着物と天岩戸

増田朋美

着物と天岩戸

寒い日であった。やはり3月というと、まだまだ寒い日が続いてしまうのだろう。まあ、4月になるということで、いろんな新生活の準備をしている人も多いことだと思うが、中には、新生活というより、別の意味で新しい生活を始めることになる人もいる。世の中にあることは、決して嬉しいことばかりではない。

「はい、これで、背中の鶴は完成です。梅吉さん、よく頑張りましたね。また色が薄くなったとか、そういうことがあれば、いつでも相談に乗りますので、言ってくださいね。」

蘭は、そう言って、最後の針を抜いた。自分の前に腹ばいに寝そべっていた男性は、直ぐに上着を着て、蘭に深々と頭を下げた。

「先生、ありがとうございます。また、薄くなったとか、そういうことであれば、ぜひ、先生にお願いしたいと言いたいところですが、実は、もうこちらには、通えないと思います。」

男性は上着を着て、よいしょと車椅子に座った。

「先生が、一生懸命彫ってくださるから、半端彫りにはしないと思って、ここへ通っていましたが、もう鶴も完成しましたし、申し訳ないですけど、」

「ちょっと、待ってください。それでは、どちらか通えないところに行かれるんですか?」

蘭は、思わず、梅吉さんに言った。

「はい。実は、一緒に住んでいる姉の様子が少しおかしいのでして。」

梅吉さんは、そういった。

「おかしいって?どっか体でも悪くしたんですか?」

蘭が聞くと、

「そういうことじゃなくて、精神的におかしいということです。なんだか、今日地震があったとか、そういう現実に無いことを口走るようになりまして。医者に見せようかとも思ったんですけど、姉が病院に行ってくれないので、困っております。」

と、梅吉さんは申し訳無さそうに言った。

「ああ、そうですか。それでは、早くお医者さんに見せてあげたほうが良いと思います。そして適切な治療というか、そういう事をさせてあげたほうが良いと思いますよ。それから、梅吉さん自身の事も、大事にしてください。どうしても、世間では、この間起きた大きな地震のニュースでいっぱいですからね。それを見てお姉さんは怖いと思っているのかもしれません。だから、お姉さんのお話をひたすら聞くという姿勢に徹してくださいね。大変だと思うけど、頑張ってください。もし、医者が必要なら、僕が紹介することもできますので。」

蘭は、梅吉さんの事を心配そうに言った。どうしても蘭自身も、自分のお客さんには、必要以上に情が移ってしまい、なんだかアレヤコレヤと言ってしまいたくなるものであった。

「ありがとうございます。僕も、無力な弟ですけど、頑張って姉を支えようと思います。」

梅吉さんは、そう言って蘭に、刺青の施術料である2万円を支払った。蘭は、領収書を書いて、車椅子を動かして道路へ出ていく梅吉さんを眺めながら、この人は大丈夫かなと、心配そうに、見つめていた。

それから、数日が経った日。

「先生!お願いです!ちょっと聞いてくれませんか!」

もし歩けたら、駆け込んでくるだろうと思われる口調で梅吉さんが蘭のしごと場にやってきた。

「ああ、あの、麻生梅吉さん。」

蘭は急いで飲んでいたコーヒーを飲み込んで、玄関先へ行った。

「どうしたんですか。なにかありましたか?」

とりあえず、梅吉さんを、蘭は仕事場の中に通した。そして、直ぐにインスタントコーヒーを淹れて、梅吉さんの前へ差し出した。梅吉さんは、涙をこぼして、そのコーヒーを一気に飲み干した。

「本当にどうしたんですか?そんな逼迫した顔して。」

蘭は梅吉さんにそう言うと、

「はい。姉が、洗剤を飲んで自殺しようとしました。幸い、発見が早かったので、命に別状は無いと言われましたが、僕は大好きだった姉が、そううやって、僕の事を、裏切るような真似をするというのが、びっくりしました。」

と、梅吉さんは、泣きながら言った。

「それは大変。でも命に別状はなかったのなら、それで良かったと思うことにしましょう。大変なのはこれからですよ。一度、自殺を図ってしまうくらい絶望してしまうと、なかなかそこから立ち直るのは難しいですからね。それはやはり、ご家族である、あなたの協力が不可欠になりますから、まずそこを固めましょう。」

蘭は、直ぐに梅吉さんを励ますように言った。

「そうですね。遺書のような物があって、もういきていけないと書いてありました。僕がこんなに心配しているのに、姉には届かなかったということでしょうか?」

「いえ、自分を責めてはなりません。お姉さんは、お姉さんの世界を持つことが必要です。だから、そうだな、お姉さんには、どこか通う場所があってほしいですね。支援センターのようなところは、通ったことはありませんか?」

「いえ、ありません。」

蘭の質問に梅吉さんは直ぐに答えた。

「どうして行かれないんですか?」

蘭が聞くと、

「はい。世間体が悪いとかそういうことじゃなくて、姉がでかけたくないと言っているので、それをなんとかすることができなかったんです。」

と、梅吉さんは答えた。

「それは困りますな。そういうことなら、まず、なんとかして外に出てもらうことを目標にしましょうか。」

蘭がそう言うと、梅吉さんは小さくなって、

「ええ。以前、そういうのを専門にやってくれる業者というのに電話して、お願いしたことがありました。しかし、連れて行かれたところが、新興宗教みたいな、そういうところで、ますますひどくなって帰ってきたことがあります。それで姉は、余計に外へ出なくなりました。」

と言った。全く、悪質な引き出し屋も困ったものだ。そういう悪徳企業が多いから、正当なアドバイスができなくなってしまう。

「でも、お姉さんは、明らかに治療が必要だと思うので、そこから少しづつ外へ出るきっかけにしていけばいいんじゃないかと思います。そういうときは、ご家族が説得しても意味がないと思うので、専門家にお願いして、外へ出てもらうことをしてもらうのが一番だと思うんですが。でも、困りますよね。そういうのを悪手にとって、変なところに連れて行く商売もあるので。」

蘭は、ちょっとため息を付いた。

「ええ。姉はなかなか人を信じてくれません。先程言ったことが原因であるとは思いますが、僕らがいくら病院に行こうと言っても効果は無いですし、挙げ句の果てに自殺まで図ってしまって。本当にどうしたらいいものか。僕は分からなくなってしまいました。」

梅吉さんは、小さな声で言った。それと同時に、蘭の家の玄関のインターフォンが五回音を立ててなった。そして、

「おーい、蘭。買い物行こうよ。今日は、魚屋が安売りだぞ。」

と、玄関先からでかい声で杉ちゃんの声が聞こえてくる。同時に玄関のドアをギイと開ける音がして、

「あれ、誰かお客が来てるのか?」

と、杉ちゃんは言った。

「もう、勝手に入ってこないでよ。今大事な相談してるんだよ。買い物はもう少しあとにしてくれ。」

蘭は杉ちゃんに言うのであるが、それをものにしないのが杉ちゃんである。

「大事な相談ってなんだ?お前さんのことだから、お客と人生相談でもしてるんだろう?それなら僕も聞くよ。」

全く、なんでこういう発想になるかなと、蘭は呆れた顔をして、仕方なく杉ちゃんに部屋に入れといった。杉ちゃんは直ぐに部屋に入って、

「お前さんが蘭のところに相談に来たのか。それでは、まず、お前さんの名前と、商売を教えてくれ。」

と、梅吉さんに聞いた。杉ちゃんという人は、梅吉さんにもそうだけど、ヤクザの親分みたいな喋り方をした。だから、梅吉さんも、ちょっと怖いなという顔をしたが、

「大丈夫です。この人は、言葉は乱暴だけど、悪い人ではありません。」

蘭は、梅吉さんに言った。

「はい。名前は麻生梅吉で、商売は、カメラマンです。フリーで、記事を書いて、投稿したりしています。」

梅吉さんがそう自己紹介すると、

「僕は影山杉三で、名前は杉ちゃんだ。商売は和裁屋。まあ、言ってみれば、着物を作って、着物をみんなに届ける人だよ。」

杉ちゃんもそう自己紹介した。

「それで、お前さんは、なんで蘭のところに相談に来たんだよ?」

「はい。一緒に暮らしている姉が、ちょっと精神的におかしいなとは前々から思っていたんですが、自殺を図ってしまって。幸い命に別状は無いので直ぐ返される予定ですが、これから、どうしようかとか、そういうところを、先生に相談したかったんです。」

杉ちゃんに言われて梅吉さんは、そういった。

「なんでも、過去に悪い引き出し業者に絡まれて、ひどいことされたりもしているらしいから、それも、傷ついているみたい。だから、ずっと外へでていないらしい。」

蘭がそう付け加えると、

「そうか。それなら簡単だ。なんとか、外へ出るきっかけを作ればいいんだ。」

杉ちゃんは単純に言った。

「そうだけど、それができたら苦労はしないよ。杉ちゃん。今そのきっかけを作ることが難しいじゃないか。だから、梅吉さんは、相談に来たんだろうし。そんな単純に結論を出してはいけないよ。」

蘭は思わずそう言うが、

「簡単じゃないか。引き出し屋と思わせないように、彼女を外へ出させればいいんだ。僕は考えがあるのだが、梅吉さんの仲間だと言って、着物を持って、お姉さんに着物の訪問販売をする。幸い、作ったものはあるので、それを気に入ってくれれば、お姉さんだって、外へ出てくれるきっかけになるんじゃないのかな?そういう作戦はどうだ?」

と、杉ちゃんが言った。

「そうですか。でも着物なんて、高級なものだから、僕たちには手が出ませんよ。」

梅吉さんが言うと、

「いや、大丈夫だ。着物は今はリサイクル品がたくさんあるし、それを販売すれば、1000円でも買えるよ。だから、そこを強調すれば、着物を来てみようという気持ちになるはずだよ。それに着物を着たときの、嬉しさというか、自分の変わりぶりは、本当にすごいからね。」

杉ちゃんは、でかい声で言った。

「なんだか、天岩戸みたいですね。閉じこもってしまった人を、そういうもので、なんとかしようなんて。」

蘭は、思わずそう言ってしまうのであるが、

「まあ、でも、今どき着物を欲しがる若いやつなんて、みんな訳アリのやつばっかりだから、そこも、外へ出てくれるきっかけになるだろうから、きっと大丈夫だよ。」

杉ちゃんはカラカラと笑った。

「そうやって、協力してくれるならありがたいです。僕もなんとか、姉に外へ出てもらいたいと思っているので、杉ちゃんさんの作戦、受けようと思います。」

と、梅吉さんが言った。蘭はまだ心配そうだったが、

「僕も、姉には外へ出て、また太陽の光を浴びてもらいたいと思っているので。」

と、梅吉さんがいうので、杉ちゃんの作戦に従ってみようと思った。

さて、その次の日。杉ちゃんと梅吉さんは、二人で介護付きのタクシーに乗り込み、梅吉さんの家に行った。梅吉さんの家は、平屋の一戸建て。車椅子で暮らしている梅吉さんのために、そういう作りになっているのだろう。

杉ちゃんは、直ぐにタクシーを降りると、インターフォンを押した。

「あの、すまんが、影山杉三というものですがね。」

杉ちゃんは単刀直入に言った。

「僕、リサイクルきものの訪問販売やってるんだ。悪質な業者とか、そういうものじゃない。ただの、お楽しみの和裁屋だ。お前さんにも、着物を見てもらいたくて今日はこさせてもらったんだ。どうだろう。ちょっと見てみてくれるかい?」

応答したのは、女性の声であった。このうちに住んでいる人は、梅吉さんと、お姉さんの重子さんの二人だけだと蘭から聞いている。杉ちゃんは応答したのは、重子さんで間違いないなと思った。

「でも、着物なんて高級なものだから、めったに着られませんよ。」

と、重子さんはそう言っている。

「いやあ、そういうわけでも無いんだよ。リサイクルの着物であれば、1000円とかで、いいものが買えるよ。もう本当にね、着物は、身近なものだ。もう洋服と変わらない値段で平気で買えるんだ。だから、気軽に着てみてほしいな。それに着付けだって、紐二本あれば直ぐ着れる。」

杉ちゃんがでかい声でそう言うと、重子さんは、ちょっと警戒が和らいだのだろうか、ギイとドアが開いて、顔を出してくれた。そこにいたのが、車椅子の杉ちゃんだったので、悪質な訪問販売業者とは偉い違いだった事を、重子さんはわかってくれたようだ。

「ほら、着物を持ってきた。まずこれが、小紋ね。ちょっとお出かけするにはちょうどいいよね。お食事とか、そういうときにいいよ。これは、青海波の柄に、雲が付いているが、これは幸福で平和であるという願いも込められているんだよ。」

杉ちゃんはカラカラ笑って、着物を一枚取り出した。確かに青海波と、雲が入った、とても素敵ながらの赤い小紋着物だった。

「次に、これが、訪問着ね。ちょっと改まったコンサートなどに行くにはよく使えるよね。あるいは展示会を見に行くときとか、そういうときもいいぜ。これは、今の季節らしく、水仙が入っている訪問着で、可愛いと思うよ。」

続いて出したのは、水仙の花を下半身に入れた、訪問着だった。鮮やかな黄色がとても美しい訪問着である。

「で、ラスイチが、これは、小振袖。訪問着と同じような使い方をするが、振袖の仲間なので、ちょっとおしゃれをしたい改まった外出に使えるかなあ。大体訪問着がワンパターンで嫌だっていう人は、これで行くことが多いんだけどさ。まあ、それも時代の流れというべきだろうね。マーガレットを全体に入れた紺色の小振袖。他のに比べると大人っぽいが、綸子生地だから、良い生地だよ。」

杉ちゃんは、三枚目の着物を取り出した。

「何も怖がる必要もないだよ。これを着ちゃえば、信じられないくらい自分が変わって見えるよ。それでは、どれか一つ、着てみたらどうだ?」

杉ちゃんに言われて、重子さんは、そうですね、と小さな声で言った。

「そうなんですね。あたしみたいな人が着物なんか着ても良いものでしょうか?あたしは、着物なんて着れるような偉い人でもないし、お金持ちでもありませんよ。」

「いやあ、それで良いんじゃないか?着物を着て、自分が楽しいと思ってくれればそれで良いのさ。大体ね、着物なんて、このくらい安くしなくちゃ売れないし、それに大体の人は着物なんて興味持たないで終わっちゃうよ。それを着てみたいと思うやつはな、大体、訳ありとか、病んでいるやつとか、そういうやつばかりなんだ。若いやつで、着物を着るやつなんて、本当に少ないからさ。ちょっと、スター的な気持ちにもなれるよ。それでどう?」

杉ちゃんに言われて、重子さんはまだ迷っているようである。

「ねえさん、着てみたら良いじゃないか。ねえさんの事を、ここまで考えてくれる人は、そうはいないって、ねえさんはいつも言ってたじゃないか。こうして、ねえさんに着物を持ってきてくれて、可愛くしようなんて考えてくれる人はそうはいないよ。そうやって、意地張ってないで、杉ちゃんの言う通りにしてみようよ。」

と、弟の梅吉さんが言った。重子さんは、そうですねと小さな声で言った。

「だから着てみるといいさ。着物は、誰でもおしゃれにしてくれるし、女性らしさも出て良いものだよ。長襦袢とか、そっちの方は、また少しづつ用意していけば良い。ちょっと、着物を羽織って、おはしょり持ち上げてみな。」

杉ちゃんはそう言った。重子さんは、訪問着を取ってみて、そのとおりにそれを羽織ってみた。

「もし、おはしょりをつけるのがきついようであれば、おはしょりを縫って、ガウンみたいに着ることもできるからね。それは、すぐできるから任せとけ。」

杉ちゃんは、カラカラと笑った。直ぐに梅吉さんが、姉の重子さんに、玄関の靴箱の扉につけられている鏡を覗いて見てよという。重子さんはそのとおりにした。

「わあ、自分じゃないみたい。」

思わずそう言ってしまう重子さん。

「だろ?それを着られるってことは本当に幸せなんだよ。だから、お前さんも幸せなんだ。それを考えれば、誰も不幸だなんて考える必要もないじゃないか。それなら、着物を着て、たくさん楽しんで見たら良いってもんじゃないか。」

と、杉ちゃんが、言った。杉ちゃんのいうことを聞いて、重子さんは、

「本当にきれいですね。着物って、不思議な魅力がありますね。」

と、にこやかに笑った。それを見て、誰かが泣いている声が聞こえてくる。誰だろうと思ったら、梅吉さんであった。

「一体どうしたんだよ。」

杉ちゃんが言うと、

「だって、姉ちゃんが、こうして楽しそうにしてくれた顔なんて、僕が見たのは、何年ぶりでしょうか。そんな顔をしてくれた姉ちゃんを見ることは、もうできないんじゃないかと思いました。でも良かったです。着物は姉ちゃんを笑顔にしてくれた魔法みたいなものですね。」

と、梅吉さんは、涙をこぼして嬉し泣きをしてしまうのだった。

「そうだねえ。それなら、お姉さんのことをいつも考えてくれている弟さんのことも、しっかり考え直すんだな。まあ、人間誰でも一人で行きていけるわけじゃない。必ず誰かが手を出さないと、生きていけないんだよ。それも忘れないで、生きていってね。」

杉ちゃんがそう言うと、彼女、重子さんも、涙をこぼしてしまった。

「そうね。なんかいろんなことに怒っていた私だけど、それ以外のこともあるのかもしれないわね。ありがとうね。」

重子さんは、そう言ってくれた。生きているということは、時々とんでもない矛盾とか、すごい怒りを持ったまま生きていかなければならないこともある。それを、誰かに話しても解決しないこともある。それをなにかに頼ることで、解消しなければならないこともあるだろう。その中で、自分が変わるということも大事なことだ。それを解決させるのに、着物が良い道具になってくれるということも、忘れてはならないことでもあった。

暖かい南の風も拭いてきた。もうすぐ春なんだなと思わせる日であった。



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着物と天岩戸 増田朋美 @masubuchi4996

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