第27話 天秤が傾く日(前編)
無感情に、記憶の世界を歩いていく。思い出の世界であるはずなのに、自分自身の表情や姿まで確認できるというのは、なかなか不思議であった。一体どういう原理で動いているのか、ソリアには想像もできない。
「いつまでこんなことを続けるのですか」
ソリアはリアンシェーヌに問いかける。この空間にやってきて、もう半日だ。不思議と空腹感も便意も感じないが、それはここが疑似空間であるからだろう。
「ソリアちゃんが、本当に求めているものを見つけるまでです」
リアンシェーヌは目を細める。そして陽炎のように揺らめいて、霧のように消えていなくなった。取り残されたのは、ソリアだけだ。
『ソリアちゃんは、優しいですね。こんな風に私のことを気遣ってくれる人、初めてです』
リアンシェーヌの私室が、目の前にある。扉を開ければ、ソリアとリアンシェーヌはベッドの上で添い寝していた。この日のことはよく覚えている。買われて、三日目の記憶だ。
『なんだか、好きになっちゃいそうです』
リアンシェーヌが、ソリアを抱きしめている。まるで母親にするように、無様に甘えていた。
『リアンシェーヌ様?眠ってしまったのですか』
対するソリアは、冷ややかにリアンシェーヌの後頭部を見下ろした。彼女の腕を振り払い、眠っていることをもう一度確認して、ベットを飛び降りる。
『私は、リアンシェーヌ様のこと嫌いですよ』
月明かりだけを頼りに、ソリアは机の上に放置された書類に手を取った。
───奴隷契約書だ。
【識別名:ナタリー・リングランド 契約月1071:12 状態:生存】
机上にはグラースに買い取られた奴隷契約書がピックアップされ、綺麗に名前順に並べられている。几帳面この上ないが、こんなやり方では非効率だと、ソリアは冷笑した。
ナタリーのまだ死亡届は出されていない。であれば、アリオトの策は予定通り実行されるのだろう。ナタリーという一人の奴隷を犠牲にして、敵対勢力の頭を失脚させる、実に効果的な作戦が。
舌打ちをしながら、ソリアは部屋を後にする。向かうは書斎。エヴァイン家の機密が隠された、領主の仕事部屋である。
ソリアは書庫に目当ての書類がないことを確認すると、窓を軽く空けて、くすねたナイフで床に血が溢れないように指を切った。仕事机の鍵穴に切り落とした指を近づけ、穴に合わせて骨の形状を変化させる。少し鍵穴を傷つけてしまったが、幸いにも鍵は綺麗に開いた。
ビンゴだ。中には、エヴァイン家の魔術契約書がいくつも保管されていた。
【識別名:ウィニルド・リングランド 所有者:ネメジス・エヴァイン 契約月1069:12 状態:術式摘出済み】
ウィニルド・リングランド。ナタリーから聞いていた通りの名前だった。
『術式摘出済み……?』
奴隷の生死を記録するだけのはずの状態欄に、奇妙な単語が書かれている。見たことも聞いたこともない表記だった。ここに保管されている他の魔術契約書にも、同じような表記がされている。
ソリアの瞳が揺らいでいる。首筋には汗が垂れていて、明確な焦りが見えた。
『動いてる……』
奴隷契約書には、対応する奴隷紋に引き寄せられるという性質がある。これが動いているということは、ウィニルドの奴隷紋は機能を失っていないということだ。
「リアンシェーヌ様は、彼のことを何か知っていましたか?」
「……いえ。しかし私は家族が何をしていたか、知ろうとしなかった。弁解の余地はありません」
バツが悪そうに、リアンシェーヌは答える。
……まあ、彼女は子どもだ。知ったところで、どうすることも出来なかっただろう。
リアンシェーヌが、机に並べられた魔術契約書をそっと指先でなぞる。
「もし、彼が生きていたら……ソリアちゃんは復讐をやめていましたか?」
「さあ。もしもの世界なんて、私にはわかりませんね」
ナタリーのために復讐よりもウィニルドの安全を選ぶということはあり得たのかもしれない。そんな生き方はまるで想像もできないが、しかし自分は少なくとも、この時彼の生存を願っていたのだから。
過去のソリアは契約書に従い、二階中央の寝室へと向かう。かつて聖女ネメジスが使っていた部屋だ。室内は掃除されていないのか、やや埃っぽい。それどころか、仄かな死臭がした。
女性のものとは思えない内装だった。壁には剣や鎧などの、様々な武器が飾られているが、それ以外のインテリアは最低限のものしかない。隅にある棚と机は、平民が使うような木製の簡素なものだ。飾られる武具が豪勢であるからこそ、そのギャップが目立つ。
二段目の棚に、ウィニルドの奴隷契約書が強く引き寄せられる。鍵はかかっていない。
しかし、こんな小さな棚の中に人間が入っているなんて考えられない。
恐る恐る、ソリアは棚に手を乗せる。
【移植用術式】
大きな箱があった。中を開くと、赤黒い小瓶がソリアを出迎える。
小瓶の一つ一つに、色褪せたシールが貼り付けられていた。ソリアがそのうちの、【ウィニルド】と書かれた温かな小瓶を取り上げる。奴隷契約書は、その小瓶に磁石のようにくっついた。
『……?』
ソリアの気のせいでなければ、その小瓶は脈打っていた。まるで生き物であるかのように、その小瓶は振る舞っていた。
ソリアにはわかる。心臓を移植され、魔術師になったソリアは、目の前の状況を理解できてしまう。
『こんなもののために、あなたは死んだんですか……?』
もう、これは人間ではない。治癒魔術だろうと復元できない状態にあることは、誰が見ても明らかだった。
要は、ナタリーの死に意味はなかったのだ。彼女が夢見た弟の自由なんて、最初から叶わないものであったということだ。
『手癖が少し、悪いようだね』
───突如真後ろから、声が聞こえた。
ソリアは咄嗟に声の聞こえた方向に腕を振るおうとし、
『鮮血術式:磔』
反撃の隙もなく壁に貼り付けにされる。ソリアの四肢は、赤黒い奇妙な液体によって、完全に拘束されていた。
『アリオト……!お前!』
『おいおい。盗みを働こうってやつが逆上するんじゃないよ』
ソリアは全力で拘束を振りほどこうとするが、まるでびくともしない。関節を縛っていた赤黒い液体はいつの間にかソリアの全身へと及び、その自由を奪っていた。
『なるほど。これを取りに来たのか』
『ナタリーの弟は生きているといったのは嘘だったんですか。お前は人の命を何だと……』
『言っておくけど、あの奴隷は最初から弟の状態を理解していたよ。そもそもこれは死んでいない。寧ろ彼女が望んでいたのは、これの死だ』
『そんなわけがないでしょうが!』
車椅子を引きながら、アリオトはプカプカと浮かぶ液体をやる気なく制御する。
あれは鮮血魔術だ。アリオトは、自分の血液を操ってソリアを拘束しているのだ。
『まあ、信じるも信じないも勝手だけどさ。別に君を殺してやっても良いんだ。リアにやる気を出させてくれたことには感謝してるけど、君は裁判の必須パーツじゃない』
完全に無力化されたソリアは、アリオトを睨むことしか出来ない。生殺与奪の権利は、完全にアリオトに握られていた。
『無駄死にはよくないよ。ソリア君はナタリーが死んだお陰で休息を得たんだ。彼女の死に意味を与えてやるべきだとは思わないのかい?』
溶けるような、甘いささやき声。それはソリアの心境に深く寄り添ったものだったが、だからこそ許せない論理だった。
殺意が漲る。
ここで全力の魔術行使をして、その首をもぎ取ってやろうかと思った。
『……本当に、ナタリーはこのことを知っていたんですね?』
頭を冷やす。磔にされた状態で、いったいどうやってこの男を殺すというのか。
そもそも魔術師であるという情報は、一度引き抜けば二度とは鞘に戻せないの諸刃の剣。仮にアリオトを殺せたとしても、保険として用意した計画が機能しなくなるのであれば差し引きマイナスだ。
『もちろん』
侮りに満ち溢れた表情を、アリオトが浮かべた。屈辱だった。
『それなら、いいです』
不服そうなソリアの態度に、アリオトが肩を竦める。しかし鮮血術式は解除され、ソリアは室外へ放り投げられた。
『次はないよ。部屋に近づいただけでも、確実に殺す』
そう吐き捨てたアリオトは、見えるところにはもういなかった。まるで瞬間移動でもしたのかのように、部屋から姿を消していた。
『ナタリー……あなたは何のために……』
ソリアが、地面を強く叩いた。ブルブルと拳を震わせながら、シワがついたカーペットを見つめていた。
完膚なきまでの敗北を見つめ……現在のソリアは、久方ぶりに口を開く。
「ナタリーは尊い死に方を選びましたが、その選択は何の結果も齎しませんでした。彼女に与えられたのは後悔だけです」
弟の生死を知っていたか否か、それは重要ではない。彼女の死が無意味であったこと、それのみが結果だ。
ナタリーがソリアに託した希望は、その時点で潰えていた。彼女が望んだ答えは、最初から何処にも存在していなかったのだ。
「あなたの家族も、中々趣味が悪い。エヴァイン家の一員であるというだけで、リアンシェーヌ様は罪人です」
「ソリアちゃん。もし、私たちの命でナタリーが報われるなら、私は───」
「報われませんよ。だから、代わりに罪人たちに報いを与えるんです」
勝負に勝てないのならば、盤上を破壊する。無様に敗北するよりは、ずっといい死に方だ。
「この復讐がナタリーの死に意味を与えると、本当にそう思ったのですか」
ソリアの視線が、過去から現在へと移る。リアンシェーヌは真っ白な、穢れ一つないドレスを着こなしていた。まるでその精神を映し出すかのように。
「単に、私がやりたいと思った。それだけです」
リアンシェーヌの鋭い眼差しを受けて、ソリアが鼻で笑う。
「ナタリーに出会う前から、私は復讐者でしたから」
自分はリアンシェーヌが思うような見上げた人間ではない。自らに当たり前の不条理が、許せなかった。それだけだ。
「……それなら、その前を見に行きましょうか」
世界が崩れていく。リアンシェーヌがまた別の記憶を見せようとしているのだろう。
のどかな風景だった。窓の外は畑ばかりで、天気ばかりがよくて、遠くの深い森林から鹿や鳥なんかが頭をのぞかせている。
故郷……ではない。これは、ソリアがエヴァイン邸から逃げ出した、その日のことだ。
ソリアは走って、走って、ようやく人間の住む場所にたどり着いた。追手もいないのに走りっぱなしだったものだから、のどが渇いて仕方がなくて、ソリアは自然と民家へと足を運ぶ。畑の目の前には木造りの屋敷と小屋があった。それ以外には何もなかった。
畑には水路が引かれていて、ソリアは躊躇いながらもそれを飲んだ。遠くに苔の香りがしたが、それでも美味しいと、彼女は思った。
喉が潤えば今度はお腹が空いて、ソリアは小屋に近寄った。乾燥途中の麦が積まれていて、ソリアはそれを一口齧った。噛めば、甘みがある。思ったよりも食べられるものだった。
『そこで何をしている?』
腹を満たすことに夢中になっていたからだろう。ソリアは呆気なく、屋敷の主人に見つかった。入口には数人の男がいて、逃げることは出来なかった。
サイズの合わない男用のローブを羽織って、ソリアは主人に追従する。主人は赤髪の青年で、猫背で、どうも覇気がなかった。
ソリアはビクビクと怯えながら、男がなにか言うのを待っている。
『ここで働くなら、飯を食わせてやっても良い』
主人はソリアを見下ろしながら呟いた。主人はそのままソリアをダイニングへと連れて行き、自分と同じ料理を奴隷に用意させる。
『食わないのか?』
不思議そうに、主人はソリアを見つめる。逆らう理由もなくて、ソリアはおずおずとスプーンを手に取った。
それが、初日。逃げ出して最初の出来事。
『あの、ええと、お兄さん。何か仕事があれば、て、手伝いたいんですけど』
主人と一夜をともにしたソリアは、昼になってもベッドから離れない彼に向かって、控えめに質問をした。屋敷の外に目をやれば、たくさんの奴隷が、監視に見張られながら農作業をしているのがわかる。働くことを条件として出されたのだから、何もしないわけには行かない。
『……向こうに、スーツを着た男がいるだろう。仕事のことは、あいつに聞けば良い』
ごろんと寝転びながら、主人は適当に答えた。言われた通りにスーツの男に仕事を貰いに行くと、ソリアは牛舎の掃除を命じられる。裸足で脱穀作業をしている他の奴隷たちと比べると、それはもう、楽な仕事だった。
『お兄さんは、ご貴族様なのですか?』
『俺はただの農夫だよ。エヴァインの領主様から、ここの管理を任されてはいるがね』
夜になると、ソリアは再び主人のベッドに呼ばれた。主人はどうも誇らしげだったが、彼が今日の殆どを寝て過ごしていたことを知っているので、印象は良くない。
『仕事はどうだった。大変ではなかったか?』
『楽しかった、ですよ。もうずっと、ここにいたいくらいです』
ソリアは主人に微笑んでみせた。会話はそこで終わったが、コオロギが鳴いていて、中々眠れなかった。高く昇る月を、ソリアが眺めている。
「この頃の私は、うじうじしていて気持ち悪いですね」
現在のソリアは、そんな過去を一蹴した。
こんな環境で満足していた自分が恥ずかしい。この男と暮らすということは、一生を奴隷と過ごすということでもあるのに。
「でも、この時のソリアちゃんは復讐よりも安息を望んでいました」
「生きるのに必死で、気が回らなかっただけですよ」
日が昇る。最後の朝だ。
この日ソリアは自分から脱穀の手伝いを申し出て、汗を流して働いていた。自分だけ楽をするのはおかしいと、そう思ったからだ。それなりに奴隷たちと打ち解けて、ああ、上手くやっていけそうだと、そう思った最中。
『執行官バルナード・アウイン。脱走奴隷の捜索に来たんだが、心当たりはあるかな』
白化粧の執行官が、農場へとやってきた。
ソリアは逃げる。主人を呼んでくると言って、部屋まで逃げる。
自分に気がある彼であれば、きっとどうにかしてくれるだろうと。
『お、お兄さん。執行官が、ここに来ていて』
ぶるぶると震えながら、ソリアは主人に縋った。同情を誘うために、目を潤ませていた。
主人は……それを見て、ソリアの期待通りに動く。屋敷まで入り込んできた執行官に一歩向かって、背筋を伸ばす。
『これは俺の奴隷だ。執行官だかなんだか知らないが、人様の奴隷を───』
『うるさいよ、君』
執行官が主人の頭を叩くと、鮮血が飛び散った。頭蓋骨がぼこりと凹んで、首がぐるりと、おかしな方向に曲がる。
『あっちゃー、殺しちゃったよ。やばいかなこれ』
出来上がった死体を見下ろしながら、執行官が後頭部を掻く。そして、呆気にとられているソリアに近づき、腕を掴んだ。
『まあいいか。ほら、死にたくなかったら早く来なよ』
強引に腕を引かれて、ソリアは連行される。死体になった主人を、屋敷に残して。
『私が欲張ったから……こんな、こんな』
手枷をつけられ、馬車に放り込まれたソリアは、離れていく屋敷をじっと見つめていた。涙を流すこともなく、ただ、静かに。
『ごめんなさい』
ガクガクと震えて、誰かに懺悔し続けていた。
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