第28話 天秤が傾く日(後編)

 ソリアの口が堅く結ばれている。震えながら謝り続ける過去の自分を睨みつけている。リアンシェーヌはその剣幕に、一瞬呼吸を忘れた。

「ソリアちゃんは、嫌なことをされたから復讐したいわけじゃあないんでしょう?」

 不安を隠して、リアンシェーヌはソリアに声を掛ける。すると案の定、ソリアは獣のような鋭い視線を、そのままリアンシェーヌにぶつけた。

「自分のために始めたことだって、言ったはずですけどね」

「でも、あの人が亡くなって……その日からソリアちゃんは復讐の道を歩き始めた」

 やってきた上客を殺してやって、アルマの面子に傷をつける。そんな、たいした結果が出るかもわからない作戦に囚われるようになる。

「自分のためって言う割には、ソリアちゃんのやり方は、どうしようもなく自分を犠牲にしている。命一つ捨ててやることが、嫌がらせなんておかしいですよ」

 殺人を犯した奴隷がどうなるかなんて、考えるまでもない。自分の命を捨ててやることがそんな嫌がらせなんて、まるで正気ではないだろう。

「あなたのような恵まれた人間にはわかりませんよ。奴隷の立場でできることなんて、これくらいしかなかった」

 荒廃したカリアの街に、馬車が足を踏み入れる。炊かれた麻薬の香りに、ああ、帰ってきたのだと過去のソリアは実感を顕にしていた。

「できるかできないかだけの話なら……私を頼ってくれればよかったんです。そうしたら少なくとも、自由にはなれた」

「あなたに私を買い取る選択は出来ませんよ。あなたのような偽善者には」

「偽善だからこそです。良い人のフリをしたいから、ソリアちゃんが泣きついてきたら、私、きっと買い取っちゃいましたよ」

 リアンシェーヌが、情けなく自嘲する。確かに自分は偽善者で、その善行は自分の気休めのためのものなのかもしれない。しかしそれでも、いいのではないか。独善であっても、ソリアを救うことは出来たんじゃないかと、思うのだ。

「私は結局、自分からソリアちゃんに手を伸ばすことはできませんでした。ソリアちゃんが私に冷たかったことが、優しさから生まれたものだって気づけなかった」

「優しさ……?一体あなたは、私の何を見てきたんですか」

 リアンシェーヌの後悔に、ソリアが眉を顰める。この選択はこの道は、ソリアにとって名誉のものだ。同情されるなんて、許されていいことではない。

「でもソリアちゃんは、自分のために誰かが傷つくのが嫌だから、助けを求めなかったんでしょう?」

「分かったような口を利くんじゃない……!」

 握りしめられた拳が今に出ようという時。リアンシェーヌと視線があった。

「ソリアちゃんは、死にたかったんですか?」

 ソリアの瞳から、急速に鋭さが失われる。そこに宿るのは、僅かな動揺。

 否定の言葉は出てこない。次の記憶に世界が移動しようとしているからだ。

 穏やかな街だった。分類としては田舎であるのだが、森と畑しかないエヴァインの人間からすると、その場所は随分と賑わっているように見えた。石畳で舗装された道には規則正しく家屋が並び、中央の広場には噴水が建てられている。

 サウスグロウ。ソリアの生まれ故郷であった。

 街の教会では、勉強会が開かれていた。ソリアはまるで熱心ではなかったが、しかし、勉強会に行くと両親が多くお小遣いをくれるので、毎週欠かさずソリアは教会に通った。

 友人がいた。いくつか年上だが、ソリアと同じような商家の娘で、ソリアを勉強会に誘った人物でもあった。わからないことがあれば教えてくれるし、遊びにも連れて行ってくれる。ソリアにとって、姉のような存在だった。

 家に帰れば、家族がいた。晩ごはんは家族全員で食べるというのがゾラ家のルールで、そのせいで店じまいを毎日手伝わされた。仕事が終わらないと、ご飯を食べることが出来ないから。

 母親には晩ごはん作りに専念しているし、妹たちはまだ幼いから店の作業を任せられない。ソリアは自分ばかりが苦労をしているようで、少し不満だったが、家族のことは好きだった。家を出る時は「いってらっしゃい」と手を振ってくれるし、帰ったときには「おかえりなさい」と出迎えてくれる。妹たちは、勉強の邪魔ばかりしてくるが……店にある商品の名前や用途なんかを教えると、目を輝かせくれた。お馬鹿だが、可愛かった。追いかけっこで商品棚を倒してしまった時は大目玉を食らったけれど、それも、悪い思い出ではない。

「綺麗な街じゃないですか。あんな焼け野原よりも、こっちのほうがずっといい」

「過去は過去です。今更戻っても、あんな笑顔で家族と暮らしていくことは、私には出来ない」

 広場に芸人が来ているという噂を聞いて、ソリアは一度、勉強会をサボった。妹たちがどうしても見に行きたいと煩いから、仕方なくだ。

 そこにいたのは演奏家で、演出もないので、どうも面白くなかった。だからソリアはそんな芸人のことなんて放って、妹たちと少し遊んで夕方になると手を繋いで帰った。勉強会に行くべきだったなと後悔し、妹を送り届けてからソリアは教会に顔だけ見せに行くことにした。司教はソリアの頭を撫で、また来てくださいと、遅いから早く帰りなさいを、一緒に言った。

 何も不安はなかった。自分はきっとこのまま大人になって、家業を引き継いで、家族と一緒に過ごすのだろうと思っていた。

 嫌な景色だ。あんなに好きだった故郷なのに、思い出せば思い出すほど、胸が苦しくなる。懐かしさなんてない。会いたいなんて思えない。

 その日の帰り道、ソリアは人攫いに捕まった。運が悪かったのだ。ソリアは瞬く間に奴隷にされ、呪われた紋章をその体内に刻まれた。

 痛みの記憶だ。しかし、それは故郷の記憶を眺めるよりもずっと、楽であった。楽しいことを忘れている時だけ、不思議と穏やかな気分になれた。

「どうして?きっとみんな心配しているよ」

 リアンシェーヌが、幼いソリアに手を添える。刻まれたばかりの奴隷紋が、少女の胸元で赤く腫れ上がっている。

 今のソリアはどうだろうか。自分の手の中には、いつの間にか血に染まったナイフがある。こんな手で、妹の手を握ることはもう出来ない。そもそも、こんな穢れた身体で結婚なんてできないのだから、家業だってもう継げないだろう。

『こんな身体じゃ、もう会いに行けない……』

 過去の影が呟いている。ソリアのあれは、独り言だ。記憶の再現でしかない彼女が、今のリアンシェーヌを認知することは出来ない。

 そのはずなのに、あの記憶の再現は、リアンシェーヌと見つめ合っていた。

「そんなことないよ。みんな、ソリアちゃんのことをよく見てくれたでしょ?だから、大丈夫だよ」

『本当?』

 不安げに、ソリアがリアンシェーヌに尋ねている。二人並んでいると、まるで姉妹みたいだ。この時はまだ小さかったから、リアンシェーヌのほうが背が高い。

「もちろん、本当です」

 リアンシェーヌがソリアの手を握って、檻の鍵を開けた。やってくる警備も何もかもを払い除けて、二人は檻の外へと抜け出した。

「何処に行く気ですか?」

「そりゃ、お家です。夜になったら、帰らないと家族が心配しちゃいますから」

「ここで何をしても、今という結果は変わりませんよ」

 こんなのは妄想と変わらない。自分を助けられる人間は何処にもいない。手を差し伸べてくれたものは、みんな死んでしまった。

「でも、このままじゃ可哀想です」

 リアンシェーヌは、握った手の中にいる少女に慈愛の微笑を送った。

「どこが、可哀想だっていうんですか!」

 この手には、ナイフがある。誰かの手を握り返すためではなく、人を殺すための手だ。

 足元に目を向ければ、死体が転がっている。頭が取れていたり、真っ黒に焼け焦げていたり、身体が大きく切り裂かれていたり、死に方は様々だった。

 ソリアは立っている。その死体の山に立っている。

「見てくださいよ、ここに積み上げられた死体の山を!私がやったんです」

 血溜まりに、自分の姿が写っている。服は焼け焦げ、返り血で真っ赤だ。顔や髪は血で固まっていて、血がかかっていない部分を探すのが難しいくらいで、悪魔みたいだった。

「今の私は、誰よりも満たされています。くだらない同情をするな!!」

 立ち止まるとはつまり、全てを無意味にするということだ。それはソリアが、最も恐れたこと。そもそもこんな姿を家族に見せることなんてできるはずがない。

「でも、全然楽しそうじゃないよ。あんな笑顔、私、今日まで見たことなかった。あれがソリアちゃんの本当の……」

「黙れ」

 ソリアは十分に楽しんだ。血を浴びている瞬間は、すべてを忘れられた。勝って殺したあの瞬間、自分は感動していたはずだ。

 リアンシェーヌの戯言を、聞き入れる必要はない。過去の自分の幻覚にナイフを突き刺して、蹴飛ばして、痛みに喘ぐ過去に目もくれず、ソリアはリアンシェーヌに覆いかぶさった。

「ソリアちゃん。私は、ずっとソリアちゃんのこと、助けないといけないって思ってたんだ。ずっと前にこの記憶を見て、放っておいちゃだめだって思ったんだ」

 リアンシェーヌは、目をそらさない。じっと、今のソリアを見つめている。

「でも、何もしなかった。ソリアちゃん一人を助けても、不公平なんじゃないかって言い訳して」

 リアンシェーヌは、ソリアに手を伸ばさなかった。助けようとする素振りだけをして、ソリアに無力な自分をアピールするかのようだった。結局、彼女自身が助けを求めてくれるまで、リアンシェーヌは何もしなかった。

「だから、これはソリアちゃんの罪じゃなくて、私の罪なんです」

 リスクを侵してまで、助けようとしなかったのはリアンシェーヌだ。彼女を止めることが出来たのに、そうしなかった。であればこれは、リアンシェーヌの責任だ。

「誰も許さなくても、代わりに私が背負います。だから、もう何も気にしなくていいから、あの場所に……!」

「頭おかしいんじゃあないですか……」

 迷いなく言い切ったリアンシェーヌに、ソリアは困惑する。

 ソリアとリアンシェーヌは他人だ。そして今、ソリアはリアンシェーヌを殺そうとしている。それを、どうして理解できていないのか。

「ナタリーはお前の家族の悪意によって殺されました。その決着をつけずに、終わらせることは出来ない」

 首を絞める。この空間での殺人にどれほどの意味があるのかはわからないが、それでも殺してやろうと、明確な殺意を持って締める。

「じゃあ、私を殺してからでいい!それから帰ればいい!いいですかソリアちゃん。生きている人間だけが、誰かの死を意味あるものにできるんです」

 リアンシェーヌが、ソリアの胸ぐらに手をかけ引っ張った。首を絞める手が緩まり、リアンシェーヌの呼吸が再開される。

「ナタリーの悲劇を知るのはあなたしかいない。それなのに、その死を意味あるものにしたいと願っているのに……勝てない戦いに挑んで死のうだなんて、卑怯です」

「勝ち目ならあります……命を賭す行為を、侮辱するんじゃない」

「ソリアちゃんの復讐は、自分の死が前提にあります。ソリアちゃんはナタリーの生き方に憤ってたけれど、ソリアちゃんも何も変わりません。一つの生き様を貫くことだけが、美徳だと思いこんでいる」

 魔術の使えないこの世界では、ソリアはただの小娘だ。リアンシェーヌとの体格差が微々たるものである以上、少しでも抵抗されれば命は奪えない。

 いや、ソリアが手に込める力は、それにしても弱かった。焦りがあった。

「責任に押しつぶされるなら、引き返せないのなら……開き直ればいいんです。正義を捨てたって自分で言ったじゃないですか」

 ソリアは殺しすぎた。この世界に楽園があるのなら、きっと地獄に行くのだろう。

 しかしそれでも、人生は続く。神は生きている人間を裁いたりはしないのだ。

「ソリアちゃん。私はソリアちゃんに正しく生きろなんて、もう言えません。正義を捨てたなら、それでいい。だからいっそ、何もかも好きなように」

 ソリアに救われてほしいという感情を、ソリアはもう正当化出来ない。こんな事を言う人間は無責任だし、悪い子だ。

 だからもう、抱いていた理想なんて全部捨てて、一番の願いだけを叶えようと思った。

「あなたの主人として、奴隷のあなたに命じます」

 奴隷の犯罪は、その主人が背負うという。なら、もう自分は立派な罪人だ。

 いいやきっと、ずっと昔からそうなのだ。屋敷に訪れる奴隷たちを、貧しさに苦しむ領民を、母が抱いていた絶望を、ずっと見ないふりして生きてきた。であれば、最後にたった一人の友人の心くらい、救ってあげないといけない。

「自由に、生きてください」

 ソリアは、何を思っているのだろう。自分のことも、憎んでいるのだろうか。

 心を救ってあげたいのに、これから起こることを後悔してほしいとも思う。だって、死ぬのは怖いから、誰かに悲しんでほしかった。

 ───気取られてはいけない。最期くらい、やり遂げないと。

「これは私が命じたことだから……ソリアちゃんはもう、何をしても許されますよ。だから、大丈夫」

 リアンシェーヌはソリアを抱きしめる。まるで口づけをするかのように、首に両腕を回す。

 自分にできることはこれくらいしかないから……せめて彼女にとって、すべての命が意味あるものとなるように。

「大丈夫だよ」

 女神のように、綺麗な微笑みだった。

 ───ソリアの握力が強まっていく。ソリアを抱きしめていた腕は、いつの間にか地面に垂れていた。

「……馬鹿な子」

 世界が崩壊する。リアンシェーヌが作り上げた記憶の世界が、太陽に焼かれるかのように、白く、塗りつぶされていく。追想術式が解けようとしているのだ。

 魔力の供給元を失った世界は形を失い、ソリアは中に放り投げられる。永遠に続く、終わりのない落下。その浮遊感の中で───ソリアは眠るように目を覚ました。

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