後編

 先生は、初老で小柄で、性格も穏便な男性教員でしたが、このときは泥棒が警察を恐ろしく感じるのと同じ原理で、まるでハートマン軍曹のように見えたそうです。


 そして軍曹もとい先生は、ジロリと睨みを利かせてから、なにかを囁きました。

 Kくんによれば、おそらくこのとき言われた内容は、


「今日、君、生活ノート出してないよ」


 だったのだろう、とのことです。


 生活ノートとは、生徒たちが授業の時間割や持ち物のほか、日記や相談内容などを書いて、毎日担任に提出していた連絡帳のことです。

 Kくんは、この生活ノートについてサボり癖があり、たしかにこの日も未提出でした。なので、きっとそれに対して小言を言われたのだろうというのが、現在の彼の見解です。


 つまるところ、絡んできた男子たちは告げ口などしておらず、先生は本当に偶然通りかかっただけだったのだろう……と。


 しかし、実際にそんな偶然が起きていたとて、当時を想像するとそっちの可能性に張れる人間は、よほどの脳みそお花畑といえるでしょう。


 あらためて、


「今日、君、生活ノート出してないよ」


 という先生の軽い口頭注意は、豚箱入りを恐れる中学生の耳に、こう聞こえたのだそうです。


「凶器見せんか。とっとと出しなさいよ」


 観念したKくんは、制服の影に隠していた果物ナイフを先生へと差し出しました。なお、刀身に巻いたハンカチは、ここまでの過程でほとんど解けていました。


 当時のKくんの目には、男子三人の声無き叫びを上げるような表情かおが不思議に映ったそうですが、Kくん以外の視点では、先生から注意を受けた生徒が、突然、抜き身の果物ナイフを取り出した流れなので、その反応も無理からぬものです。


 そして彼ら以上に、先生にとってはさぞやショッキングな体験だったことでしょう。割と洒落じゃなく、その場で通報される絵面です。


 そんな状態で――Kくん曰く、「しばらくの間、そこだけ時間が止まっていた」とのこと。当初の面子以外の通りすがりの生徒たちも、その光景を見るや、歩行ポーズをキメたマネキンのごとく硬まっていったのだとか。


 やがて、先生だけがゆっくりと動きだし、無表情な面持ちで、Kくんの顔と、果物ナイフとを交互に眺めて――


 そのまま、何事もなかったかのように、無言で立ち去ったそうです。


 この不可解な行動については、重度のショックから成るものではと想像するも、未だに真相は謎とのこと。


 直後、周囲が口々に、「おまえ、急になにやってんだよ!?」などと、第三者目線で訴えたので、Kくんは早い段階で状況の整理ができました。と同時に、今後のことを想像して、全身全霊で震え上がったそうです。


 ところが、信じがたいことにKくんの凶行については、一切のお咎めがありませんでした。


 いったい、なにが起きたのか。


 これについても、真相は謎だそうですが、状況に照らすと見逃してもらったのだと考えざるを得ません。


 しかし、見逃すにしても注意の一つもなく、先生のKくんへの接し方も、事件当日ですらまったく代わり映えがなかったと言います。

 となると、本当に信じがたいことですが、現場で何事もなかったかのように立ち去った先生は、本当に何事もなかったことにしてしまったのでしょう。


 あるいは、何事もなかったのだと、本当に思い込んでいたのでしょうか?

 想像すると、薄ら寒いものがあります。


 さておき、Kくんに関しては法的な厳罰は免れたものの、


「生活ノートを出せと言われて、果物ナイフを出したヤバいやつ」


 という、何ら脚色も弁解の余地もない逸話が広まり、ときには「果物ナイフ」が、そのまま当人の呼称になるなどの、気まずい学校生活を送る羽目になったそうです。


 以上が、Kくんが生活ノートに書けなかった黒歴史です。

 ここでの公開が、彼のトラウマの浄化並びに、青少年による安易な反社会的行動への抑止力となることを願います。


 おわり

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

生活ノート 黒音こなみ @kuronekonami

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画