第22話 執行官

22 執行官


 どれだけ追いやっても、人は夢を見て首都に集う。それであればいっそのこと、彼らのための出入り口を用意しようと、アズマリス王家は決定を下した。故にアズレアには、貧民街と呼ばれる場所がカリアにしか存在しない。それはこの街が、首都に接する都市の中で唯一、六賢による圧政から免れているからである。

 カリアには法がない。厳密に言えば法はあるが、罰がないのだから罪がない。違法に建築されたそのボロ家の眼の前で、今日も彼らは我が物顔で商いをする。売られるのは酒であったり麻薬であったり、人間であったり。値段をつけて取引できるものは、きっとすべてここにあった。

 時刻は深夜。色街と異なり、ここはそう明るくはない。精々、ろうそくで店の手前を明るくしているくらいだ。

 貧民街の、奥の奥。裸の人間が立ち並ぶ、奴隷市場があった。皆、足かせや手枷をつけられている。しかしソリアは表情一つ変えずに、その中の一番入りやすい露店に入った。

「な、なんだ」

 血だらけのソリアに慄きながらも、店主は口を開く。しかし言葉が最後まで紡がれることはなく、彼の頭は一瞬にしてすっ飛んでいった。ソリアがナイフを振るったのだ。

「そろそろ飽きてきましたね」

 手枷だとか足枷を切断するのは、彼女にも手間であった。力を込めれば壊せるが、それはワインのボトルを開けるくらいの手間がかかる。

 みれば、店主の腰には鍵がぶら下がっている。ソリアはそれを勢いよく引き剥がし、奴隷の一人の眼の前に投げた。

「あとは自分で、どうにかしてください」

 投げやりに呟いた、その直後だった。ソリアの影が長く伸びる。

「はじめまして。俺様は執行官マルカブ・エルロント」

 燃えている。その男の体は、真っ赤に燃えていた。炎に焼かれているのではなく、彼自身が燃えている。

「いざ尋常に勝負って言いたいところだが、規則だからな。魔術師であるお前には、犯罪者であろうと生存の権利がある。どうだ、大人しく投降する気はないか?」

 マルカブの言葉を無視して、ソリアは観察する。肉体を変質させている以上、あれは鮮血魔術に分類される。であれば術式の模倣も可能なはずだが、どういう原理か全く理解できない。

「それ、どうやってるんですか」

 マルカブは眉をひそめる。そんな雑談をする状況ではなかったからだ。

「タンパク質の構造を変化させるのさ。まあ、俺様も理論を完璧に理解しているわけじゃないんだが……」

「ふーん。冬場には快適そうですね」

 ナイフを構える。納得できる答えが出た以上、問答はもう必要はない。マルカブの提案にイエスという選択肢は、ソリアに存在していない。

『鮮血術式:疑似展開』

 ソリアは、迷わず鮮血術式を展開した。

「そうかよ。じゃあ、俺様が温めてやらないとなあ」

 マルカブが斧を構えると、ソリアは僅かに息を呑んだ。燃え上がる彼の姿に、逃げるという選択肢が脳裏に過る。だが、それ以上に。

(負けられない……)

 グラースからの敗走。その屈辱が、ソリアの闘争本能を刺激した。

「禁術指定の十:単純虐殺の抵触を確認した。これより六賢の威光のもと、執行権を発動するぜ」

 マルカブが呟いた瞬間、彼の体温が急上昇する。その熱波によって、急造のボロ家たちは一瞬にして燃え上がった。

「下民の駆除もできて一石二鳥だなぁ!!!」

 マルカブが斧を横に凪いだ。当然ソリアは後ろに避ける、が。

『火炎術式展開』

 彼の纏う炎は、前方に勢いよく飛ばされた。いかに斧を避けようとも、後にくる炎の斬撃は回避できない。そして、実体を持たない炎を弾き返すこともまた、不可能であった。

「あっついですね」

 悪態をつきながら、ソリアは前に出る。細胞が焼ける痛みに顔をしかめながらも、彼女は必死にマルカブへと肉薄する。

 呼吸をすれば肺が焼ける。目を開けていれば眼球の水分が蒸発する。であれば、ソリアの勝利は短期決戦しか有り得ない。

『鮮血術式:律動』

 表皮を硬化させ、肉の内側を炎から守る。筋肉を増大させ、ナイフを握る右腕に意識を集中させる。

 左側より迫る戦斧の軌跡。それを横目で認識しながらも、ソリアは目前の外敵の排除を優先した。

 ナイフと斧。速度であれば軽い獲物を持つものが有利。

 第一、彼の斧の行く先は急所から外れていた。であれば、その首を落とすことにすべてを賭けたソリアが負けるはずはない。

 マルカブの首元にソリアのナイフが入る。遅れて、彼女の腹部は戦斧によって切り裂かれた。

 しくじった、とソリアは思った。腹部の傷は浅い。あの全身が燃え上がる男のお陰で、傷口も焼け焦げて出血が少ない。

 しかしそれは、マルカブも同様だった。

 ナイフは、マルカブの中間地点に刺さったまま止まっていた。断ち切れないと理解した瞬間に、回避のために途中で手放してしまったのだ。

「て、てめえ!!」

 マルカブは左手でナイフを抜き取り、後方に武器を投げ捨てた。

 首元の炎が弱まっている。ドバドバと首元から血が溢れている。

 まだ負けてはいない。修復速度は、グラースよりもずっと下だ。

「執行官というのも、たいしたことないですね」

 手応えはあったが、マルカブの首を断ち切れなかった。その肉が急に硬化したからだ。

 しかし裏を返せばマルカブは、防御に魔術リソースを常に回しているわけではない。炎が弱まったのがその証拠だ。あの馬鹿みたいに燃えている身体のせいで、身体強化が疎かになっているのだ。

『鮮血術式:形成』

 腹部からこぼれ落ちた血液を加工して、ナイフを製造する。

 切れ味は先程のものより一段落ちるが、しかしそれで十分。次はもう躊躇わない。その燃える身体のすべてに攻撃を叩き込んでやるだけだ。

 もう一度、マルカブに肉薄する。炎の領域が再展開され、全身が焼ける。

 しかし、それはつまり、マルカブの防御が甘くなっている証左。

 振り下ろされる斧を、血のナイフによって弾く。この体格差、年齢差の中、おかしな話だが力の上でソリアはマルカブを上回っていた。

 マルカブの肩口が切り裂かれる。切り口は甘い。

「こんな攻撃ごとき!」

 マルカブの胸元が切り裂かれる。切り口は甘い。

「俺様は執行官だぞ!」

 腹が、腿が、肘が、切り裂かれる。切り口は甘い。

「お前なんかに……」

 首元が再び切り裂かれる。切り口は甘い。甘いが……

 気づけばマルカブは、ソリアの動きに全くついていけなくなっていた。

「死ね」

 膝をついたマルカブの頭を、ソリアは容赦なく切り落とす。血が飛び散り、炎の中に消える。

 ソリアは叫んだ。勝利の咆哮だった。

 聞き届けるものはいない。奴隷市は火の海で、生き残るのは彼女一人だったから。

 斧を拾い上げて、星を見上げる。

 そこに輝く一等星は、立ち上る煙に隠されていた。

 ♢

 ユリアナは護衛対象であるリアンシェーヌをカリア邸の客室に放り投げ、契約書に魔力を通す。

 六賢ルミナス・フレインの肉と皮によって作られる奴隷契約書は、魔力を通すことによって修復機能が発動する。元の形に戻ろうと、その皮が張り付くべき肉に引き寄せられるのだ。奴隷紋を

「私は、最初から反対だったのです」

 この場にはいない主人を、ユリアナは呪った。そもそもソリアは、なくても成立した手駒だ。ナタリーが魔術師である証明は、あれの弟だけで事足りたというのに……。

 しかし、何もしなければ不自由のない人生を送れたというのに、愚かな女だ。あんな事件を起こさずとも、グラースの失脚は確定していた。彼女のせいで綻びが出ようとしているが、それまでは元々、勝てる戦いだったのだ。

 この事態。オークション会場での戦闘の痕跡。そして暴動を誘発したというこの状況。彼女が何処に所属する魔術師であるかは定かではないが、エヴァイン家の敵であることは間違いない。

 多少不利になろうとも、ここは始末するしかないだろう。執行官であるユリアナには、魔術師殺しの権限がある。言い逃れる手段はいくらでもあった。

 契約書が指し示すまま、燃え盛る貧民街に飛び込む。都市部でも火災が起きてしまったせいで、消火が間に合っていないようだ。

 ある程度進めば、炎の大きさも落ち着いてくる。火の手が迫っていないのではなく、燃え尽きているのだ。

 しかし、焼け崩れたにしては早すぎる。火災が起きてからそう時間が経っていないというのに、家屋が原型を留めていない。

 道という道は瓦礫の下で、どうにも走りづらかった。苛立ちからか、ユリアナは邪魔な瓦礫を蹴り飛ばそうとして───目があった。

「マルカブ?」

 焼け焦げた生首だ。しかしどうしてか、それが彼であると気がついてしまった。

 決して良好な関係ではなかったが、しかし一時は学友として剣を交えた。それが、このような場所で息絶えていることに、ユリアナは少なからずショックを受けた。

 埋葬する暇はない。珍しいことでもない。

 しかし、覚悟は決まった。ソリアは必ず殺さなければならない。

 契約書は教会を指し示していた。ここ十数年でグラースが急造した、搾取のためだけに存在する、薄汚れた白い巨像。

 火の手はここまで回ってきていない。しかし窓からは煙が上がっている。

 ユリアナが扉を開ける。

 やはり、礼拝堂は燃え盛っていた。その奥に佇むのは、修道服を身に纏う女。生きている人間は、他に存在しない。

「グラース卿、なぜここに」

「ここは、私の教会よ?」

 互いに一方通行の会話。殺気を放つユリアナに対し、グラースはどうも無気力だった。

 罠にかけられたのかと思ったが、どうにも違う。

 ユリアナが、周囲を今一度確認する。おかしい。契約書が引き寄せる力の大きさからして、ソリアはすぐ近くにいるはずだ。これほどまでに強く、契約書が真下に引っ張られ……真下?

 ユリアナが地面を見下ろすと、死体の山の中に胎動するものがあった。ひとかけらの肉片が、どくんどくんと脈打っている。

 直で見るのは初めてだが、これは恐らくルミナスの───

「あの女ァ」

 自力でやったのか、誰かの助けを借りたのか。少なくともこれで、ソリアの捜索は不可能になった。しかもユリアナの目の前には、敵対するグラースが立ちはだかっている。

「一騎打ちがお望み……というには妙な場所建てですね」

 ここは、グラースの管理する教会だ。被害者の立場を得るためだけであるのなら、中にいる人間まで殺してしまう必要はない。

 ここに来るまでに十分に思い知らされたが、カリアへの被害が大甚大すぎる。グラースにとっても、この土地は有用であるのだから、ここまでする必要はない。

「この教会は、私が築いたのよ」

「……そんなことは知っています。目的を尋ねているのです」

 場所の説明を求めたわけではないのだが、グラースは炎の中のマリエル像を見上げている。相変わらず、彼女からは漏れ出るべき剣幕というものがない。既にユリアナの間合いに入っているというのに、身構えてすらいない。

「弱者救済の終着点を困難からの自立と仮定した私は、30人の孤児に借金をさせて、この教会の運営を任せたわ。彼らは私が望んだ通り、財政を立て直し名実ともに教会の管理者となった」

 どうやら、雑談がお望みであるようだった。グラースは礼拝堂に転がる死体を見下ろしながら、抑揚なく、過去を語る。

「教えを説く場所にはならなかったわ。でも、弱者のための医療施設としては、重要な機能を果たした。まともな魔術師を雇えなかったから治療は粗末なものだったけれど、彼らは善意から格安で治療を行い、結果的に他の医療機関を潰すに至った」

「そんなに綺麗な話ではないでしょう」

 ユリアナが突っ込むと、グラースの視線が死体から動く。彼女が初めて、ユリアナに感情を刺激された瞬間だった。

「確かに、堕落は一瞬だったわ。症状が再発するように、表層的な治療のみを行うことが取り決めとなった」

 教会は本来、無知なるものに論理を与える。善悪を定義し、それを守る理由として神を階層を定義し、報酬として楽園を定義する。それは善なる人々にとって、不幸を耐え忍ぶ十分な理由になる。

 ではなぜ、この教会は汚職に塗れたのか。

「それは善なる行いではないけれど……責めることはないわ。彼らは貧しさからの脱却のために、他者を切り捨てたというだけ。ただ、失敗したと思ったわ」

 この土地に住む全ては、少なからず悪行に手を染めていた。生まれたときから、そうせざるを得なかった。であれば論理と命が天秤にかけられた時、正義のために死ぬことは誰にもできない。神を信じることは、自らの破滅そのものであるからだ。

「幸福には、犠牲が必要なのよ。苦しみの中からその場所を目指すなら、必要な犠牲は、さらに深く……あの奴隷も、不足した分を取り返すのに必死なのね」

 グラースは神を信じていない。教義は秩序の論理であり、実行したところで報われないと信じている。それでも修道服を着るのは、その論理が人の善性の証明であると、知っているから。

「つまり、この惨状は不本意だと言いたいのですか」

 要領を得ない語りを続けるグラースに、ユリアナは結論を求めた。グラースは敵であるが、彼女に戦闘の意思がなくソリアとも無関係であるなら、今は戦うべきではない。外敵の撃退よりも身内の暴走を隠蔽することが、現状の最優先事項である。

「これを惨状と呼ぶことは私にはできないわ。善悪は公平の中でしか論ずるに値しないし、幸福は美徳よりも優先するべき権利なんだから」

 ユリアナが顔をしかめる。つまらない話を聞いていても仕方がないと、ユリアナがこの場からの離脱を決心した、その瞬間。

「規律を守るのはもうやめね。法という矮小なシステムの中では、救済の実行は不可能だと、今理解したわ」

 グラースの全身から、漆黒の魔力が放たれた。

「凄惨であるのは、幸福を目指すことが悪となる世界そのもの。万人が幸福を得るには、誰かが穢れを背負わないといけないのね」

 その魔力の性質は、修復。この場に転がる全ての死体が、元の状態への回帰を試み、試み続け……最後には肉体すら消滅する。

 それは、生まれ落ちたという事実を消し去るほどの奇跡。破壊ではなく、逆行による抹消。それだけの神秘の籠もった魔力に当てられながらも、ユリアナは平然と佇んでいた。

「ああ、何。結局やるんですか」

 ユリアナが剣を構える。常に魔術によって肉体を進化させ続けている彼女にとって、修復の魔術は脅威にはなり得ない。

 しかし、グラースもそれは承知の上だ。魔術師殺害の任務を任される執行官が、この程度の力で打倒できるはずがない。

「実力行使よ!今日ここで生まれる全ての不幸を、私が消し去ってあげるわ!!」

 グラースは天上を指差し、声たかだかに宣言する。

 彼女に神はいない。であれば天上で彼女を肯定するのは、彼女自身であるのだろう。

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