第26話 理想の破片

 日差しが緩く差している。長く伸びる廊下には、仄かに湿った香りが漂っている。エヴァイン邸は樫の木の森に囲まれているものだから、少し風が吹くとその香りが運ばれてくる。

 白昼夢を見ている気分だった。廊下には使用人が歩いていて、ソリアには目もくれない。しかしそれも気にならない。自分が外様で、その上奴隷であるから当然だという、理路整然とした理由によるものではなかった。この廊下は、静かで、穏やかだった。いい天気だったのだ。

 振り向けば、扉がある。リアンシェーヌの私室だ。そのドアノブに無意識に手をかけたその時、気づく。いるはずのない場所に自分が存在しているということに。

 ───強引に扉を開ける。そこには当然のようにリアンシェーヌが座って待っていた。

「ここは?」

「私の部屋ですよ。忘れてしまったんですか?」

 髪を揺らして、リアンシェーヌはとぼける。

 どうも、記憶が曖昧だ。アルマを殺して、リアンシェーヌと対面し……そこから、どうなったのだったか。

 自分の服装を見る。汚れ一つないメイド服だ。あの状況から、自分がこんな風に着替えさせられるなんてことは有り得ない。

 精神魔術で幻覚でも見せられているのか……?

「ここは、記憶の世界です。ソリアちゃんの思い出を上映する、それだけの世界」

「……へえ」

 ナタリーの鼓動を感じない。魔術行使を試みても、何処かに力を吸われる感覚があるだけで、肉体に一切の変化を齎すことが出来ない。現実ではないのであれば、自らの肉体を変質させる鮮血魔術が使用できないのも、道理というものか。

 殴り合いをすれば勝てるかもしれないが、この空間で暴力行為をする意味があるかどうかは、かなり怪しいところだ。

「それで、私をどうするんですか?」

「ソリアちゃんにはこの世界を巡ってもらいます。自分の本当の願い事に気がつくまで」

 意図の読み取れない発言に、ソリアは訝しんだ。どう切り崩すべきかと思索していると、後ろからガチャリと、音がなる。

 入ってきたのは、自分自身だ。本を抱えて、リアンシェーヌに侍っている。二人は立ち尽くすソリアの身体を通り抜け、机の上に書類を並べる。

 まるで幽霊のようだった。手を伸ばしても、すり抜けてしまう。尤もこの場合、幽霊であるのは二人ではなく、ソリアの方なのかもしれないが……

『手伝ってくれて助かりました。一人運ぶのは、正直無茶だったので』

『お礼なんていりませんよ。そもそもリアンシェーヌ様が直々に運ぶという状況がおかしいのですから』

『助けてもらったらお礼を言う。あたり前のことです』

 身に覚えのある光景だった。確かエヴァイン家に買い取られた翌日に、グラースの訴訟が可能であるのかどうかを確かめようという話になったのだ。そこで、アリオトから裁判記録や法的文書をいくつか借りることになり、運ぶのを手伝った、そういう流れだったはずだ。

『これは調べるのがかなり面倒くさそうですね……ベンジャミンに任せるべきでしょうか』

 などと独り言を呟きながら、リアンシェーヌの幻影は書類を捲っている。かつてのソリアは、それを横目で見ながら、一言。

『ここにある本を少しお借りしてもいいですか』

 ソリアが興味を示したのは、調査とは関係のない魔導書である。基礎的な魔術原理について説明された、要は教本だ。

『構いませんよ。そこには機密文書なんてありませんし、好きに読んでください』

 リアンシェーヌは、振り向くこともなく言った。ソリアは悪い顔をしながら、それを手にとってめくる。室内は、すぐに静かになった。

「面白くもない場所ですね」

 リアンシェーヌは答えない。ベッドの上で座ったまま、上映される過去を眺め続けている。

『ねえ、ソリアちゃんって、夢とかあるんですか?』

『どうでしょう。考えたこともないですね』

 判例集を眺めながら、リアンシェーヌはソリアに声を掛ける。

 その声色には疲れが見えた。目当ての記録が見つからないらしい。

『ほら、奴隷になる前は、ソリアちゃんって勉強熱心だったみたいじゃないですか。何かやりたいことがあったってことですよね』

『家業を継ぐためにやっていただけで、別にやりたかったわけじゃないですよ。出来が悪いと放逐されてしまうので、仕方なくです』

 ソリアは教本から目を話すこともなく、気だるげに言葉を返す。

『それでも、なにか理想はあったはずじゃないですか。聞かせてくれませんか』

『理想なんてないですよ。あの頃はまだ幼かったですし……日常が続いていくだけで、満足でしたから』

 ソリアはそこで、ページを捲る手を止めた。瞳孔を揺らしながら、破けそうなくらいに力強く本を握っている。

『じゃあ、日常を作らないとですね』

『日常?』

『はい。満足できる日常を、作りましょう』

 リアンシェーヌはソリアの方に半身向けて、笑いかける。

『ソリアちゃんの友達を助けて、家族のところに戻って、新しい日常を始めるんです』

 こんな話、しただろうか。自分はこれに、なんと答えただろうか。

 思い出せないなと自分の反応を待つ。彼女は、結局答えなかった。まるで時が止まったかのようだった。

「やっぱり、心残りだったんじゃないですか?」

 リアンシェーヌが立ち上がり、ソリアに近づいてくる。なるほど納得だ。つまり復讐をやめて、故郷に帰ろうと、今更な提案を彼女はしたいわけだ。

「わあ!すっかり忘れていました。今すぐに二人で、新しい日常を作りにいきましょう!」

 ソリアがあざとく答えると、リアンシェーヌは寂しそうに目を伏せて、黙る。

 どうやらまだ、この空間からは出してくれないらしい。

 リアンシェーヌが指を鳴らすと、世界が崩れた。足場がガラスのように砕け散り、ソリアは激しい浮遊感に襲われる。しかしそれも一瞬で、気づけばソリアは牢屋の目の前にいた。

 ───寒い。そして今となっては、懐かしい場所だ。

 『インスタントエンジェル』の奴隷倉庫である。

 檻の中には、見覚えのある二人の少女。自分と、あともう一人は……

『ヴァルダリアは、雪が降るところでして。冬は食料が不足するんです。春前にはよく、泥棒が出たんです』

 弱々しい、泣き虫みたいな声。しかし馴染み深い、友人がそこにいた。

『私の家は、元々貴族で街で一番に裕福で……大きな地下室があったから、盗まれないように街の食料を預かったりしてたんですよ』

 日はもう昇っているが、今は店が定めた就寝時間であった。カーテンなんてないので、日差しがかなり、眩しい。

『子どもなのに私は力が強いからって、見回りとかをさせられて。吹雪の中一人で、門番もさせられたんですよ。最悪でした』

 ナタリーは相変わらず、楽しくなさそうに自分のことを話している。顔には殴られた痕があって、こうも毎日ボロボロの状態で返ってくるのは最早才能だと、かつての自分は感心したものだ。

『私のことを心配してくれるのは、弟だけで……みんな酷かった。普段は親切なのに、みんな家に引きこもってるんです』

 自分は、そら寝をしていた。目は見開いているが息を潜めて、ナタリーが黙るのを待っていた。不機嫌そうだ。

『あんなに嫌だったのに……今では恋しくなるから、不思議なものです。もう一度あの仕事をするってなったら、絶対また嫌なきぶんになるのに』

『あの、いつまでその話するんですか?もう、就寝時間ですよ』

 とうとう耐えきれなくなって、自分は背を向けたままナタリーに嫌味をぶつける。

『明るいうちに寝るの、苦手で……お話しない?』

『話がしたいなら、もっと明るい話をしてください』

 ほんの少しのあざとさを見せたナタリーに、自分はため息を吐いた。黙れとは言わなかったのは、きっと、自分がナタリーを気に入っていたからだろう。

『えっと、じゃあちょっと面白い話、するね。昔、仲の良かった将校さんが……もう死んじゃったんだけど、その人が』

『あー、明るくない。もうその時点で駄目です。最悪』

 笑っている。ナタリーはショックを受けていたが、自分は確かに、笑っていた。彼女の話はつまらないと、いつも思っていたはずなのに。

『……ねえ、ナタリー。やっぱり一緒に逃げ出しませんか?あなたの力があれば、絶対にうまく行きます。何なら、私が囮になってあげても良い』

 この時はそうだ。自分はアルマを殺してやろうなんて思っていなかった。殺せたならそうしていたが、機会がないものだから、半分諦めていた。事件でも起こしてアルマの名誉を傷つけてやれればそれでいいと、そう考えていたはずだ。

『何の理由があってここに来たかは知りませんが、うじうじしてても仕方ないですよ。恋しいなら会いに行くべきです』

 ナタリーは魔術師だ。自分と違って彼女は自力で逃げられるし、逃げ切る能力もある。ナタリーは、自分が求めてやまなかったものを持っていた。

『できません』

 強い意志が込められた返答。

『どうしてですか。弟はまだ生きているかもしれないんでしょう?』

『帰るべきところがないから』

 平坦にナタリーは呟く。

『ふーん』

 連合国はアズレアに負けた。ナタリーの故郷は、おそらくもう存在していないだろう。会っても仕方がないと、そう思うのは理解できる。

『じゃあ、別の夢を探せば良いんじゃないですか?』

 できないことを夢想しても、虚しいだけだ。ナタリーの郷愁が叶わないものであるのなら、実現可能な理想を用意するしかない。

『前も言いましたけど、私は死ぬ前に大きな事件を起こすつもりなんです。脱走の機会は必ず作ります。そこで、新しい故郷を作る気はありませんか』

 ソリアはもう一度ナタリーを勧誘する。

 復讐は、この環境でソリアが獲得したたった一つの夢だ。そして唯一の楽しみでもある。

 ソリアは寝返りをうって、ナタリーの手を握った。彼女には、幸せになって欲しい、打算抜きで思った。しかしソリアは、反応のないナタリーを見て、悟る。

『げ、寝てるし』

 眠れないというのは何だったのか。ナタリーはぐっすり眠っていた。しかしソリアは呆れながらも、ほんの少し優しげに、口角を持ち上げていた。

「どうしてナタリーは、復讐を選ばなかったんですかね」

 リアンシェーヌが声をかけてきた。知ったような口で、馴れ馴れしく。

「……弱虫だからですよ。弟の死と向き合う覚悟が、ナタリーにはなかった」

 ナタリーに視線を戻す。腫れ上がって、ブサイクな顔だった。

 自分の商品価値を下げるために態と食らったのだろうが、しかし、あれではかなり痛むだろう。オークションへの出品日を早めるためであるのなら、もっと楽なやり方があっただろうに。

「結局ナタリーは、私に後を託しました。自分の選択を後悔して」

 檻の外から差し込む光が、チカチカと点滅する。時間が加速しているのだ。

 やがて、二人はナタリーとの別れの記憶にたどり着く。

『自分の選択が間違ってるって、私、本当は知ってるんです。力ばっかりはあるのに、それでも生き方を変えることはできなくて、私、逆らえなくて』

 ぼとぼとと血を零しながら、ナタリーがソリアに覆いかぶさっている。術式を移植される、その寸前の記憶だ。

 ナタリーは涙を流しながら、自らの心臓を、ソリアの体内に移し替えている。

『でも、ソリアさんなら、違う生き方ができる。正しく力を使えるあなたなら、あなたが答えを教えてくれるなら。私の……使い潰されるだけだった私の人生に、きっと、きっと』

 こう、見ていると……ナタリーはつくづく中途半端だ。その力を震えば、カリアの街を蹂躙することが出来た。ソリアに出来たのだから、ナタリーに出来ないはずがない。

『ごめんなさい』

 ナタリーは、ソリアの頬に優しく口づけをした。唇を震わせて、気を失ったソリアを見下ろしていた。

「ナタリーに見せる答えは、本当にこれで良かったんですか?」

 リアンシェーヌが、知った口でソリアに肩を寄せた。人の記憶に土足に踏み込んでいる自覚が、彼女にはあるのだろうか。

「もちろん」

 ナタリーは死んだのだから、答えを教えることは出来ない。ソリアにできるのは、ナタリーとは違う人生を送り、世界に証明することだけである。

『長生きしてくださいね』

 ナタリーが名残惜しそうに付け加える。聞き覚えのない言葉だった。本当に、聞き覚えのない……

 気づけばソリアは、服の裾を握りしめていた。

 

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