3.復刻版


 それから十五年が経った今、私は一般職の会社員をしている。お化粧を覚え、無難な服装を覚え、内気な自分を叱りつけながら『普通の会話』や『普通の相槌』も覚えた。上席の人への接し方も、何となくわかってきた。酒に強いのは、幸運だった。若い層が飲み会に出席しないのが普通のことになっても、重要視しないといけない席というものは存在する。


 十二月の寒い日、会社の部の忘年会が開かれた。仕方なく出席した私が下座で少し年上の女性と楽しそうな顔を作りながら飲み進めていると、「リップの色、変えてみたら?」と言われた。彼女は私が子供の頃から苦手としている、いわゆる『騒がしい部類の女子』だ。


「この色、好きなんです」


「えー、淡いピンクなんて流行らないって。オレンジ系がいいんじゃないかな。もっとかわいくなれるよ」


「そうですか? 勉強になります」


 『勉強になります』は、こんな時に便利な言葉だ。彼女は満足げに「そうよ、今はオレンジ系なの」などと言っている。本当は流行りのオレンジ系なんてどうでもいいが、波風を立てるのは本意ではないから、これでいい。


「ねえ、彼氏いないんでしょ? 誰か紹介してあげる。……あ、ちょうどいいところに! 松田さん、こっち来ない?」


「酔ってるんですか? 私なんて誰も相手にしませんよ」


「そんなことないわよ。私、こういうの得意なの。松田さんってうちの部にいた人で、今は下のフロアなんだけど、すごくいい人でね……」


 悟られないように、私は静かにため息をついた。必要ないのに、いい人のふりをしてよけいなおせっかいを押し付けてくる人には、本当に困ってしまう。


「何? 呼んだ?」


「ああ、あのね、この子彼氏いないんだって。明るくていい子なのよ」


「へぇ」


 松田という人の、私を値踏みする視線が鬱陶しい。ひとまず場を軽くリセットしようと、「飲みすぎたかも。すみません、トイレ行ってきます」とバッグを持って席を立つ。


 トイレの個室に入ると、大きく息を吐き出す。笑顔を上手に作れば作るほど、他人が見る自分と自分が思う自分に差が出てくる。それが時々、とてもつらく感じる。


 トイレで少し粘ろうと思い、私はバッグからスマートフォンを取り出した。いつも見ている会員制SNSのページを開くと「New! あなたの学校のグループができました!」という文言が新着情報に追加されている。高校かな、と思いながらその部分をタップし、次に表示されたページを見て驚く。それは、通っていた小学校のグループだった。


 私は参加しているユーザーの名前の中から、必死に川村くんの名前を探した。今ならわかる。私はあの時、彼に恋をしていたのだ。あのリップクリームの色のように淡くて、ともすれば見落としてしまいそうな、ひっそりとした恋心。


 画面スクロールを繰り返していると、数ページ目で『川村さとる』という名前が目に飛び込んできて、心臓がどきりと跳ねた。その名前をタップして開いてみたかったが、居酒屋の女子トイレで見るのも嫌だなと、早々に飲み会から退散することに決めた。


 席に戻り、先輩と松田という男の人に「帰ります」と短く言う。「何で!?」「まだ早いよ」という言葉は無視してコートを着た。


 「お疲れ様でした」という言葉だけ残し、私は居酒屋を出て一人暮らしの家に帰った。逸る気持ちを抑えながら暖房のスイッチを入れて、着替えもせずに表示したままの彼の名前をタップする。「手紙」というタイトルの日記文を見つけて開いてみると、そこには懺悔の言葉が連なっていた。


 ◇


 あるリップクリームの復刻版をドラッグストアで見つけ、思い出したことがある。いや、思い出したというよりは、決して忘れられない出来事にきっちり閉めていた蓋が外れただけだ。


 俺は彼女と隣の席になれて喜んでいた。仲良く話せるようになってうれしかった。転校したあとの手紙のやり取りは、心が躍るものだった。でもある時、家に遊びに来た友達に手紙を見られてからかわれ、もう送らないでくださいとはがきに書いて送ってしまった。郵便ポストに入れたあと後悔が襲ってきたが、もう中学生なのだから仕方がないと自分を無理に納得させていた。


 その後、彼女はハンドクリームを送ってくれた。メモや手紙は何も入っていなかった。きっと荒れている自分の手を心配していたのだろう。彼女のそういう控えめな優しさが好きだった。一方的に傷付けたのに優しくしてくれるなんて、中学生になっても変わらないなと思うと、お返しをしたくなった。悩んだ末に、かわいいリップクリームを選んで送った。ほんのりピンク色を乗せた彼女の唇がかわいかったから。返送はされてこなかった。きっと受け取ってくれたのだろう。そう思うと、少しだけ赦された気持ちになれた。


 ◇


 日記文は、「できるなら、会って謝りたいと思う」という言葉で締められていた。



 ◇◇



「おとうさん、いつかえるの?」


「いつかなぁ。早く帰ってきてほしいね」


 ソファの上の娘の問いに答えると、「おとうさんのほうが、おりょうりじょうずでしょ」などと生意気なことを言われる。


「お母さんの料理は嫌なの?」


「いやだわーむけないわーこまったわー」


 料理が嫌なのかと聞いただけなのに、娘が私の言葉を楽しそうに真似し始めた。そんなにいつも言っていたかな……と困っていると、夫から『仕事終わったから帰るよ』とメッセージが届いた。


『お疲れ様でした。さゆりが私のことからかうの』


『なんて?』


『むけないわーこまったわーって、私の真似をするのよ』


『ああ、由里子はしょっちゅう野菜にそう言ってるから』


『そうだったかな? でもしょうがないわよ、悟くんの方が上手なんだから』


 そう返信してさゆりの方を見ると、テレビ画面に映し出されているアニメ映画に夢中になり始めたようだ。


 夫に『気を付けて帰ってきてね』と追加でメッセージを送り、私はキッチンに立った。人参の皮は、帰ってきた夫にむいてもらおうと思いながら。

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初恋 祐里 @yukie_miumiu

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