裂け、消えた。


「やったな」


 確の作り出した結界が解け、教室の風景が戻る。強まった雨が、割れたガラス窓から吹き込んでいた。弾かれたように、確が湊に駆け寄る。


「まだよ。まだ終わってない」


 鼓膜の内側で、音が消えない。刀を構えたまま辺りに目を配る。いつの間にか飛び交っていた羽虫が、教室の片隅で蚊柱のように寄り集まって揺らめいている。その真ん中に黒い靄が泡のように湧き出し、蠢いている。それは段々濃度を増したかとおもうと、次の瞬間跡形もなく消えた。


「何だったんだ、今の」


 確が立ち上がり、隣に立つ。


「確も見た?」


 それは一瞬だった。


「ああ。あれが蠅聲す神なのか?」


「あれが神? 笑わせないで」


 黒い靄の中に、異形の何かがいた。人に似せた、闇よりも暗い、歪な何かが。


「逃げられたのか」


 その時大音量でサイレンが鳴り響き、確と窓辺に走り寄った。窓を開け放ち、身を乗り出す。


「救急車が来たぞ! こっちだ!」


 校庭に入って来た救急車に両手を振る。避難していた生徒たちが救急隊員を取り囲み、口々に何か叫んでいる。


「もう大丈夫だ」


 確は湊の傍にしゃがむと脈をとり、ほっとしたように息をついた。朱緒と止血を交代する。湊がうっすらと目を開けた。


「湊、ごめんね、私のせいで……」


 湊の足に縋り、朱緒は顔をくしゃくしゃにして泣いた。


「私、何てことを、大切な湊を傷つけるなんて……、自分を見失ったせいで……、私のせいで、湊がこんな目に……」


 うつ伏せになると、大きく抜けた襟足から、背中の奥まで骨が浮き出しているのが見えた。


「湊にもう顔向けができないよ。もう、いなくなりたい。私なんて死んだ方がいいんだ、私なんて……」


 震える背中に向かって声をかけた。


「ねぇ、朱緒」


 朱緒が悪いんじゃないと言おうとして、止めた。その代わり肩を掴んで起こすと、涙にぬれた頬に平手を打ちおろした。軽く打ったつもりなのに、朱緒はあっけなく床に倒れる。


「自分を呪うのは止めたほうがいい。自分にかけた呪詛は一番効き目がある。誰も自分からは、逃げられないからね」


 頬を押さえると、泣くのを忘れたように、朱緒は目をしばたいた。


 騒々しい声と、廊下を駆ける足音がして、救急隊員が教室に飛び込んできた。応急処置を施され担架に載せられた湊が、去り際に口の端を持ち上げて笑顔を作ってみせた。朱緒が付き添って出てゆくと、破壊された教室に確と二人取り残される。


「おまえ、いいこと言うふりして、実は高屋敷のこと一発殴りたかっただけだろ」


 眼鏡を外し、ハンカチで拭きながら言った。


「ばれた?」


 顔を見合わせ、同時に吹き出した。


「しかしどうすんだ、これ」


 足の曲がった椅子や机、ズタズタに破れたカーテンを見回し、呆れた声をもらす。


「そんなことより確ちゃん」


 腰に手を当て、ゆるりと確の前に立つ。どうしても見上げる格好になるのが悔しい。


「私に、だーいじな話があるんじゃないの?」


「気色悪い呼び方は止めろ。何だよ、話って」


 胸ぐらを掴みたいところだが。ここは穏便にいこう。


「教えてもらおうじゃないの」


 笑みを保ったまま、一歩ずつ距離を詰める。


「いつの間にあんな技、使えるようになったのかな?」


 ついに壁際まで追い詰めた。


「は? 何のことだ?」


「とぼけないで! さっきの結界のことに決まってるでしょうが!」


 罵声を浴びせると、両手を壁に叩きつけた。もう言い逃れはさせない。


「坊さんだよ」


 鼻から抜けるようなため息をつくと、確は私の肩を押して壁ドンから抜け出した。


「最後に、教えて行ったんだよ」


 先に立って教室を出てゆく。


「一回だけ教えるから覚えろって言われて。もう、必死で覚えたわー」


 振り返って私を見ると、顎を上げてにやりと笑った。


「まあ、俺にも秘密があったってことで。これで相子にしてやる」


 もう少しで礼を言いそうになり、慌てて口をつぐんだ。妙に複雑な気分で、その場に立ち尽くす。一度聞いただけで真言を覚えるのもすごいが、きっとその後、陰で鍛錬していたに違いない。毎朝早い時間に神社を出ていたのは、そのためだったのだ。

 クロウが見込んだだけのことはある。そう考えるが、胸のもやもやは晴れない。私は嫉妬しているのだ。確の才能に。


 足元に散らばったテストをつま先でかき混ぜる。思い切り蹴り上げ、舞い散る紙をぼんやりと眺めた。


「ん?」


 ふと目に留まった答案を拾い上げる。八割がた、整った文字で埋め尽くされている。ものの十五分ほどしかテスト時間は無かったはずなのに、もうほとんど解き終えている。氏名欄を見ると、確の名前が書いてあった。


「ふん、どこまでも小癪な奴」


 鼻息も荒く握りつぶし、放り投げようとして気が変わった。自然に頬が緩む。答案を広げ、丁寧に折りたたんでスカートのポケットにしまうと、何食わぬ顔で確の後を追った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る