第29話 さあ、地獄へと

 ───意識が覚醒する。

 決着は既についていた。ソリアが精神領域から目覚めたときには、リアンシェーヌの肩口には戦斧が深く突き刺さっていた。追想術式の発動に手こずり、回避まで手が回らなかったのだろう。

 長いことあの空間にいた気がするが、現実世界ではそれほど時間が経っていないのか、リアンシェーヌの身体からは勢いよく血が吹き出している。白いドレスに、加速度的に赤が侵食している。

 リアンシェーヌはもう死ぬ。鮮血魔術により人体構造を深く理解するソリアだからこそ、その事実が実感できた。

「私は変わりませんよ、あなたが何をしても、願っても」

「……。……で」

 追い打ちは必要ない。ソリアは、唇を震わせるリアンシェーヌに耳を寄せる。

「なかないで」

 その言葉に驚愕し、ソリアは自分の目元に手を伸ばす。

 涙など流れていなかった。

 よく確かめれば、リアンシェーヌの焦点があっていない。血を失いすぎて、意識が混濁しているらしかった。

「泣きませんよ。私はリアンシェーヌ様と違って、強いので」

 ソリアが言い返すと、リアンシェーヌは笑った。心底安心した様子で、穏やかに。

「よかった……」

 ぐったりと、リアンシェーヌが後ろに倒れる。危ないので、ソリアはその背を支えてカーペットに寝かせた。

 看取ってやるべきだろうか。立ち止まらないと決めたのに、彼女には誠実さを見せるべきだと、そう思ってしまう。

 窓の外で立ち上る煙が、ソリアの虚しさを助長させていた。

「あなたの勝ちです。少しくらいなら、言うことを聞いてあげますよ」

 自由に生きる。それは命じられるまでもなく、自分が掲げていたはずの理想だった。

 いつの間にか捻じれ、歪み、こんな所まで来てしまったが……

(ナタリー、あなたもそうだったのですか)

 ここまでやった以上、復讐はやはり中止できない。これまでの行いを無意味にはさせられないから、引き返すことは出来ない。しかし、後悔があった。もっといい選択が、自分の手の中にはあったような気がした。

 ナタリーが答えを他人に求めた理由も、今ならわかる。

「託した相手が間違いでしたね。もっと良い人に出会っていれば、あなたもこうはならなかったのに」

 ナタリーの心臓が、ドクンドクンと跳ねている。彼女はもうこの世にはいないが、ソリアの中に眠る心臓は、どうもたまに、生きているみたいに振る舞う癖がある。

 もしここに彼女がいたのなら、私に何を言うのだろうな。

 ───立ち上がる。心臓の鼓動が聞こえる。

 まだやるべきことがソリアには……

「あなた、とっても可哀想ね」

「!?」

 まるで地獄から這い出てきたかのような、邪悪な気配。ぬっと、ソリアの真横で女が顔をのぞかせてきていた。

「今更思い出したわ。あなた、前にアルマのとこから脱走してた奴隷、よね」

 背の高い女だ。その声色は妙に甘く、服装は死神のように黒い。

「グラース」

 ナタリーを殺した、ソリアにとっての一番の復讐相手。不意打ちでもすればいいところを、態々声をかけてくるなんて、間抜けな女だ。

「約束は、守らないといけないわ。あなたが絶望の淵に沈む時、迎えに行くと告げたのだから」

 興奮した様子で、グラースは喋り始めた。彼女の身体には所々傷があり、中から見える肉がグロテスクだったが、本人に気にする様子はない。

 逃げることはできない。グラースの教会の解体計画を中断してしまった以上、こいつを野放しにすることはできない。エヴァインとの裁判でグラースが勝ってしまえば、こいつは不利益を被ることなく終わってしまう。

「場所を変えましょう。ここは、よくない」

 リアンシェーヌが転がっている状態では気が散ってしまう。本気で勝ちに行くのなら、こんな場所で戦うわけにはいかない。

 言葉を発する気力もないようだったが、リアンシェーヌはソリアを見つめている。

 心配することはない。ソリアはもう、負けはしない。

「あら、リアちゃんをこうさせたのは、あなたなのに」

 愉快そうに、グライスが首を傾げる。ムカつくやつだが、返す言葉もないのが悔しいところだ。

『葬礼術式展開』

 グラースが手を振り上げ、葬礼術式を構築する。どうやらこのまま戦闘を始める気であるらしい。

 仕方がない。その攻撃を全て防ぎきり、一瞬で殺してやろうじゃないか。

「さようなら、ね」

 グラースが術式を手のひらにまとわせ、その腕を振り下ろす。ソリアは展開済みの鮮血術式を制御しながら、手に持った戦斧で迎え撃とうとし、気がついた。

 ───この攻撃は、自分を狙ったものではない。

「っ!!」

 ソリアの真横を素通りし、リアンシェーヌに向けて高速の剛腕が振り下ろされる。防御も何もかも投げ捨てて、グラースはリアンシェーヌを殺そうとしていた。

「お前……何して!」

 戦斧を持ち替え、グラースを峰打ちする。当然それではグラースの肉の鎧は切り裂けないが、しかし単純な打撃はグラースをよろめかせ、踊り場から転落させた。グラースの葬礼術式は誰にも届くことはなく、虚空に向けて飛んでいく。

「苦しむ者は、消し去ってあげないといけないわ。その子は誰にも愛されていない。不幸で無意味な人生は終わらせてあげないと可哀想よ」

「独り善がりの極みですね」

 不服そうなグラースに、ソリアは苛立ちを隠せない。それに気がついたグラースは、自慢げに天井を指差して叫ぶ。

「独り善がりで結構。先に立つものは常に傲慢で、理不尽であるのよ。そして救済を目指す私こそ、その巨悪を全うするに相応しい」

 がばっと、役者のように腕を開いてグラースは自らに陶酔した。赤らんだ頬は、燃え盛る街に照らされたわけではなかった。

「生きるべき生命は、私が決める。人類は私という救世主によって、真なる楽園へたどり着くのよ!」

 狂気。

 グラースは目を輝かせて、赤子のようにはしゃいでいる。

「そうですか」

 笑ってしまう。こんなに自分勝手で、話の通じない人間が存在しているなんて。

 グラースもソリアも、服は破け皮膚が捲れ、ところどころ焼け焦げている。お互いに半死半生でありながら、その佇まいは堂々としていた。

「いいですね。わかりやすくて助かります」

 こいつは、邪悪だ。故に躊躇いも不安も、彼女の前では必要ない。

 これがナタリーの願い事ではないとしても、自分の本当の望みではないとしても、こいつを見逃すことは出来ない。

 グラースを殺さなければ、ソリアは前に進めない。

『鮮血魔術:疑似展開』

 鮮血術式が展開される。ソリアの筋繊維が鋼のように引き締まり、ソリアは即座に、生物が可能とする身体能力を超越する。

 間合いに入るのに、0,1秒。そこからノータイムで、重力の乗っかった戦斧がグラースに迫る。

 グラースはそれを、目で追っていた。動じることなく右腕で戦斧をつまもうとし、そして。

「おっと───」

 切り落とされる。グラースはソリアの威力を見誤り、一瞬にして利き腕を失った。戦斧はそのままグラースの胴体を切り裂き、心臓付近まで刃が深く刺さる。

「でもそれ、悪手よ」

 グラースは葬礼術式を既に展開している。彼女の肉、骨、血液のすべてが、相手の肉体を消滅させるための凶器であった。

 いかに身体能力が上がろうとも、血飛沫を躱すことは出来ない。葬礼術式は鮮血魔術によって相殺することが可能であるが、身体強化に回していた魔術リソースが対抗術式に奪われれば、ソリアはグラースの物理攻撃で致命傷を負うだろう。物理攻撃による死と、魔術的要因による死の二択を、ソリアは迫られていた。

 しかしソリアには、まだグラースに見せていない術式がある。

『火炎術式:開始』

 マルカブとの戦闘を経て習得した、鮮血術式の最奥。燃焼物質を体内に生成し、血流に乗せて一気に発火させる。

 ソリアが浴びるはずだった返り血は一瞬にして蒸発し、グラースは格闘戦を余儀なくされた。しかし、目の前に立つのは燃え盛る炎の塊。直接触れれば負傷は避けられない。

 だが、切り返し下から迫りくる戦斧をグラースは避けなかった。余裕の表情だった。

 葬礼術式を展開すれば、身体強化に回される魔術リソースはかなり奪われる。しかしそれでもグラースは、葬礼術式を展開している状態でも執行官の平均を大きく上回る肉体強度を有していた。

 そもそもこの一撃は急所を狙ったものではない。さらには下から振り上げる攻撃である以上、先ほどとは逆に重力と質量がグラースの味方をする。火炎術式で身体能力が下がっているだろうことも考慮すれば、受けても問題ないとグラースは判断した。ソリアに直接接触し、葬礼術式を叩き込むことこそ、最善の選択だと。

 しかしその思考は、単なる油断である。

『火炎術式:内燃噴出』

 ───突如、ソリアから真っ白な煙が放たれた。

 火炎術式で落ちた身体能力を補うため、ソリアは振り上げる腕を蒸発させ、その風圧によって威力を高めたのだ。

「いたい!」

 グラースが叫ぶ。なんてことをするんだと、グラースは目尻に涙を浮かべていた。臓物がこぼれ落ち、ぼとぼととカーペットに血が飛び散る。

 散らかった臓物は、グラースからしてもグロテスクであった。動揺したグラースは、咄嗟に葬礼術式を解除して肉体の修復に魔力を回す。愚かにも、肉体強度を上げることを後回しにしたのだ。

「おいおい。悠長が過ぎるんじゃないですか」

 グラースに炎が燃え移る。しかし、彼女の最も得意とする術式は治癒魔術だ。どれだけソリアがグラースの殺害を試みようとも、その肉体は無限に再生し続ける。

「うぐ!酷い!他人を燃やして痛めつけるなんて、非人道的よ……」

 初動を間違えた。最初から全ての魔術リソースを身体強化に回していれば、火炎術式を喰らおうとも耐えられただろう。いや、すべての攻撃を受けきり、ソリアを圧倒することだって可能であった。

 グラースの敗因は、安楽死という殺し方にこだわったことである。葬礼術式が相殺されるとわかっていたのであれば、グラースはソリアの頭を捻りつぶすべきだったのだ。

「死ぬまで殺し続けてあげますよ。長く楽しめてお得ってやつです」

 苦悶の表情を浮かべるグラースに、ソリアは優しく囁いた。

 楽しい。

 やはりソリアは、この人を殺す瞬間に快感を感じていた。

(ああ。やっぱり、私は……)

 リアンシェーヌは間違っている。自分は彼女が言うような存在ではない。それを確信できて……残念に思った。

「私を殺してどうなるのよ!あなたの心は、何をしても満たされない……無意味な生はないほうがいい!わたしならその悲劇的な人生を、存在しなかったことにできるのに……!!!」

「意味があったかどうかは、私が決めることです」

 心臓を刺してやっても平気そうにしていたグラースだが、流石に生きたまま焼かれるのは堪えるらしい。肉体の修復をグラースは必死に行っているが、そのせいで鮮血術式が展開できていなかった。

「死んじゃえよ、お前」

 斧を振り落とす。全身を燃やしながら、身体を切り刻む。2つ、4つ、8つ。グラースの身体が、瞬く間に細切れになっていく。

「うぎっ!やめて!酷い!」

 頭蓋を潰す。グラースが苦しそうに暴れている。

 肉片の一つが炎から免れ、意思を持ってソリアに飛んでくる。恐ろしい執念だが、しかし、ソリアに近づいた瞬間に灰になった。

 魔術は魂を持つものにしか使用できない。一度焼け焦げ肉体と呼べないほどに変質したのであれば、いかなる魔術も制御を失う。ソリアにとってこの炎は武器であり、盾であるのだ。

「うう、私は間違ってないのに……」

 声帯も焼かれたはずだが、一体どうやって喋っているのか。グラースはどうにか逃れようと体を動かし、歪な肉の触手を炎の外へ向かわせ……切り落とされ、燃え尽きる。

『『ああ、私が死んでしまった』』

 何を思っての言葉なのか。

 やがてグラースは、まるで動かなくなった。

「なんですか。案外、簡単じゃあないですか」

 グラースの灰が足元に積もり、ソリアはその上に立ち尽くしていた。戦いの熱が冷め、静寂が戻ってくる。不思議なものだ。それほど、達成感がない。

 燃え残った瓦礫の中から立ち上る煙で息苦しい。

 あとはエヴァインの領主を殺すだけだが……あいつは、リアンリェーヌの兄だ。どうしようもないクズだが、彼女の肉親だ。

「ナタリーはどう思います?」

 心臓は答えてくれない。

 まあ、でも、嬉しいことだ。人を殺す責任を故人に押し付けてはいけない。ここで人を殺したのは自分だ。どうしても許せなくて、殺してしまった。

「私がやりたいか、やりたくないかで決める。それでいい」

 ソリアはグラースの遺体をもう一度念入りに燃やして、散らばる灰を踏み潰す。階段を上って、踊り場へと戻る。

 ───ああ、終りが近い。

 最後の仕事を、終わらせなければ。

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